昭和二十五年一月、東劇で叔父の中村もしほが十七代目中村勘三郎を襲名した。松竹の大谷竹次郎社長から話があり、襲名することになったのだが、中村勘三郎は江戸歌舞伎の開祖で、中村宗家の大きな名跡であった。八十年ほどこの名跡が途絶えていたのを彼が継いだのだった。屋号は播磨屋から中村屋に改めた。勘三郎が戦後の大看板になっていくのは皆さん(五十歳以上か)ご存知の通り。彼は、六代目菊五郎の娘を妻にし、六代目に傾倒してその芸を受け継ぐとともに、兄吉右衛門の教えと影響も受けた稀有な役者であった。襲名口上は、吉右衛門が受け持ち、時蔵も加わった。三兄弟揃ってのお披露目で、吉右衛門も時蔵も非常に喜び、末弟の前途を祝福した。披露の出し物は「上覧猿若舞」「一條大蔵譚」であった。この興行には種太郎、梅枝、錦之助、賀津雄も出演し、錦之助は「顔揃櫓前賑」(川尻清潭作)で太鼓持ちの役を演じた。女形ではなく、大した役ではなかった。
昭和二十五年春、東京の歌舞伎界でも、関西での若手の躍進に影響されて、若手だけによる歌舞伎上演の試みが企画された。その手始めは、三越劇場において定期的に青年歌舞伎を催すというものであった。その第一回の公演予定が夏前に発表された。
三越青年歌舞伎 第一回公演 八月十五日から二十九日(十五日間)
演目 「妹背山婦女庭訓」「奇蹟」(菊池寛作)「津山の雪」
出演者 大川橋蔵、市川松蔦、中村梅枝、澤村源平、坂東光伸、市川笑猿
(役によって四日替り、または一日替り)
ここに錦之助の名前はなかった。錦之助はこれを知ってショックを受ける。みな戦前の子役時代に、歌舞伎座の楽屋で遊んだ同窓生であった。戦後、遊ぶことはなくなったが、若手役者としてともに修業に励んできた。そこに自分の名前がない。「あげ羽の蝶」にその時のことがこう書かれている。
――松竹演劇部のキモ入りで三越劇場を本拠に、三越歌舞伎が定期的に公演されることになりました。これは東京歌舞伎の若い人たちを育てる趣旨のもので〝青年歌舞伎〟といわれ、兄の芝雀や、松蔦、大川橋蔵、岩井半四郎さんなどが加わっていました。もちろん、僕も名を連ねていたわけです。ところが第一回公演には、僕だけがどういう理由からか出演の顔ぶれから除外されていたのです。僕が何かやりたくて仕方がなかったときです。どうして僕だけがオミットされたのか考えると、夜も眠れずに泣いたのをおぼえています。
文中にある兄の芝雀は当時の梅枝、岩井半四郎は当時の市川笑猿である。笑猿は歌舞伎役者ではなく日本舞踊家の初代花柳寿太郎の長男である。
が、出演者の顔ぶれを見ると、東京歌舞伎界の二大派閥であった菊五郎劇団と吉右衛門一座、それに猿之助一座からバランスを考えて、若手のホープを人選したように思える。
菊五郎劇団からは大川橋蔵と坂東光伸(のちに八十助、九代目三津五郎)で、この二人は六代目菊五郎の愛弟子だった。二人とも当時二十一歳。
吉右衛門一座からは錦之助の兄の中村梅枝と澤村源平。梅枝は当時二十二歳、源平は最年少の十七歳(錦之助と同じ)。この二人は三年後の昭和二十八年にそれぞれ中村芝雀、澤村訥升となり、吉右衛門劇団のお神酒徳利と呼ばれ、美しい若女形として脚光を浴びていく。猿之助一座からは市川松蔦(のちに七代目門之助)と市川笑猿(昭和二十六岩井半四郎を襲名)が選ばれた。松蔦は当時二十一歳、笑猿は二十三歳。
この六人が主な出演者だった。錦之助が選ばれなかったのは兄の梅枝を優先したわけで、時蔵の息子二人を出演させるわけにはいかなかったのだろう。
錦之助は、四月の大阪歌舞伎座で雷蔵(莚蔵)をはじめ、鶴之助、扇雀、鯉昇、延二郎らの関西歌舞伎界の若手と知り合って大阪から帰ると、五月、六月と東劇に出演し、相変わらず脇役の女形や端役の丁稚や小坊主の役をやっている。東京の本興行だからいい役がつかないのは仕方がないとしても、青年歌舞伎で出演をはずされたのは堪らなかった。錦之助が「夜も眠れず泣いた」というのは本当のことだと思う。負けず嫌いの錦之助が悔し涙に明け暮れたのも当然であった。
八月の三越劇場での第一回青年歌舞伎を錦之助が観に行ったのかどうかは分からない。観たせよ観なかったにせよ、俄然ファイトが沸いたことだけは確かであろう。
錦之助は、九月に時蔵に伴って再び大阪へ行った。大阪歌舞伎座の大舞台で、関西の若手たちに混じって「涼み舟」の「江戸芸者はりまやお蝶」を演じたのは、そうしたファイト満々の時だった。
武智鉄二が錦之助を観て注目したのも恐らくこの時だったのではあるまいか。武智歌舞伎に錦之助が出演を乞われたという話が「芸能生活五十年を語る」に出ている。
――そのころ、武智さんが僕をよく見ていて、武智さんが考えていた芝居にどうしても出てくれと言ってくれた。武智さんと亡くなった七代目三津五郎のおじさんの二人でね。そのころ鶴之助、扇雀などがやっていた若手歌舞伎のなかに入ってくれとね。松竹にも掛け合ったらしいけれどもうまくいかなかったらしい。
錦之助が武智歌舞伎に出演することは結局実現しなかった。
十月、錦之助は時蔵、種太郎とともに大阪から名古屋の御園座へ回り、吉右衛門一座と合流。吉右衛門、勘三郎、芝翫、そして梅枝とともに同じ舞台に立つ。錦之助は「忠臣蔵」で二役(大鷲文吾・女馬子お綱)、「神田祭」で手古舞おときという役を演じている。
そして、東京へ戻ったその時である。思いがけない朗報が待っていた。
昭和二十五年春、東京の歌舞伎界でも、関西での若手の躍進に影響されて、若手だけによる歌舞伎上演の試みが企画された。その手始めは、三越劇場において定期的に青年歌舞伎を催すというものであった。その第一回の公演予定が夏前に発表された。
三越青年歌舞伎 第一回公演 八月十五日から二十九日(十五日間)
演目 「妹背山婦女庭訓」「奇蹟」(菊池寛作)「津山の雪」
出演者 大川橋蔵、市川松蔦、中村梅枝、澤村源平、坂東光伸、市川笑猿
(役によって四日替り、または一日替り)
ここに錦之助の名前はなかった。錦之助はこれを知ってショックを受ける。みな戦前の子役時代に、歌舞伎座の楽屋で遊んだ同窓生であった。戦後、遊ぶことはなくなったが、若手役者としてともに修業に励んできた。そこに自分の名前がない。「あげ羽の蝶」にその時のことがこう書かれている。
――松竹演劇部のキモ入りで三越劇場を本拠に、三越歌舞伎が定期的に公演されることになりました。これは東京歌舞伎の若い人たちを育てる趣旨のもので〝青年歌舞伎〟といわれ、兄の芝雀や、松蔦、大川橋蔵、岩井半四郎さんなどが加わっていました。もちろん、僕も名を連ねていたわけです。ところが第一回公演には、僕だけがどういう理由からか出演の顔ぶれから除外されていたのです。僕が何かやりたくて仕方がなかったときです。どうして僕だけがオミットされたのか考えると、夜も眠れずに泣いたのをおぼえています。
文中にある兄の芝雀は当時の梅枝、岩井半四郎は当時の市川笑猿である。笑猿は歌舞伎役者ではなく日本舞踊家の初代花柳寿太郎の長男である。
が、出演者の顔ぶれを見ると、東京歌舞伎界の二大派閥であった菊五郎劇団と吉右衛門一座、それに猿之助一座からバランスを考えて、若手のホープを人選したように思える。
菊五郎劇団からは大川橋蔵と坂東光伸(のちに八十助、九代目三津五郎)で、この二人は六代目菊五郎の愛弟子だった。二人とも当時二十一歳。
吉右衛門一座からは錦之助の兄の中村梅枝と澤村源平。梅枝は当時二十二歳、源平は最年少の十七歳(錦之助と同じ)。この二人は三年後の昭和二十八年にそれぞれ中村芝雀、澤村訥升となり、吉右衛門劇団のお神酒徳利と呼ばれ、美しい若女形として脚光を浴びていく。猿之助一座からは市川松蔦(のちに七代目門之助)と市川笑猿(昭和二十六岩井半四郎を襲名)が選ばれた。松蔦は当時二十一歳、笑猿は二十三歳。
この六人が主な出演者だった。錦之助が選ばれなかったのは兄の梅枝を優先したわけで、時蔵の息子二人を出演させるわけにはいかなかったのだろう。
錦之助は、四月の大阪歌舞伎座で雷蔵(莚蔵)をはじめ、鶴之助、扇雀、鯉昇、延二郎らの関西歌舞伎界の若手と知り合って大阪から帰ると、五月、六月と東劇に出演し、相変わらず脇役の女形や端役の丁稚や小坊主の役をやっている。東京の本興行だからいい役がつかないのは仕方がないとしても、青年歌舞伎で出演をはずされたのは堪らなかった。錦之助が「夜も眠れず泣いた」というのは本当のことだと思う。負けず嫌いの錦之助が悔し涙に明け暮れたのも当然であった。
八月の三越劇場での第一回青年歌舞伎を錦之助が観に行ったのかどうかは分からない。観たせよ観なかったにせよ、俄然ファイトが沸いたことだけは確かであろう。
錦之助は、九月に時蔵に伴って再び大阪へ行った。大阪歌舞伎座の大舞台で、関西の若手たちに混じって「涼み舟」の「江戸芸者はりまやお蝶」を演じたのは、そうしたファイト満々の時だった。
武智鉄二が錦之助を観て注目したのも恐らくこの時だったのではあるまいか。武智歌舞伎に錦之助が出演を乞われたという話が「芸能生活五十年を語る」に出ている。
――そのころ、武智さんが僕をよく見ていて、武智さんが考えていた芝居にどうしても出てくれと言ってくれた。武智さんと亡くなった七代目三津五郎のおじさんの二人でね。そのころ鶴之助、扇雀などがやっていた若手歌舞伎のなかに入ってくれとね。松竹にも掛け合ったらしいけれどもうまくいかなかったらしい。
錦之助が武智歌舞伎に出演することは結局実現しなかった。
十月、錦之助は時蔵、種太郎とともに大阪から名古屋の御園座へ回り、吉右衛門一座と合流。吉右衛門、勘三郎、芝翫、そして梅枝とともに同じ舞台に立つ。錦之助は「忠臣蔵」で二役(大鷲文吾・女馬子お綱)、「神田祭」で手古舞おときという役を演じている。
そして、東京へ戻ったその時である。思いがけない朗報が待っていた。