錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

信長と平手政秀

2014-05-24 09:32:44 | 織田信長
 私の大好きな錦之助映画に「紅顔の若武者 織田信長」がある。
 錦之助初めての汚れ役である。とは言っても、途中で、颯爽と変身。錦ちゃん得意のメタモルフォーゼだ!! お寺の名前は何と言ったか(最近物忘れが激しい)、正徳寺だ。そこで初めて、お舅の斎藤道三とまみえることになり、裃姿に着替えた信長が袴の裾を引きずりながら廊下を歩いていく。そのバストショットが映し出され、ぐいっとキャメラが寄り(キャメラマン坪井誠得意の移動撮影)、なんとも凛々しい錦之助の信長の顔のアップ。「やった!」と思わず声を上げるのは私だけであるまい。錦之助の顔は薄い白塗りで、唇に紅を塗っていた(白黒だが)。目張りはちょうどよく(以前は入れすぎのこともあった)、額と髪の生え際のラインがくっきり見えた。頭髪は、茶せん髷というのか、源義経とは全然違う。時代が違うので当たり前だ。
 会見の間では、道三の進藤英太郎が座って待っていて、信長を見るや、びっくりこく。「むこ殿」とか何とか言っちゃって、態度豹変。この時の錦之助のセリフ回しが、吉法師の時とまったく変え、ちょっと歌舞伎調で(と言っても錦之助独特の映画的な話し方)、気品と威厳があった。真面目くさって演じている錦ちゃんが目に浮かぶ。道三と信長のこのシーンは、何度見ても、面白い。錦之助が観客を驚かしてやろうとたくらんだ芝居で、錦之助もあとでうまく行ったとほくそえんだに違いない。進藤英太郎もさすがに名優で、その慌てぶりのうまいのなんの。錦ちゃんとの息の合った掛け合いは、演技の妙。この映画でいちばん笑えるシーンだった。
 「紅顔の若武者 織田信長」は、名場面が多い。錦之助は決して逞しくなく、なで肩で女性的な体つきである。それが、茶色いドウランを体中に塗りたぐり、セリフもわざとぞんざいに言って荒々しさを出そう努め、新たな演技に挑戦した錦之助。お見事でした。拍手!
 月形龍之介の平手政秀が素晴らしかった。若き信長を暖かく見守り、「わこは天下をとる器」だと信じて、期待をかける政秀。月形と錦之助。二人の名場面はたくさんあるけれども、私は、平手政秀と信長をベスト・スリーに入れる。
 この映画、録画したDVDを3年ほど見ていないので、今書いていることは全部記憶に頼っている。確か、政秀と信長の二人だけのシーンで、信長(吉法師)が自分の将来の志を語るところがあった。政秀の月形が、聞き役にまわり、「それで?」と何度か言い、信長の話を聞きながら、目を輝かしていくところがあったと思うが、その時の月形の表情の変化が私の目に焼きついている。それと、諌死する前の晩に、信長を囲炉裏端に残し、寂しく廊下を去っていく月形の後姿が忘れられない。
 この映画では、信長の奥方・濃姫役の高千穂ひづるも頑張っていたが、高千穂さんの演技はこの頃はまだどうしても宝塚的な感じになっていた。こんなことを書くと高千穂さんに叱られるが、ちょっと学芸会的な芝居になってしまうのだ。松竹へ移籍してからの高千穂さんの方が演技は数段進歩しているが、錦ちゃんファンはあまりご覧になっていないようだ。
 戻って、私がなんでまたこの映画のことを書こうかと思ったその動機は、昨日、書庫から古書を引っ張り出してめくっていたら、平手政秀が信長へ宛てた「死諌の書」というのが目に留まったからである。以下、「新撰 書翰集」(有朋堂文庫 大正7年)から引用して、私の拙い現代語訳を添えておく。

臣謹(つつしみ)て啓上奉るの旨趣は、偏(ひとえ)に主家の高運を寿(ことぶ)き願ふの外に他義なし。(家臣である私がご忠告申し上げる主旨は、ただただお家のご家運めでたしと願うことのほかありません)
それ今列国瓜(うり)の如くに割け、海内闘争の巷と成り行けば、血路を踏まざる無し。(今は諸国が瓜が割れるように引き裂かれ、国中が闘争のちまたとなってしまい、敵を打ち破って進むしか道がなくなりました)
(あま)つさえ各国の諸将、浅井、朝倉、今川、北條、武田、上杉、佐々木、斎藤の面々、威を震ひ権を争ひ、相互に天下を併呑せんと欲するの時なり。(それでなくとも各国の武将、浅井、朝倉、今川、北條、武田、上杉、佐々木、斎藤の面々が、勢威を増し、権力争いをして、それぞれ天下を統一しようとしている時であります)
君は行状を誤まり無名の刑罰を下して管内に布き及ぼし、怨おうを持ち、万民を酷虐す。(あなた様は行ないを誤り、いわれもなき刑罰を下し、国内に布告し、冤罪をもって万民を虐待しています)
悲しい哉悼ましい哉。(ああなんと悲しいこと、いたましいことでしょう)
当家の滅亡は此時なり。(当家の滅亡もこの時です)
臣つらつら旧き事を懐(おも)うに、当国吉良大浜の合戦に君は初陣して、今川義元の逞兵(ていへい)を破り、名誉の功績を顕はし給ふ。(つらつら昔のことを思い出しますと、当国は吉良大浜の合戦であなた様が初陣なさって、今川義元の強兵を破り、名誉の功績をお挙げになりました)
しかるより以来、諸処の戦功は、全くあっぱれ御大将の器量備はせられ、一族侍臣の歓喜は斜ならず。(その時以来、あちこちで上げた戦功は、まったく天晴れで、御大将の器量を備えられ、一族臣下の喜びは非常に大きなものでした)
然るに、故信秀公の逝去の後は、専ら非分の令を施し、就中(なかんづく)往来の僧侶を捕へ禁獄せしめ、かつて萬松寺に追福の設けを為す事、是れ軽卒の至り、奇怪の一事と謂ふべき者也。(それにもかかわらず、故信秀公の逝去のあとは、もっぱら道理にかなわない命令を下し、とくに往来にいる僧侶を捕え投獄し、かつて萬松寺で追善の宴を催したことなどは軽卒きわまりなく、奇怪なことというべきものでした)
臣いやしくも君を繦褓(きょうほ)の中より御乳母為れば、之を見るに堪へず、屡々諫言を奉ると雖も、敢て容れられず。(私はいやしくもあなた様がおむつをなさっている頃から養育させていただいた者ですから、こうしたことは見るに見るかね、しばしばお諌め申し上げましたが、お取り上げくださりませんでした)
然るときは即ち当家破滅の基を目撃し、然るより国家陥る時に至り、死後に何の面目有て先君に謁し奉るべきや。(ここに至って、当家が破滅する証左を目撃し、国家が陥落する危機に際し、死後に先君信秀公にお目にかかる面目もありません)
是に於て一命を抛ち史魚が死諌の誠を顕はし、一紙を残し、愚息監物をして遺言せしむ。(そこで一命を捨て、老いたる私が死んでお諌めするという誠を尽くし、この紙に書いて、愚息の監物に遺言いたします)
政秀は戦場に非らずして徒らに命をかへし亡せば、遺憾の情は謂ふ計り無し。(政秀は、戦場ではなく無駄に命を捨てるのですから、遺憾の気持ちは言葉に表しようもありません)
君愛憐を垂れて、九牛の一毛も此書に依て放逸の御心を翻へし、能を挙げ侫(ねい)を退け、庶民を撫恤(ぶじゅつ)し、寛容にして淳朴を守り給はば、織田家の累代の不朽の嘉瑞(かずい)疑ひ無し。(あなた様の憐憫の情をたまわって、少しでもこの遺書によって、あなた様が放逸のお心を改め、能力ある者を生かし、へつらう者を退け、庶民を慰めいたわり、寛容さと純朴さを忘れずにいていただければ、織田家子孫の永遠の瑞祥は疑いありません)
恐惶再拝。(敬白)

 平手政秀は、織田信秀、信長の二代にわたって織田家に仕えた重臣であった。信長より40歳も年上で、信長が誕生した頃(1534年)からのお守役で、信長が14歳で初陣した時には後見役を務めた。斎藤道三の娘濃姫を信長の嫁にするのを画策したのも政秀だった。信秀は元服した信長に那古野城を譲り、自らは末森城に移るが、間もなく病死する(1551年)。
 その後、兄弟間の血族の争いが続く。
 平手政秀が諌死するのは、1553年初めのことだった。享年62歳。この時、信長は20歳。
 桶狭間の戦いが、1560年で、その7年後であった。

 

近況と雑感~夏に向けて

2014-05-24 06:39:48 | 錦之助ファン、雑記
 3ヶ月近く、間が空いてしまった。
 有馬さんの上映会は、予想以上に盛況だった。10日間で確か3,200人ほど入場数があったと新文芸坐のチーフの矢田さんから聞いた。有馬さんは10日のうち4日、新文芸坐にいらして、トークをしたり、本にサインをしたり、映画を見たり……。

 
新文芸坐での有馬さんのトーク
 
 私は、トークの聞き手を務めたほか、有馬さんの住んでいる新横浜のマンションへ朝、車でお迎えにいき、終るとまたお送りした。私の杉並の自宅からは、車で行くと40分くらいだった。環八を南下して、高速の第三京浜へ入り、新横浜の出口を出ると、有馬さんの住んでいるマンションへは5分で着く。高齢者専用マンションというが、老人ホームのようなものとは全然違う。入居資格が、確か60歳以上の元気な方というだけで、住んでいる方はみんな、自由に生活している。大きなマンションで400室ほどあると聞いた。マンション内に食堂があって、学校の給食のように1ヶ月のメニューが配られ、昼食と夕食が出るそうだ。ただし、これは食べても食べなくてもいいが、食費は払うとのこと。マンションの玄関の近くに私は車を停めて、待っていると、仕度をした有馬さんが出てこられて、出発する。新横浜から横浜新道へ入って、環八の東京出口までは15分とかからないのだが、そこから池袋までが1時間近くかかる。駒沢通りから山手通りを北上して、という経路。
 車の中で、有馬さんとはいろいろ話した。上映する映画のことや錦ちゃんのことより、世間話が多かった。公にはできない話もお聞きした。
 有馬さんには、3日間、トークとサイン会をお願いした。1日はお忍びで、土曜日に「かあちゃんしぐのやだ」と「わが愛」を見にいらした。なにしろ、有馬さんはこの2本の作品が好きで、どうしてもまた見たいとおっしゃって、マンションの住人の方の車に乗せてもらって、わざわざいらしたほどだった。
 上映会の10日間は、私も大変だったが、楽しく過ごした。1日は、石濱朗さんのトークがあり、1日は、高千穂ひづるさんのトークがあった。私が聞き手を務めた。
 高千穂さんからは、たまたま有馬さんの上映会が始まる2週間ほど前に電話があり、有馬さんの上映会なら是非トークをなさりたいということだったので、急きょ、お願いした。高千穂さんとは確か半年ぶりにお会いしたが、お元気で安心した。有馬さんとはまったく違って、飄々としたトークがお客さんに受けたようだ。サイン会では、高千穂さんと私が共同で作った「胡蝶奮戦」が30冊も売れて嬉しかった。収益は全部、高千穂さんに差し上げたが……。


新文芸坐の前で高千穂さんと

 そんな次第で、上映会中は私も気が張っていたのだろう。終ると、その反動で、疲れがどっと出た。
 しかし、そうも言ってられない経済的事情もあって、すこしお金を稼がなければならないなと思い、私の出版社から出した本でただ1冊のロングセラー「ダジャ単」を重版した。3000部である。
 まず1000部くらい売らないと重版の印刷製本費が払えないので、4月からウィークデイは毎日ずっと、電話で書店営業をしている次第である。午前中1時間、午後3時間くらい、自宅の机にへばり付き、全国の書店(販売データがある)へ電話を掛けまくり、在庫の確認と補充の依頼をしている。一日、平均30冊は注文が取れる。この50日間で、販売目標の1000冊は到達したので、これからようやく儲けが上がってくることになった。
 夕方からは暇になるので、読書と、私のもう一つのブログ「背寒日誌」に「写楽論」を書いてきた。そっちをご覧になった方はご存知かと思うが、32回ほど書いて、あと5回ほど書けば、一段落するような気がしている。
 
 そろそろ、錦之助の方へ戻りたいと考えている。
 「中村錦之助伝・上巻」は、2000部作ったが、今のところせいぜい400冊くらいしか売れず(そのうち120冊は新文芸坐での錦ちゃん祭りで売れたもの)、錦之助映画ファンの会から資金援助をしていただいたので、やっと制作費がまかなえたものの、私のもろもろの費用はまったく回収できていない。おそらく回収できないと思うが、それでも仕方がないと諦めている。
 取次店(問屋)へは書店からの返品もあり、ダンボール箱にいっぱい入った「錦之助伝」を持って帰るときの悲しい心境は、著者で出版元の私でないと分からないかもしれない。深いため息が出る。
 時々、書店から下巻はいつ出ますかと電話が掛かってくる。上巻を買ってくれたお客さんが書店員に尋ねるらしいが、「あと1年くらい先になると思います」と答えることにしている。しかし、自分ではどうなることか現在のところまったく見当がつかないでいる。
 集中すれば、また書けそうに思うが、下巻は、大変だなあと思うと、気が重くなる。しかし、最近は、なんでもいいから錦之助映画のことをまた書き始めようかなと思い始めている。

 4月17日に私は62歳になったが、その翌日に悲しいことがあった。愛犬(柴犬)の駒子(通称ココ)が急死したのだ。数えで13歳だった。昨年は、愛猫の小夏が亡くなり、半年も経たずに、ココが亡くなった。今でも思い出すと、胸が締め付けられる。
 庭にお墓を掘って、埋葬した。火葬は嫌だった。
 私の仕事机はすぐ目の前に庭が見える窓に面していて、小夏とココの二つの墓が並んでいるのが見える。仕事の合間に時々眺めては、いろいろな思い出にふけっている。
 また、猫を飼おうかなとも思うが、どうしようかと思案に暮れている。

 私がずっとこのブログを書かなかったので、心配なさっていた方もいらしたかと思うが、ボチボチ書いていくので、またご愛読のほど、よろしく。