錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『越後獅子祭り やくざ若衆』(その4)

2015-05-16 10:40:33 | 旅鴉・やくざ
 『越後獅子祭り やくざ若衆』は昭和30年2月13日に封切られているが、錦之助の日記によると、1月10日にクランクインし、2月5日にアップしている。撮影日数は約25日、当時の東映プログラムピクチャーでは普通のことである。他の大手映画会社(松竹、大映、東宝)だと1ヶ月から50日かけていた。クランクアップして編集し、上映プリントを作成するまでに最低2週間は必要なのだが、この映画は1週間ですませている。それは、撮影終了の3日前(1月29日)に錦之助が急性盲腸炎にかかり、4日間休んだからだ。患部を氷で冷やし、なんとか痛みを押さえて、撮影再開。ロケ地で初めの方の街道茶屋のシーンとラストの立ち回りのシーンを撮ったのだそうだが、これで封切りには間に合った。錦之助が盲腸の手術をするのは、2月8日、東京の慶応病院にて、である。

 この映画の音楽担当は木下忠司(映画監督木下恵介の弟)で、錦之助映画に彼が音楽をつけるのはこれが最初である。その後、木下忠司は錦之助の股旅映画には欠かせない音楽担当になる。『風と女と旅鴉』『瞼の母』『関の弥太ッぺ』など。
 主題歌「やくざ若衆」(作詞西条八十、作曲上原げんと)は錦之助が唄い、レコードが発売された。錦之助が「いろは若衆」に続いて出した二枚目のレコードである。が、映画(東映ビデオ)の途中で挿入されるこの主題歌は、誰か別のプロ歌手が唄っている。コロンビア専属の男性歌手だと思うが、誰なのかは不明である。錦之助が唄った「やくざ若衆」はCD化され、私もよく聴いているので、聞き比べてみればわかる。声も節回しも錦之助ではない。封切時の映画では錦之助自身が唄ったものを使っていたのか、それとも最初から違う歌手のものを使ったのかも不明である。錦之助があとで自分の唄を嫌がって、差し替えてさせたのだろうか。
 それと主題歌のもう一曲、島倉千代子と中島孝が唄っているはずの「お役者がらす」が映画の中では出てこない。これも疑問だ。映画のクレジットタイトルにはあるので、再編集してカットされたのだろうか。

 最後に長谷川伸の「越後獅子祭」について補足しておきたい。
 長谷川伸の戯曲「越後獅子祭」は、昭和14年、「サンデー毎日」に掲載。同年6月、有楽座で、新国劇が舞台に上げている(二幕四場)。これが初演で、主役の片貝の半四郎は辰巳柳太郎、梅川小陣は長島丸子、仇討の敵役の浅井朝之助が島田正吾であった。翌年、同じく新国劇で同じ配役で再演されたが、この時に序幕の第二場(旅の新内節)が書き足され、二幕五場になった。
 映画化も早く、昭和14年夏に製作(8月封切)。渡辺邦男監督の東宝作品『越後獅子祭』で、片貝の半四郎は長谷川一夫、梅川小陣は入江たか子。ほかに、山根寿子(小燕)、横山運平(宇平)、清川荘司(浅井朝之助)、鳥羽陽之助(駒沢番十郎)が出演。脚本は三村伸太郎。錦之助の『越後獅子祭り やくざ若衆』と同じ脚本家であるが、東映作品は旗一兵との共同脚本で、新たに書き直したものである。最初の映画化作品の方が原作に忠実に描かれていた。
 この映画、私は何年か前に見たが、一時間に満たない作品で、情感のこもった実にいい映画だった。長谷川一夫31歳、入江たか子28歳で、二人は原作とほぼ同年齢であり、適役であった。長谷川一夫が東宝移籍後(やくざに顔を切られ、林長二郎から改名した)、入江たか子と初共演した映画は大作『藤十郎の恋』(昭和13年 山本嘉次郎監督)だが、二作目の『越後獅子祭』の方が私は好きだ。映画の中で、入江たか子が水芸をやるシーンがあり、見せ場になっていた。また半四郎の父親役(貧しい農民)の横山運平が枯れた素朴な味を出していたことが印象に残っている。


『越後獅子祭り やくざ若衆』(その3)

2015-05-15 08:39:12 | 旅鴉・やくざ
 錦之助は昭和29年5月に東映と専属契約を結んだが、『里見八犬伝』『紅孔雀』など会社のお仕着せ映画に出演しながら、どうしても自分が演じてみたい主人公があると、その作品の映画化を製作部長のマキノ光雄や京都撮影所長の山崎真一郎に直談判して、実現させている。その最初が、『唄ごよみ いろは若衆』で、二作目がこの『越後獅子祭り やくざ若衆』であった。
 当時の東映で、企画段階から自分の主張を通すことができたのは、千恵蔵、右太衛門の両御大だけだった。二人とも東映の重役であったし、千恵蔵には玉木潤一郎、右太衛門には大森康正、坂巻辰男といったお抱えプロデューサーがいて、企画をスムーズに通していた。錦之助は、東映入社後1年間に2本自分のやりたい作品を映画化したわけだが、これは他の東映俳優ではあり得ない特例であった。錦之助の東映との契約条件は詳らかではないが、専属俳優のなかでは別格の待遇で、非常に恵まれていたことだけは間違いない。人気も急上昇し、東映の若手看板スターとして将来を嘱望されていたことも大きいが、錦之助の映画にかける意欲と熱意が並外れていたからだと思う。
 東千代之介は、東映入社以来、ずっと会社に命じられた作品に出続けていた。添え物の娯楽中篇ばかりで、「デビューして一年間に映画に何本出ましたか」という質問に対し、千代之介自身、「ぼくは29部と1作なんですよ」と笑って答えていた。『雪之丞変化』(三部作)に始まり、『笛吹童子』(三部作)『里見八犬伝』(五部作)のあとも、『霧の小次郎』(三部作)『蛇姫様』(三部作)『三日月童子』(三部作)『龍虎八天狗』(四部作)と続き、本編『新選組鬼隊長』に徳川慶喜役でちょっとだけ出演し(これが1作目で、本編初)、さらに『紅孔雀』(五部作)に出た。給料と出演料は、錦之助の十分の一程度で、錦之助とは雲泥の差であった。当時千代之介の出演料は1本5万円、錦之助は1本50万円だったようだ。錦之助は、『霧の小次郎』や『龍虎八天狗』に出演を依頼されたが、断っている。

 錦之助の主演作は、昭和30年初めまで、新芸プロ社長の福島通人がプロデューサーを引き受けていた。福島は、錦之助の映画デビュー作『ひよどり草紙』からの付き合いで東映作品にも携わったのだが、錦之助は美空ひばりと疎遠になるにつれ、東映社内に自分の主演作専門の企画者兼プロデューサーがいた方が良いと感じ始めた。そこで、兄の小川三喜雄(のちに貴也)が東映に入社(昭和29年9月)して、錦之助専門のプロデューサーになったのだった。三喜雄が初めてプロデュースに参加したのは『海の若人』であるが、この映画の企画は、坪井与(東映)、福島通人、小川三喜雄の三者になっている。あいにくこの錦之助初の現代劇はヒットせず、錦之助とひばりとの関係もこれで終止符が打たれるのだが、その後、三喜雄はプロデューサーとして強力に錦之助をバックアップしていく。彼が手がけた最初の話題作は、『紅顔の若武者 織田信長』であった。

 話を『越後獅子祭り やくざ若衆』に戻すと、この映画の企画者は福島通人で、新芸プロの製作部長旗一兵が脚本に関わっている。ということは、もともと錦之助の相手役には美空ひばりを予定していたのではないかと思われる。旅回りの女歌舞伎の座長桜川小陣の役である。小陣は子供の頃半四郎と同じ角兵衛獅子をやっていて、その後離れ離れになったが、半四郎と彼女は互いに初恋同士だった。美空ひばりは、『鞍馬天狗』で角兵衛獅子の杉作をやったこともあり、ヒット曲に「越後獅子の唄」と「角兵衛獅子の唄」もあり、この役にはぴったりだったはずなのだ。『満月狸ばやし』同様、錦之助とひばりの共演が流れ、相手役が高千穂ひづるに代わったような気がしてならない。
 この映画を見るとわかるが、小陣役の高千穂ひづるがどうもしっくり行っていない。高千穂ひづるは、『笛吹童子』の胡蝶尼とか『紅孔雀』の久美のような童子物の少女に近いヒロインなら良いのだが、まだこの頃は、時代劇で大人の女性の役をやるには中途半端だった。色気もなく、もの悲しさや暗さも出せない女優だった。旅回りの女芸人など、いちばん向かない役ではなかったか。長谷川伸の戯曲で小陣はお小夜ちゃんといい、半四郎より5歳ほど年下で、妹のような存在だった。それを、映画では名前をおきくちゃんと変え、半四郎より2歳年上の姉さのような設定にしている。これは当時の錦之助(22歳)と高千穂ひづる(24歳)の実年齢に合わせたわけで、このため原作の良さが薄れてしまった。「越後獅子祭」は、角兵衛獅子時代に兄妹のような関係だった半四郎と小陣が、やくざと旅芸人になって十数年ぶりに再会するところに情感と哀愁が漂うのだ。相手役の小陣は、役の性格からしても年齢から言っても、美空ひばりの方がずっと適役だったと思う。
 この映画には千原しのぶが小夜という役(原作では小陣の本名)で、錦之助のもう一人の相手役として出演しているが、原作にはまったく登場しない人物である。千原しのぶがまだ演技のうまくない頃で(格段に良くなるのは昭和32年以降)、前半、錦之助との風呂場のシーンはファンサービスで微笑ましかったが、半四郎を好きになって、結局失恋するだけの損な役回りだった。錦之助に高千穂と千原の二人の女優をからませるというだけの意図にすぎない。博打好きな馬鹿な父親(清川荘司)もイカサマ賭博師(原健策)も余計な人物である。千原しのぶが原健策と最後に結びつくというのも不自然で、ご都合主義もいいところだった。
 越後屋の旦那新右衛門(薄田研二)が半四郎の実の父親だったというのも原作にはない改変(改悪というべきか)で、あの意地の悪そうな薄田研二の役作りも良くなかった。やくざ嫌いの偏屈な老人のつもりで演じたのだと思うが、高千穂の小陣になぜかベタベタ触ってばかりいて、いやらしさも目立った。あれでは単なるエロじじいだ。仇討で斬り合いをする二人の浪人(吉田義夫と加藤嘉)も出過ぎで、いささか邪魔に感じる。
 脇役でとくに良かったのは、角兵衛獅子なった子役の山手弘である。『紅孔雀』の風小僧だ。この頃、錦之助は山手弘を弟のように可愛がっていて、どんぐり山で二人が会うシーンはじーんと来る。

 この映画の脚本は、三村伸太郎と旗一兵の共同ということになっているが、旗が初稿を書いて、ベテランの三村が手を加えて、完成させたものだと思う。三村伸太郎は、戦前に活躍した名シナリオライターで、稲垣浩や山中貞雄の時代劇映画の名作をたくさん書いているが、戦後は精彩を欠いて、良い脚本が書けなくなってしまったようだ。長谷川伸の「越後獅子祭」は、切ない望郷の念と、角兵衛獅子の頃の初恋に近い兄妹愛が主題で、決して瞼の父を探し求める物語ではない。三村は、映画を面白くしようとして、登場人物を増やし、群像劇のように仕立てたのだが、失敗だった。サブストリーに仇討ちのかたきと討ち人の取り違い(原作にある)もあり、話が入り組みすぎて、かえって詰まらなくしてしまった。三村伸太郎はこの頃、内田吐夢監督の『血槍富士』の脚本も書いていて、群像劇としては似たところも多いのだが、この脚本は八尋不二と民門敏雄がかなり手直ししたという。『血槍富士』は、キャスティングもはまり、吐夢の演出力もあって、傑作になったが、『越後獅子祭り やくざ若衆』は、粗製濫造の二流監督萩原遼がただ手際よくまとめまただけの安っぽい娯楽作になってしまった。

 錦之助の演技もまだ発展途上であった。とくにこの作品では、やくざのセリフ回しに力みと硬さがあり、セリフを言うとき、口がややへの字に曲がる点も、まだ矯正できていない。メイクも目張りのラインが太すぎだった。チャンバラでは斬るときに口を開く癖が抜けていない。
 錦之助のやくざの演技は、『晴姿一番纏』でもまだまだだが、『任侠清水港』で森の石松に扮して脱皮し、『雨の花笠』あたりで錦之助らしい魅力的なやくざが演じられるようになったと私は思う。


『越後獅子祭り やくざ若衆』(その2)

2015-05-13 17:46:05 | 旅鴉・やくざ
 この映画について錦之助はこんなことを語っている。
半年ほど前からぜひやらせてもらいたいと念願していた作品です。大阪で、この芝居を新国劇の方々がやっていらっしゃった時にも、(中村)時十郎といっしょに見に行き、いろいろと役の工夫も致しておりました。映画化に際しては相当話もアレンジされていましたが、とにもかくにもこの映画は、僕の好きなものでした。ファンの方からは、大人ぶってたといわれますが、僕としてはそんな気持ではこの役をやっていないつもりです」(錦之助著「あげ羽の蝶」)

 錦ちゃんの言葉は、いつもあっさりとしていて、裏の事情や本音を語らない傾向がある。そこで、私もいろいろ調べて、実はこうだったのではないかと想像したり、推論を立てたりするわけだ。上記の錦ちゃんの言葉を解説しておこう。
 まず、長谷川伸と錦之助のつながりについて。
 長谷川伸が歌舞伎界から映画デビューしたばかりの頃の錦之助に関心を持っていたことは確かである。昭和29年春、錦之助がデビューした時に、父の時蔵が歌舞伎界に関わりのある政治家、実業家、文化人たちを訪問し、錦之助をよろしくと挨拶回りしているが、その中に時代劇や時代小説の作家たちもいた。長谷川伸、子母澤寛、北条秀司、村上元三たちである。こうした作家たちの原作をいつか錦之助主演で映画化することがあるのを見越したうえでの時蔵の根回しだった。「息子になにか向いた役がありましたら、ぜひ賜りたく、なにとぞよろしく」と頭を下げて回ったのだろう。これに最初に反応したのが子母澤寛で、小説「投げ節弥之」が錦ちゃんに向いているのでは、ということになって、映画化したのが『唄ごよみ いろは若衆』(昭和29年8月封切)であった。長谷川伸も時蔵によろしくと言われて、錦之助のことが頭の片隅にひっかかり、気になっていたようだ。
 長谷川伸が愛弟子の村上元三とともに、東映京都撮影所を訪れたのは昭和29年5月のことだった。千恵蔵主演『一本刀土俵入』(佐々木康監督、同年6月封切)の撮影中で、長谷川伸とは馴染みの深い千恵蔵を陣中見舞いしたのだろう。あるいは千恵蔵が演技上の助言を得るため、原作者の長谷川伸を招いたのかもしれない。そのとき、『笛吹童子』で一躍脚光を浴びた錦之助の話題が出て、千恵蔵が長谷川伸と村上元三を、ちょうど撮影中だった『里見八犬伝』のセットに案内し、二人に錦之助を紹介したのだ。錦之助もびっくりしたようだ。時代劇の大家と時代小説の売れっ子作家(村上元三は戦後、大ヒット作「佐々木小次郎」「次郎長三国志」を書き、当時「源義経」を新聞に連載中だった)が畏れ多くもわざわざ自分を会いに来たのだ。錦之助の著書「あげ羽の蝶」には、ただ「このセットを長谷川伸先生、村上元三先生、片岡千恵蔵先生が見にこられ……」としか書いていない。撮影中で錦之助も忙しかっただろうし、挨拶程度の簡単な会話で終わったと思うが、この時、長谷川伸は錦之助に対しどんな印象を受けたのだろう。「なかなかさっぱりした好青年じゃないか」と、あとで千恵蔵に話したのではなかろうか。
 錦之助が長谷川伸作「越後獅子祭」の主役片貝の半四郎を演じてみたいと思ったのは、昭和29年6月、東京の明治座で新国劇が辰巳柳太郎主演で「越後獅子祭」を舞台にかけ、劇評でその評判の良さを知ったことだと思われる。錦之助は、多分その夏だと思うが、新国劇の大阪公演を観に行った。参謀の中村時十郎も同行した。新国劇の芝居をこれまで錦之助は見たことがあったのだろうか。多分なかったと思う。芝居を見て、錦之助は感動した。この役なら自分に向いていると思ったにちがいない。芝居のあと、物知り博士の時十郎からいろいろ教わり、「よし!」と錦之助は決断した。
 思い立ったら一直線に突っ走るのが錦之助である。8月20日、『八百屋お七 ふり袖月夜』がクランクアップとすると、翌日東京三河台の実家へ帰り、翌22日の夕方に、芝白金にある長谷川伸の邸宅を訪れたのである。その目的は、もちろん、「越後獅子祭」を東映で映画化して、自分が主役を演じて良いかどうか、原作者に承諾を得るためであった。長谷川伸は、錦之助が直接訪ねてきたことを喜び、「いいですよ、ぜひやってごらん」と快諾したにちがいない。長谷川伸の家には30分くらしか居なかったようだ。錦之助の日記を見ると、なにしろこの日のスケジュールがすごかった。午前中、駒沢球場で野球。昼から5時まで、ニッポン放送でラジオドラマ「明玉夕玉」の収録。そのあと、長谷川宅を訪ね、辞去すると、車を飛ばして、6時半すぎに上野精養軒へ。後援会「錦」の発会式があり、女の子のファンがわんさと押しかけ、停電騒ぎもあって大変なことになったが、9時ごろ閉会。そのあと記念写真撮影会を行って、帰宅、という長い一日であった。
 その後の話であるが、「越後獅子祭」が実際に映画化されるまでには、かなりの紆余曲折があったようだが、それについては次回に書きたい。

 ここで、長谷川伸と錦之助について補足しておくと、この映画のあと、錦之助は舞台で「瞼の母」の番場の忠太郎を演じることになるのだが、長谷川伸から再び承諾を得ている。が、舞台といっても、昭和31年7月に時蔵一座を編成して、東北から北海道を巡業した時のことで、演目の一つに「瞼の母」を加えたのだった。父の時蔵が水熊のおはまをやった。
 続いて、昭和33年の錦ちゃん祭りで、「瞼の母」を上演している。2月23日は京都祇園の弥生会館で、8月24日・25日は東京・大手町の産経ホールで催されたが、脚色・演出は村上元三であった。京都の時は、おはまを誰がやったのか不明であるが、東京では時蔵であった。
 東京での錦ちゃん祭り(第四回)のパンフレットが手元にあるが、そこに長谷川伸の寄稿文が掲載されている。長谷川伸がいかに錦之助に期待していたがわかるので、引用しておこう。

中村錦之助君のこと」長谷川伸
中村錦之助後援会の発会式があった日、わたくしのところへ錦之助君があらわれた。その時以来ずうッと会っていないが、錦之助映画をちょいちょい見ているので、その頃とその後とをくらべると、何度かに区切ったようになって、ウマサと面白さが一つになって出たり、片ッ方づつが出たり出なかったりで、進境のあらわれが実に愉いものである。今も現にこれは、絶えることなく続いている。ウマサと面白さ、などと面倒くさいらしい事をいったが、これは錦之助君がよく勉強している結果が出たのである。しかし、それもあるが、勉強とかに関係なく、錦之助君の演技とカラダと顔とには、持って生まれたモノがあるのである。そのときどきの勉強の結実と、天成のモノと、これを併せて一ト口にいえば、錦之助君は映画劇の名優として、大成する方向に進みつつある、とこう判断して、ジッくり見詰めているのである。近ごろの錦之助君は役の範囲がひろくなって来た、もっと多分ひろくなるに違いない、このことも又、愉みの一つとして、いつか銀幕の上で見られるだろうことを期待する。といってもそれは、汚ないもの退屈なもの、若いものらしぬもの、等は見せてもらいたくない。中村錦之助は絢爛でなくてはならない、そして絢爛なのだからである」(昭和33年8月、錦之助祭りパンフレット)


『越後獅子祭り やくざ若衆』

2015-05-12 16:23:34 | 旅鴉・やくざ
 錦之助が初めて演じた長谷川伸の戯曲の主人公は、「越後獅子祭」の片貝の半四郎だった。映画のタイトルは『越後獅子祭り やくざ若衆』。サブタイトルが「越後獅子祭り」で(戯曲は「祭」)、大文字でクレジットされているメインタイトルは「やくざ若衆」である。昭和30年2月13日封切。撮影は同年1月。錦之助初の股旅物映画であり、錦之助が旅人やくざに扮した処女作(!)。錦之助、22歳でした。

 先日、久しぶりにこの映画のビデオを見て、長谷川伸の戯曲を読み、もう一度ビデオを見た。錦之助が若々しく、やくざというよりお坊っちゃんのようで、お品が良く、ミーハー的な見方をすれば、可愛らしかった。錦之助はこういう旅人やくざをやっても、育ちがいいためか、薄汚れた感じや下卑たところがまったくない。晴れやかで颯爽としていた。まるで大店の若旦那が親に勘当されて自由の身になり、旅人さんになっちゃった雰囲気、とでも言おうか、やくざ稼業を楽しんじゃってる印象すらうかがわれた。これは、錦之助が股旅物を初めてやったため、張り切りながらもウキウキとした気持ちが自然とにじみ出てしまったからなのだろう。

 錦之助のあの衣裳も特注の豪華版だったのではなかろうか。着物は前半が格子縞、後半は豆しぼりの2着だったが、京都の老舗で作らせたピカピカの新品のようだ。道中合羽に三度笠、振り分け荷物を肩にかけ、Vの字に開いた着物の胸元からは黒い木綿のTシャツ(いや肌着)が見える。場所が上越街道という設定だし、正月の撮影で寒かったでしょうね。それはともかく、錦之助の登場シーンはサマになっていた。錦ちゃんは、歌舞伎にいた頃もこういう衣裳は着たことがなかったはずで、きっとご満悦だったのではないでしょうか。

 冒頭、三度笠を切られ、錦之助の顔がのぞくカットがいい。股旅映画では主役スターが顔を見せる常套手段だが、こういう登場の仕方も錦ちゃんにとってこの映画が初体験でした。錦ちゃんファンのキャーッと歓声と、「かわいーっ!」というため息が今でも聞こえてきそうな気がします。以後、錦ちゃんは何度もこういう出方をしたかと思うが、あのちょっと恥ずかしげで、照れ笑いをしたような、それでいて自信ありげに「こんちは、どう、俺カッコいい?」とファンに語りかけている表情。これがなんとも言えず魅力的なんだよなァ。
 三度笠が割れて顔を見せるカットのある錦ちゃんの映画では、私の記憶によると、『浅間の暴れん坊』が大変印象深い。しかし、いちばんカッコ良かったのは、『弥太郎笠』。その場面は途中で出てくる。錦ちゃんファンならご存知でしょうね。松井田宿に帰ってきた弥太郎が悪親分の家へ三度笠をかぶって乗り込んでいき、入口の土間で仁義を切るや、確か手下の尾形伸之介さんの長脇差(ドス)で三度笠をバサッと切られ、錦ちゃんが素晴らしい顔を見せる。シビレます。さすがマキノ雅弘のあざやかな演出で、このカットから始まるシーンは、何度見ても惚れ惚れとします。もし私が錦之助名場面集を作るとしたら(いつか編集して作りたい)、絶対に入れるシーンであります。

 話が飛んだが、『やくざ若衆』のファーストシーン。街道を歩いていく男の影が地面に映って、キャメラが上に移動すると、三度笠をかぶって顔は見えないけど、股旅姿の錦之助。ラストシーンも同じで、私は結構、この映画の最初と最後が気に入っています。で、中身の方はどうかと言うと、錦之助以外のキャスティング、監督の演出、シナリオなど文句をつけたいことがたくさんあるんですが……。そんなこと今更書いても仕方がないだろと言われるかもしれないが、次回にちょっとだけ書きます。あと、この映画の裏話なんかも。(つづく)



『唄ごよみ いろは若衆』(その2)

2013-02-27 03:59:04 | 旅鴉・やくざ
 「投げ節弥之の唄」の一番と二番の歌詞もついでに書いておこう。

(一)男二人のお小姓髷を サラリ落して浮世旅
   恋の投げ節かたわれ月に 涙かくしの張り扇

(に)娘結わた紅帯しめた 利根の河原の花あやめ
   思いかけても添われぬ身ゆえ 呼ぶぢゃないぞえ今日限り


 もう一曲の「いろは小唄」の方は、近年、SP盤復刻による日本映画主題歌集(戦後編)に収録された。それを、カセットテープに録音したものを私も持っていて、何度も聞いているが、こちらは明るい歌である。が、映画のどこに使われたのかは分らない。錦之助はレコードにされたこの歌を聞くのがイヤでイヤでたまらなかったというが、錦ちゃん祭りなどではよく歌っていたから、まんざら歌うのが嫌いだったわけでもなさそうだ。

 話が横道にそれてしまったが、そのあとのストーリーはこうである。

 ある日、弥之助が唄う投げ節を、たまたま一座の太夫・お千代が通りかかって聞き、心を打たれた。


(めおと漫才でもやりそう)

 芝居小屋で弥吉郎は、お千代が口ずさんでいる唄に驚いた。自分が作ったものではないか。
 弥吉郎はその流しの歌手を探し歩き、やっと居所を突き止めた。しかし、弟は父の仇を討とうと思い立ち、単身郷里へ帰っていた。
 その時、弥之助は、城中に乗り込んで、多勢に囲まれていた。そして、あえなく捕まってしまう。


(縄で縛られ、折檻されている場面。木刀を持っているのは、誰だろう?山茶花究のようにも見えるが……。向こうに坐っているが悪家老、戦前の二枚目スター高田稔である)

 兄の弥吉郎も急いで郷里へ帰り、夜中に城へ忍び込んで、弥之助を助け出す。ここで二人はやっと再会し、喜び合った。
 二人はまた江戸に舞い戻り浅草の芝居小屋に身を潜めるが、内通する者があって悪家老の一派と幕吏に襲われる。ここがラストのチャンバラシーン。


(これが錦ちゃん初のやくざ姿。長ドスを持っての立ち回り。頭はムシリではなく、町人髷?)

 兄の弥吉郎とお千代は斬られた。弥之助はついに父の仇の悪家老を討ち果たす。
 息絶えたお千代を抱き締め、兄は、「お花さんを幸せにしてやれよ」と言い残し、死んでいく。
 ラストシーン。倒幕軍が錦の御旗を掲げ、鼓笛の音も高らかに江戸に入って来る。それを見つめる群衆の中に、弥之助とお花の寄り添う姿があった。(エンドマーク)