錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『悲恋 おかる勘平』(その2)

2006-10-23 06:09:02 | 悲恋物
 この映画の欠陥は、夫婦が仲を引き裂かれる話にしては、その愛の描き方が弱かったことにあったと思う。これは、錦之助が悪いのではなく、脚本と演出の責任なのだが、主役の勘平という男がイジイジしていて私にはどうも理解できなかった。また、共感も持てなかった。汚名返上と亡き主君への報恩のことばかり考えているようで、夫婦になってからは、お軽を大して愛していない感じさえ受けた。
 それに、勘平が立派な侍かというとそうでもなかった。たとえば、主君の石碑建立のための寄付金の話を浅野家の同輩・神崎与五郎(片岡栄二郎)から持ちかけられると、自分の金もないくせに安請け合いしてしまう。家に帰って義父に金を工面してくれないかと懇願する。貧乏な百姓であることが分かっているのに、なんとも情けない男なのだ。結局自分で金を稼ごうと考えて、山へイノシシを狩りに行き、夜中に間違って人を撃ち殺してしまう。しかも殺した人の懐に大金の入った財布があるのを発見するとそれを黙って奪い取り、寄付金として原郷右衛門のところへ持って行く。その後、勘平は撃ち殺した人が義父だと思い違いして、切腹するのだが、観ている側はそれも自業自得のような気がしてしまう。あまり可哀想だとは思えないのである。
 勘平に比べ、お軽の方が一途で、夫に尽くすひたむきな気持ちはずっと共感できると私は感じた。夫に何とか金を工面してやろうと、父母と相談し、泣く泣く祇園の遊女に身を売る決心をするのだから、偉い妻だった。千原しのぶのお軽はあわれで、なかなか良かった。

 
<勘平(錦之助)とお軽(千原しのぶ)>
 この映画は、観ていて、ウソっぽさが目に付いてならなかった。話の展開も登場人物も不可解で、首をかしげたくなる点が多すぎたと思う。以下、気になったところを挙げておく。
(一)勘平とお軽が御台(瑤泉院)の屋敷の庭先で同輩の手によって打ち首なりかかるところがある。まずここが疑問だった。内匠頭が殿中で刃傷に及んだ時、勘平が持ち場をはずし、木陰でお軽とひそひそ話をしていたことが不忠不義の理由だったが、それが打ち首にされるほどの大罪なのだろうか?しかも、内匠頭が切腹したすぐあとに、屋敷内で二人を打ち首にしようとするのもあり得ないことだと思った。
(二)勘平の父と母はまったく話に出てこないが、早野家というのはどういう家柄なのか?追放後、婿養子みたいにお軽の貧しい実家に入って、勘平が猟師になっているのも不思議だった。
(三)寺坂平左衛門(加賀邦男)という侍が出て来るが、これがお軽の兄ということなのだが、山崎にいるお軽の父母とはどういう関係なのか、その息子なのかまったく不明。
(四)大野定九郎という不良の赤穂浪人(元家老の息子という設定)が何度も出て来るのだが、この人物の性格付けが出来ていなかった。山道でお軽の父・与市兵衛を殺して金を奪い取るほどの極悪人なのだが、芝居の悪役ならともかく、映画の登場人物としては描ききれていなかった。
(五)勘平切腹の場面で、神崎与五郎が与市兵衛の遺体の布団をめくって、鉄砲傷ではなく刀傷だと言うところあるが、ここなど非常にわざとらしかった。
(六)また、原郷右衛門(原健策)がなぜ懐に連判状を持っているのか、またなぜこんな大切なものを持ち歩いているのかが分からなかった。いまわの際に勘平に血判を押させてやるのだが、早野勘平の名前がすでに書いてあるのも奇妙だった。
(七)お軽が祇園の大夫になって、結局大石内蔵助から身請けされるのだが、大石とお軽はいったいどういう関係なのか、この点も疑問だった。また、内蔵助役にわざわざ中村時蔵を引っ張り出す必要もなかったと思う。一力茶屋のシーンなど、時蔵の芝居っぽい演技とセリフは、まったく映画には不向きだった。
(八)一力茶屋での内蔵助の弁解がましい言葉も無意味だったし、なぜ内蔵助がお軽に勘平の切腹死を伝えたのかがどうしても理解できなかった。これでは、せっかくのラストシーンがぶちこわしではないか。
 内蔵助に身請けされたお軽は御台(瑤泉院)の屋敷に戻る。そして、そこで仇討成功の知らせを聞く。そのとき、連判状に勘平の名と血判があるのを見て、お軽は泣いて喜ぶ。仇討に使われた遺品の槍を抱き、夫の最後の晴れ姿を空想する。このラストシーンは、大変素晴らしかったと思うのだが、討ち入り前に勘平が切腹したことをお軽が知らないという設定にしたほうが絶対に良かったし、感銘深かったはずである。
 この映画はもう二度とリメイクすることはないだろうが、以上の点に留意して脚本を書き直せば、ずっと良い映画が出来るにちがいない、と私は勝手に思っている…。




『悲恋 おかる勘平』(その1)

2006-10-23 06:04:13 | 悲恋物
 歌舞伎や文楽の『仮名手本忠臣蔵』は、ご存知のように、史実の赤穂事件をモデルにしているが、時代設定もストーリーも登場人物も変更している。時代は足利期に変え、浅野内匠頭は塩冶判官(えんやはんがん)、吉良上野介は高師直(こうのもろのお)、大石内蔵助は大星由良之助に改名するといった具合である。だから、講談や小説や映画の『忠臣蔵』や『赤穂浪士』とは似て非なる話だと言ってよい。お軽と勘平が登場するのは、もちろん歌舞伎や文楽の方で、この二人はフィクションのヒーロー・ヒロインである。
 私は、映画やテレビの『忠臣蔵』は昔から最近に至るまでいろいろな作品を観ているが、歌舞伎や文楽の『仮名手本忠臣蔵』の舞台は若い頃に二、三度観たきりで、記憶もあいまいである。とくに、勘平やお軽が登場するくだりはうろ覚えに近い。(私が観たお軽は坂東玉三郎だったような気がするが…。勘平は誰だったか?)そこで、今回は歌舞伎のガイドブックを調べ、そこから得た知識を参考にしながら書かせていただく。


<お軽(中村福助)と勘平(中村勘九郎)>
 歌舞伎の話でいうと、早野勘平は判官の近習であり、お軽は腰元だったが、刃傷事件が起こった際、城外で逢瀬を楽しんでいたため、不忠不義の罪に問われ、追放の身になってしまう。そこで二人は京都郊外山崎にあるお軽の実家へ落ち延びて、人目を忍ぶ暮らしをする。ここから先が、『仮名手本忠臣蔵』では有名な五段目「山崎街道」と六段目「勘平住家」である。
 五段目は、勘平が同輩の千崎弥五郎に偶然出会い、仇討の仲間に入れてもらうため、資金調達を約束するところから始まる。お軽の父・与市兵衛が娘を祇園に身売りした金を持ち帰り夜道を歩いていると、山賊まがいの斧定九郎に襲われ、殺されて金を奪われる。すると、今度は、勘平がイノシシと間違えて撃った鉄砲玉が定九郎に命中し、彼を殺してしまう。暗くて誰だか分からないが、懐を探ると、大金の入った財布がある。勘平はそれを黙って奪い取り、逃げて行く。
 六段目は、勘平が家に帰ってからの話で、お軽が祇園に連れて行かれた後、与市兵衛の死骸が運ばれて来る。血の付いている財布を勘平が持っていたため、お軽の母・おかやに疑われ口論している最中に、原郷右衛門と弥五郎が訪ねに来る。おかやから話を聞いて、彼らは勘平をなじる。勘平はてっきり自分が舅を殺したものと思い込み、悩んだ末に切腹する。やがて、遺体の傷から真相がわかり、改めて仇討の仲間に加わることを許されて、勘平は死んでいく。

 映画の『悲恋 おかる勘平』(昭和31年)は、この五段目と六段目をストーリーの中心に据え、それを赤穂義士の物語に組み込んで、裏に起こった悲話のように仕立てたものだった。だから、映画の中では、勘平、お軽、与市兵衛(お軽の父)、おかや(お軽の母)などは歌舞伎の役名を用い、一方浅野家の人々は、実名と同じにしている。浅野内匠頭、御台の阿久里(瑤泉院)、大石内蔵助、片岡源五右衛門、神崎弥五郎などはホンモノが登場するわけだ。この映画の原作は邦枝完二の小説だそうだが、私はこの原作のことを寡聞にして知らない。脚色したのは依田義賢(斉木祝という人と共同執筆)で、監督は佐々木康だった。
 勘平を演じたのは若き日の錦之助である。お軽はこれまた若い千原しのぶで、他に与市兵衛が横山運平、おかやが毛利菊枝、御台の阿久里が喜多川千鶴、大石内蔵助が錦之助の実父三世中村時蔵といったところが主な配役である。

 しかし、映画を観る限り、正直言って、この話は芝居には向いているかもしれないが、映画には向かなかったのではないかというのが私の感想である。いや、歌舞伎のストーリーを忠実になぞっただけで、映画の良さが発揮されずに終わってしまったと言ったほうが良いかもしれない。もっと歌舞伎から離れ、テーマを絞って映画にすべきだったのではないかと感じた。確かに、錦之助は熱演している。一所懸命に演じている姿は、いじらしいほどだった。芝居ではなく映画らしく演じようと錦之助が意識していたこともはっきり見てとれた。が、どう見ても話が不自然で、錦之助の熱演は報いられずに終わってしまったように思えてならなかった。歌舞伎では感動を呼ぶであろう「勘平切腹」の見せ場、いわゆる「手負いの述懐」の場面も、映画では前後の流れの中で浮いている印象を受けた。
 勘平とお軽の物語をお涙頂戴のメロドラマに仕立てようとした製作者の意図は分かる。が、それならば、映画に適さない歌舞伎の場面などは捨てた方がよった。もっと違った場面を見せ場にした方が感動したと思う。
 この映画、タイトルには「悲恋」とあるが、勘平とお軽の物語は、どう見ても悲恋ではない。惚れ合った男と女の激しい恋が成就しないで終わるのが悲恋だとすれば、この物語はそうではない。あえて言えば、夫婦愛の悲劇がテーマである。勘平とお軽は、追放の果てに、一時的に夫婦になる。しかし、勘平はいざという時には主君の恩に報いるため死ぬ覚悟をしている。だから、二人にとっては仮の夫婦生活で、いずれは別れなければならない運命にある。主君への報恩と夫婦愛との間のこうした葛藤をドラマにして描いたならば、この映画はもっと素晴らしいものになったと思う。(つづく)



『怪談千鳥ヶ淵』

2006-08-09 23:59:18 | 悲恋物

 錦之助主演の怪談映画が一本ある。『怪談千鳥ヶ淵』(昭和31年7月公開)である。「薄雪太夫より」という副題が付いているが、これは北条秀司(「王将」で有名)が新派のために書いた『薄雪太夫』が原作だからで、当時評判を呼んだ芝居でもあったようだ。北条秀司のこの脚本を八尋不二がシナリオ化し、小石栄一が監督、三木滋人が撮影したのがこの映画である。錦之助の映画で幽霊の出てくるものは、ほかにも後年に『殿さま弥次喜多・怪談道中』や『江戸っ子繁昌記』があるが、本格的な怪談映画といえば『怪談千鳥ヶ淵』だけであろう。
 実を言うと、私は錦之助ファンでありながら、この映画をずっと観ていなかった。どうせ子供だましの馬鹿げた映画だと思って、観なかったのだ。三ヶ月ほど前、錦之助の自伝を読んで、この映画で共演した千原しのぶのことや撮影中の苦労話などについて知り、興味を覚えた。そこで、ビデオを買った。が、封もあけずに、ほうって置いた。夏になり、寝苦しい深夜にひとつ怪談映画でも観てやろうかと思い、部屋を真っ暗にして、初めてこの映画を観た。
 もちろん、恐くなかった。恐くなかったけれども、観終わって、なかなかいい映画だったなーと感心した。映画の出来が期待以上に良かったのだ。これは、昭和31年製作の古い映画だが、当時としては数少ないカラー映画だった。東映ご自慢の総天然色、イーストマン・カラーである。しかし、天然色といっても本当は決して天然ではなく極めて人工的な色合いをしている。が、かえって、その絢爛さ、色あざやかさが、私みたいな東映時代劇ファンにとってはたまらない魅力なのである。祭りの夜店を見ているようで、その華やかさに引き付けられてしまう。錦之助の出演したカラー映画としては、オールスター映画『赤穂浪士』(昭和31年1月)に続いて二本目だが、主演作としては初めてだった。東映が金をかけ、力を入れて作った映画だったようだ。本邦初、総天然色の怪談映画という触れ込みも付いている。しかし、怪談映画なのになぜ色付けなのだろうか、と私は観る前に少し不安になった。したたる血でも見せようというのか、安っぽい映画なら嫌だなーと感じながら、ビデオを挿入した。が、観ていくにつれて、色彩の美しさだけでなく、内容にも引き込まれていった。
 
 この映画、怪談とは言うものの、若い男女の心中話と母子家庭の人情話をうまくミックスしたようなストーリーだった。江戸時代の京都が舞台で、錦之助の役は、美之助という呉服屋の手代である。これが、頼りなさそうな若いヤサ男で、『浪花の恋の物語』の忠兵衛をもっとナヨナヨとさせたタイプだった。おい、錦之助がこんな役かよー、と内心思ったが、それも初めだけで、慣れていくと抵抗感もなくなった。純情な美之助が結構イケルのである。
 さて、どうした経緯でそうなったのかは知らないが、美之助は、薄雪という伏見の遊女(千原しのぶ)に熱を上げている。薄雪も美之助に惚れていて、相思相愛の仲なのだが、夫婦になりたくてもなれない。美之助には金がないし、薄雪には身請け話が持ち上がって、もうダメだということになり、心中をはかる。ここまではよくある話だ。実はここからドラマが始まる。
 沼に身投げして心中したものの、薄雪は死に、美之助は助かってしまう。抜け殻のようになってしまった美之助。それを母親が必死で立ち直らせようとする。この母親役が浪花千栄子で、さすがは名女優。彼女が登場すると、映画がぐっと真実味を帯びてくる。錦之助と浪花千栄子の共演は、『独眼竜政宗』のときの政宗と乳母が印象に残っているが、この映画の二人もまた良かった。美之助をこんこんと説き伏せる時の浪花千栄子の演技の素晴らしさ。母の情がこもり、しかも苦労人の味がにじみ出ている。関西人ならではの演技だと思った。
 ここで、美之助は母一人子一人で育ったことが分かる。本当は母親思いの息子だったのだ。現代風に言えば、美之助は、母子家庭に育ったマザコンのような若者である。こう解釈すると、美之助の行動もよく理解できる。心中をはかって自分だけが死ねなかったのも、母親のことが心残りだったからなのだ。美之助はそのことに気づいていて、もだえ苦しむ。が、母親の励ましもあって、立ち直り、また真面目に呉服屋で働き始める。心中に失敗した美之助に対し、何のお咎めもないのは不思議に思ったが、それは許すとして、ある日、大店(おおだな)の娘を助けたことが縁で、この娘に一目惚れされてしまう。相手方から縁談申し込まれ、母親のたっての願いもあって、美之助はいやいやながらこの娘と祝言を挙げる。初夜の寝所でのこと。ここから怪談が始まるが、あとは見てのお楽しみということにして…。
 千原しのぶが良かったことをぜひ付け加えておきたい。なんとも美しい幽霊なのである。細身でひょろひょろとしていて、首も顔も長く、顔に翳があり、幽霊にはぴったりだった。首が伸びれば、例のロクロ首というやつになるだろう。こんな艶やかで美しい遊女の幽霊なら、雪の中だろうが、沼の底であろうが、魅せられて付いていってしまうなー。雪の降る夜、遊郭の一室で幽霊の薄雪(千原しのぶ)が舞いを踊るシーンが見せ場だった。そして、心中した沼の縁へと美之助をいざない、二人が最後の契りを結ぶラスト・シーンは見ごたえ満点で、合成樹脂で作った人工雪が鼻や喉に詰まって苦労した(錦之助の自伝に出てくる)といった気配など、全然感じなかった。