錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~若手のホープ(その1)

2012-09-30 22:45:12 | 【錦之助伝】~若手歌舞伎役者時代
 昭和二十五年一月、東劇で叔父の中村もしほが十七代目中村勘三郎を襲名した。松竹の大谷竹次郎社長から話があり、襲名することになったのだが、中村勘三郎は江戸歌舞伎の開祖で、中村宗家の大きな名跡であった。八十年ほどこの名跡が途絶えていたのを彼が継いだのだった。屋号は播磨屋から中村屋に改めた。勘三郎が戦後の大看板になっていくのは皆さん(五十歳以上か)ご存知の通り。彼は、六代目菊五郎の娘を妻にし、六代目に傾倒してその芸を受け継ぐとともに、兄吉右衛門の教えと影響も受けた稀有な役者であった。襲名口上は、吉右衛門が受け持ち、時蔵も加わった。三兄弟揃ってのお披露目で、吉右衛門も時蔵も非常に喜び、末弟の前途を祝福した。披露の出し物は「上覧猿若舞」「一條大蔵譚」であった。この興行には種太郎、梅枝、錦之助、賀津雄も出演し、錦之助は「顔揃櫓前賑」(川尻清潭作)で太鼓持ちの役を演じた。女形ではなく、大した役ではなかった。

 昭和二十五年春、東京の歌舞伎界でも、関西での若手の躍進に影響されて、若手だけによる歌舞伎上演の試みが企画された。その手始めは、三越劇場において定期的に青年歌舞伎を催すというものであった。その第一回の公演予定が夏前に発表された。

 三越青年歌舞伎 第一回公演 八月十五日から二十九日(十五日間)
 演目 「妹背山婦女庭訓」「奇蹟」(菊池寛作)「津山の雪」
 出演者 大川橋蔵、市川松蔦、中村梅枝、澤村源平、坂東光伸、市川笑猿
 (役によって四日替り、または一日替り)


 ここに錦之助の名前はなかった。錦之助はこれを知ってショックを受ける。みな戦前の子役時代に、歌舞伎座の楽屋で遊んだ同窓生であった。戦後、遊ぶことはなくなったが、若手役者としてともに修業に励んできた。そこに自分の名前がない。「あげ羽の蝶」にその時のことがこう書かれている。

――松竹演劇部のキモ入りで三越劇場を本拠に、三越歌舞伎が定期的に公演されることになりました。これは東京歌舞伎の若い人たちを育てる趣旨のもので〝青年歌舞伎〟といわれ、兄の芝雀や、松蔦、大川橋蔵、岩井半四郎さんなどが加わっていました。もちろん、僕も名を連ねていたわけです。ところが第一回公演には、僕だけがどういう理由からか出演の顔ぶれから除外されていたのです。僕が何かやりたくて仕方がなかったときです。どうして僕だけがオミットされたのか考えると、夜も眠れずに泣いたのをおぼえています。

 文中にある兄の芝雀は当時の梅枝、岩井半四郎は当時の市川笑猿である。笑猿は歌舞伎役者ではなく日本舞踊家の初代花柳寿太郎の長男である。
 が、出演者の顔ぶれを見ると、東京歌舞伎界の二大派閥であった菊五郎劇団と吉右衛門一座、それに猿之助一座からバランスを考えて、若手のホープを人選したように思える。
 菊五郎劇団からは大川橋蔵と坂東光伸(のちに八十助、九代目三津五郎)で、この二人は六代目菊五郎の愛弟子だった。二人とも当時二十一歳。
 吉右衛門一座からは錦之助の兄の中村梅枝と澤村源平。梅枝は当時二十二歳、源平は最年少の十七歳(錦之助と同じ)。この二人は三年後の昭和二十八年にそれぞれ中村芝雀、澤村訥升となり、吉右衛門劇団のお神酒徳利と呼ばれ、美しい若女形として脚光を浴びていく。猿之助一座からは市川松蔦(のちに七代目門之助)と市川笑猿(昭和二十六岩井半四郎を襲名)が選ばれた。松蔦は当時二十一歳、笑猿は二十三歳。
 この六人が主な出演者だった。錦之助が選ばれなかったのは兄の梅枝を優先したわけで、時蔵の息子二人を出演させるわけにはいかなかったのだろう。

 錦之助は、四月の大阪歌舞伎座で雷蔵(莚蔵)をはじめ、鶴之助、扇雀、鯉昇、延二郎らの関西歌舞伎界の若手と知り合って大阪から帰ると、五月、六月と東劇に出演し、相変わらず脇役の女形や端役の丁稚や小坊主の役をやっている。東京の本興行だからいい役がつかないのは仕方がないとしても、青年歌舞伎で出演をはずされたのは堪らなかった。錦之助が「夜も眠れず泣いた」というのは本当のことだと思う。負けず嫌いの錦之助が悔し涙に明け暮れたのも当然であった。
 八月の三越劇場での第一回青年歌舞伎を錦之助が観に行ったのかどうかは分からない。観たせよ観なかったにせよ、俄然ファイトが沸いたことだけは確かであろう。
 錦之助は、九月に時蔵に伴って再び大阪へ行った。大阪歌舞伎座の大舞台で、関西の若手たちに混じって「涼み舟」の「江戸芸者はりまやお蝶」を演じたのは、そうしたファイト満々の時だった。
 武智鉄二が錦之助を観て注目したのも恐らくこの時だったのではあるまいか。武智歌舞伎に錦之助が出演を乞われたという話が「芸能生活五十年を語る」に出ている。

――そのころ、武智さんが僕をよく見ていて、武智さんが考えていた芝居にどうしても出てくれと言ってくれた。武智さんと亡くなった七代目三津五郎のおじさんの二人でね。そのころ鶴之助、扇雀などがやっていた若手歌舞伎のなかに入ってくれとね。松竹にも掛け合ったらしいけれどもうまくいかなかったらしい。

 錦之助が武智歌舞伎に出演することは結局実現しなかった。
 十月、錦之助は時蔵、種太郎とともに大阪から名古屋の御園座へ回り、吉右衛門一座と合流。吉右衛門、勘三郎、芝翫、そして梅枝とともに同じ舞台に立つ。錦之助は「忠臣蔵」で二役(大鷲文吾・女馬子お綱)、「神田祭」で手古舞おときという役を演じている。

 そして、東京へ戻ったその時である。思いがけない朗報が待っていた。



中村錦之助伝~世代交替(その4)

2012-09-30 04:03:41 | 【錦之助伝】~若手歌舞伎役者時代
 時蔵が吉右衛門一座から離れて、三越劇場を拠点に独立する動きを見せ、また松竹に戻ったことはすでに述べた。昭和二十四年のことである。この間、時蔵の心境にも大きな変化があったようだ。女形の役柄の幅を広げると同時に、初役の立役(主に和事の男役)も手がけ、新作にも意欲的に取り組んでいくようになる。五十歳を越して、自らに鞭を打ったのである。
 そして、時蔵は関西歌舞伎界とも交流を深め、大阪歌舞伎座へも出演する機会を増やしていった。旧知の壽美蔵が関西へ移住し、壽海を襲名して関西歌舞伎を盛り立てていたので、その応援ということもあっただろう。時蔵は、名女形の中村梅玉亡き後、いわゆる丸本物(義太夫狂言がベースになっている歌舞伎)を演じられる女形として関西でその芸質が高く評価される面もあったようだ。
 もともと吉右衛門も時蔵も父方(歌六)は上方系で、母方が生粋の江戸っ子だったため、いわば大阪と東京の混血役者であった。吉右衛門は戦前には度々一座を引き連れ関西へ公演に行っていた。戦後は体調を気づかって関西へ行く回数は減ったが、それでも上方歌舞伎に郷愁のようなものを抱いていた。時蔵も同じで、戦後は吉右衛門が行けない分、単独で関西へ赴くことが多くなったとも言えるだろう。
 
 時蔵の大阪歌舞伎座への出演は、昭和二十三年は二月、昭和二十四年は十月の一ヶ月だけだったが、昭和二十五年は四月と九月の二ヶ月、昭和二十六年になると三月、六月、十月の三ヶ月に及ぶ。関西での興行には長男の種太郎と錦之助も同行した。錦之助が同行しなかったのは昭和二十六年三月だけである。錦之助は吉右衛門劇団に所属していたが、まだそれほど重要な役につくことはなく、時蔵と行動を共にすることができた。時蔵との舞台では脇役とはいえなかなか良い役についたし、関西歌舞伎界で脚光を浴びている若手役者たちともナマで接することになり、大きな刺激を受けたにちがいない。
 「松竹七十年史」を見ると、大阪歌舞伎座の興行記録で昭和二十五年四月の主だった出演者の顔ぶれに、時蔵、種太郎、錦之助の三人の名前が載っている。時蔵は当然として、種太郎と錦之助の名前がここに書かれることはまずないので、驚く。時蔵が大阪歌舞伎座へ出演する場合の興行名は、ほとんどが東西合同歌舞伎で、この時は「中村梅玉追善興行」という副題が付いているが、その顔ぶれを書くと以下の通りである。

 壽海、雛助、簑助○富十郎、鶴之助、我當○時蔵、種太郎、錦之助○新之助、延二郎、壽三郎(本文は新字になっている)
 
 関西の若手では鶴之助、延二郎の名前しかないが、ほかに莚蔵(雷蔵)と鯉昇も出演している。扇雀は出演していない。関西ではちょうどこの頃武智歌舞伎が話題を呼んでいたこともあり、錦之助も彼らの意欲や熱気を感じたのではあるまいか。
 
 錦之助と雷蔵が知り合い、親友となるのもこの頃である。「平凡増刊 あなたの錦之助」(昭和三十三年十一月発行)の二人の対談にこんな箇所がある。

雷 蔵――だけど、いつ頃からかいな、錦ちゃんと仲よくなったの?
錦之助――初めて遭ったのは、大阪だよ。
雷 蔵――そうやな、たしかな、十七歳の頃や思うんだけど思い出せへんのだよ。
錦之助――大阪の歌舞伎座で……。
雷 蔵――お父さんと出て来た時なんや。二ヶ月目にはじめて口をきいたのがキッカケやなかったか……?
錦之助――たぶんそうだよ。二人とも天の邪鬼だからね、なれなれしくしなかったんだ。
雷 蔵――それがよかったんや。どうもね、初対面から慣れ慣れしいっていうのはな、ぼくは好かん……。


 大阪の歌舞伎座で知り合ったことだけは確かそうなのだが、雷蔵が十七歳の頃とか、二ヶ月目にはじめて口をきいたとか言っているのがヒントである。錦之助は対談の時点(昭和三十三年)では、すっかり忘れているようだ。
 雷蔵が十七歳というのは数え年だとすると昭和二十二年、満だとすると昭和二十三年八月二十九日(雷蔵は昭和六年のこの日が誕生日)以降昭和二十四年八月までになる。
 そこで調べてみると、錦之助が大阪歌舞伎座に出演して、しかも雷蔵も出演していた時期というのがどうしても見当たらない。
 また、二ヶ月目というのが分からない。だいいち錦之助が大阪歌舞伎座に二ヶ月続けて出演したことなどない。まず一ヶ月の興行があって、しばらくしてまた一ヶ月の興行があり、その終わりに初めて口をきいたのだとすれば話が通じるので、多分そうなのではなかろうか。そうすると、昭和二十五年の四月と九月ということになる。四月に同じ舞台に立って顔見知りになり、九月にまた同じ舞台に立って、その興行の千秋楽近くに初めて口をきいて意気投合した。この可能性が高い。ただし、雷蔵(当時は莚蔵だが)はこの年の四月は満十八歳である。
 大阪歌舞伎座の四月の興行(前述した中村梅玉追善興行)では、昼の部の「二月堂」という芝居で錦之助と雷蔵は同じ舞台に立っている。錦之助は茶摘み女おのぶという役、雷蔵は法師の役である。
「二月堂」は二幕物で、一幕目に錦之助、二幕目に雷蔵が出たのではないかと思う。「二月堂」は、昔離れ離れになった母と子が再会するという筋書きで、老母(渚の方)は時蔵、坊さんになった息子(良弁上人)は壽海が演じた。他の配役は、孝夫(左近光丸)、種太郎(茶摘み男)、 鶴之助(茶摘み女)、 寿美蔵・鯉昇(侍)である。
 孝夫は片岡孝夫で現・仁左衛門であるが、当時六歳で、子役だった。
 大阪歌舞伎座の九月の興行は仁左衛門追善興行で、夜の部ラストの食満南北作「涼み舟」という出し物で錦之助と雷蔵は同じ舞台に立っている。作者の食満南北(一八八〇~一九五七)は、初代鴈治郎の座付き作者で上方歌舞伎の劇評家としても活躍した人。この舞踊劇については、「あげ羽の蝶」で錦之助はこう書いている。

――舞台での初の顔合せは、大阪歌舞伎座での「夕涼み」という踊りでした。カブキ・バラエティーとでもいったもので、扇雀さんが若だんな、鶴之助さんの田舎娘、それに延二郎さん、鯉昇さん(現在の北上弥太郎)に、吉哉ちゃんといった関西カブキの若手の中に僕は芸者になって加わり、それぞれ思い思いの踊りをみせるといったものでした。

 吉哉ちゃんというのは、雷蔵の本名太田吉哉から、錦之助が雷蔵のことを呼ぶ時に使う名前である。「あげ羽の蝶」には、「市川雷蔵(本名太田吉哉)と僕とは、吉哉(よしや)ちゃん、錦ちゃんと呼び合う親しい仲です」とあり、「よしや」と読み仮名まで付けているが、本当は「よしおちゃん」なのではないかと思う。というのも、雷蔵が昭和二十六年四月壽海の養子になる前は竹内嘉男で、養子になって苗字が変わった時に姓名判断によって下の名前も変えたのだが、古くからの友人はみな雷蔵のことを「よしおちゃん」と呼んでいたからだ。錦之助が雷蔵と知り合うのも改名以前である。
 雑誌「幕間」に「夕涼み」の記事が載っているが、それによると演目名は「夕涼み」で上「夏祭」と下「涼み舟」の二部構成。配役は、我當(=団七郎兵衛)、簑助(=三河屋義平次)、寿海(=一寸徳兵衛)、嵐雛助(=女船頭吉田屋)、鶴之助(=田舎娘おつる)、中村あやめ(=町娘おみね)、莚蔵(=町娘おゑん)、中村昭二郎(=茶屋若女房おのぶ)、鯉昇(=太鼓持三中)、扇雀(=若旦那玉太郎)、錦之助(江戸芸者はりまやお蝶)。
 役名が自分にちなんだ名前で面白い。莚蔵は「おゑん」、錦之助は屋号と定紋を合わせて「はりまやお蝶」。楽しそうな舞台だったようだ。
 ところで、出演者に實川延二郎の名前がないのだが、はたして錦之助が言うように延二郎は出演したのだろうか。「松竹七十年史」を見ると、主な出演者の顔ぶれになぜか若手の名前が一人も載っていない。
 錦之助が大阪歌舞伎座へ出演した時は、ずっと楽屋に寝泊りしていた。多分昭和二十六年代までだと思うが、時蔵は旅館をあてがわれたのではなかろうか。兄の種太郎も同じように楽屋に宿泊していたのだろう。錦之助は雷蔵と仲良くなると、二人で、いや錦之助のことだがら、若い役者みんなで、夜な夜な大阪の繁華街へ出て遊び回り、また飲み歩き、京都に住んでいた雷蔵が帰れなくなると、自分の楽屋へ泊めていたそうだ。
 また、雷蔵が東京での歌舞伎に出演するため上京すると、必ず錦之助の家(三河台の時蔵の家)に泊り、家族の一員のように過ごしていた。雷蔵は一人っ子で、淋しがり屋だったこともあるが、錦之助とは大変ウマが合い、また大勢の家族がいる時蔵一家が大好きだった。 雷蔵は「平凡スタアグラフ 中村錦之助集」(昭和三十一年九月)に寄稿し、こう書いている。

――僕には兄弟(姉妹)がない。彼は十人兄弟(姉妹)だ。そして明るく心の温かい人達ばかりだ。僕は歌舞伎時代から錦ちゃんが大好きだった。また、彼の兄弟ご両親にいたるまで、僕の兄弟であり両親のように思える。いまでも親しい交際をして貰っているが、彼がああしてすくすくと伸びているのを見て、錦ちゃんの性分また彼の努力もさることながら一家の人びとの温かい力が感じられて、よそ目ながら羨しい。


中村錦之助伝~世代交替(その3)

2012-09-29 02:20:55 | 【錦之助伝】~若手歌舞伎役者時代
 昭和二十五年、錦之助は十七歳になっていた。
 錦之助が若手の歌舞伎役者としてようやく陽の目を見始めるのはこの年あたりからである。また、錦之助が最も意欲に燃え、歌舞伎の修業に打ち込み、一人前の役者になろうと目指したのもこの頃からだった。
 それは、錦之助が体格的にほぼ成人に達し、子役と大人役の中途半端な時期を終えたからでもあったが、何よりも関西歌舞伎界で錦之助とほぼ同年代の若手役者たちが一躍脚光を浴びたことが大きな刺激になった。
 坂東鶴之助、中村扇雀、市川莚蔵、嵐鯉昇といった関西歌舞伎在籍の面々である。
 鶴之助(のちの五代目中村富十郎)は、昭和四年生まれで、昭和二十五年当時二十歳、扇雀(現・坂田藤十郎)と莚蔵(のちの市川雷蔵)は、昭和六年生まれで十八歳、鯉昇(のちの映画俳優北上弥太郎、八代目嵐吉三郎)は、錦之助と同じ昭和七年生まれで、十七歳だった。もう一人、實川延二郎(のちの三代目延若)がいるが、彼は大正十年生まれで、二十九歳だった。鶴之助は四代目中村富十郎の長男(もともと東京出身)、扇雀は二代目鴈治郎の長男、莚蔵(雷蔵)は三代目市川九團次の長男(養子)、鯉昇は七代目嵐吉三郎の長男、延二郎は二代目實川延若の長男である。

 こうした若手の台頭の背景には、戦後の関西歌舞伎界の低迷と看板役者の払底があった。昭和十年、大看板初代中村鴈治郎亡き後、戦前の関西歌舞伎を支えていたのは、二代目實川延若、三代目中村梅玉、中村魁車の三人だった。そのうちまず魁車が昭和二十年三月戦災死し、昭和二十三年三月に梅玉が亡くなり、延若は戦後足が不自由になり歩行も困難になっていた(延若は昭和二十六年二月死去)。また、空襲で大阪の劇場の多くが焼けたことも歌舞伎の衰退に拍車をかけた。大阪歌舞伎座と京都南座しか残らなかったからだ。道頓堀で戦後、歌舞伎の劇場として復興したのは中座だけで、角座と浪花座は映画館になってしまった。戦後関西歌舞伎の衰退は急速に進行していた。
 昭和二十二年一月、中村翫雀が四十四歳で二代目中村鴈治郎を襲名した。(初代鴈治郎の長男は林又一郎だったが、名跡を弟に譲った。)が、鴈治郎は先代の父の偉大さを意識するあまり、しばらくスランプに陥っていた。昭和二十三年、東京から市川壽美蔵が関西に移籍し、翌二十四年二月三代目市川壽海を襲名した。以後五年ほど、関西歌舞伎界は、大阪生え抜きの三代目阪東壽三郎と壽海の二人が「双壽時代」と呼ばれながら、支えていく。が、二人は吉右衛門と同年の明治十九年(一八八六年)生まれで、昭和二十五年当時六十三歳であった。一座を成して興行を打つほどの勢いもなかった。

 戦後間もない頃の歌舞伎界は東も西も世代交替の時期であった。
 昭和二十四年、幸四郎、宗十郎、菊五郎が相継いで亡くなったが、東京の歌舞伎界には立役も女形も、主役級で四十歳から三十歳代の人気のある看板役者が揃っていた。昭和二十五年当時、海老蔵(最年長の四十一歳)、幸四郎、松緑の三兄弟に、勘三郎、梅幸、芝翫(最年少の三十二歳 のちの歌右衛門)などである。
 それに対し、関西には彼らの世代に当たる主役級の看板役者がいなかった。林又一郎、鴈治郎の兄弟、片岡我當(のちの十三代目仁左衛門)、坂東簑助(のちの八代目三津五郎)、中村富十郎たち四十歳代の後に続く世代で、いずれ看板をしょって立つ人気役者が育っていなかった。しかも、伝統的な上方歌舞伎を伝承する指導者も手薄で、関西歌舞伎は東京歌舞伎の植民地のようになっていた。(壽海だけでなく我當も簑助も富十郎もみな東京出身で、悪く言えば東京からの流れ者で、花形役者ではなかった。)それがかえって十代後半から二十歳代前半の若手たちの奮起を促し、チャンスを生んだ。頭を押さえつける先輩が少なかったことが幸いしたのだった。
 
 昭和二十四年、劇評家の武智鉄二が、若手の未熟だが才能ある役者を選んで、「歌舞伎再検討のための公演」を立ち上げ、簑助とともに自らも演出を手がけ、猛烈な稽古によって自主上演を試みていく。まず鶴之助と扇雀と延二郎が選ばれ、それに「つくし会」という若手研究会の中心メンバーだった莚蔵、鯉昇らが加わって、第一回公演が昭和二十四年十二月月七日から十日間大阪文楽座で催される。演目は「熊谷陣屋」「野崎村」であった。第二回公演は昭和二十五年五月、場所は同じく大阪文楽座で、演目は「妹背山道行」「俊寛」「勧進帳」であった。(第二回は、扇雀が病気欠場した。)
 この通称「武智歌舞伎」は、歌舞伎界に賛否両論を巻き起こしたが、古典歌舞伎の革新運動になって、沈滞した歌舞伎界に新風を吹き込む。武智歌舞伎は、その後、京都南座、西宮、神戸ほかを巡演し、大阪歌舞伎座へも進出し、少年上がりとも言える若手役者が関西で一躍脚光を浴び、人気を博するようになった。なかでも、鶴之助、扇雀、莚蔵、鯉昇の四人に人気が集った。マスコミもすぐに飛びつき、「扇鶴時代」と呼んで持て囃した。
 戦後京都で発行されていた「幕間」(和敬書店 昭和二十一年五月から昭和三十六年十月まで発行)という演劇雑誌があり、毎年東西若手歌舞伎役者の人気投票を行っていた。その昭和二十六年一月号によると、昭和二十五年度(第三回若手人気俳優)の投票結果は以下のようになっている。(有効総票数一六一六票という小規模なものだが参考までに)

 ︿東﹀①芝翫(昭和二十六年歌右衛門襲名)二八八票 ②海老蔵 一九七票 ③梅幸一六五票 ④勘三郎 九二票 ⑤松緑 八九票 ⑥幸四郎 六二票 ⑦友右衛門 一七票
(合計票数九一九票 錦之助に一票だけ入っている)
 ︿西﹀①莚蔵 一六四票 ②我當(のちの仁左衛門)一三三票 ③鴈治郎 一二九票 ④鶴之助 七四票 ⑤扇雀 七二票 ⑥簑助 七一票 (合計票数六七七7票)
 東は、歌右衛門時代の先駆けと海老さま人気である。西は、莚蔵(昭和二十六年雷蔵を襲名)がトップで、これは第二回武智歌舞伎の「妹背山道行」で莚蔵が演じた求女の役が評価されてのことだったが、それにしてもいかに層が薄いかが分かる。
 ちなみに昭和二十六年度もほぼ同様の顔ぶれであった。東は前年と変らず。西は順位が変わっただけで、若手三羽烏がベストスリーを占める。 ①鶴之助 ②雷蔵 ③扇雀 ④仁左衛門 ⑤鴈治郎の順。この年、莚蔵は市川壽海の養子となり、六月に市川雷蔵(七代目だったが後に八代目に変更)を襲名している。


中村錦之助伝~世代交替(その2)

2012-09-14 20:31:42 | 【錦之助伝】~若手歌舞伎役者時代
 父時蔵の去就によって、錦之助の置かれた状況も不安定になった。錦之助は吉右衛門一座に身を置きながら、時蔵一門の舞台にも出演するといった中途半端な状態を続けていく。
 時蔵は、吉右衛門のもとから離れ、猿之助と組むことが多くなっていくが、戦後は、梅幸の音羽屋ゆかりの毒婦や幽霊などにも手を広げた。例えば「切られ与三」のお富、「女団七」のお梶、「怪談累物語」のかさね、舞踊劇では「茨木」「土蜘」の鬼女・妖怪などである。立役にも野心を見せ、新作物も手がけるようになる。
 昭和二十四年、時蔵は、三越劇場で座頭を勤める頃、一時期松竹からもフリーになったようだ。歌舞伎界を一手に牛耳っていた松竹を辞めるというのは大変なことである。いわゆる松竹大帝国に反旗を翻すに近い。三越劇場の公演を終えると、八月に時蔵一座は地方巡業に出る。
 時蔵の三周忌に出版された記念本「三世中村時蔵」(昭和三十六年発行 利倉幸一編)に時蔵の評伝があり、第三部戦後以降は戸板康二が担当している。それによると、戸板自身、評伝を執筆する時点で初めて知ったらしく、こんなことを書いている。

――年表によれば、この二十四年七月のところに「事実上時蔵松竹脱退」とある。その間の事情をつまびらかにしないが、会社との専属を離れ、新しい劇団を新しいプロデューサーのもとで発足しようという機運があったのは、記憶している。プロデューサーの計画が思うにまかせなかったため、時蔵の野心的な構想が、十分実らぬうちに元の鞘へ復したのは、演劇史的には、残念な気もしないことはない。

 この年表というのは、この記念本のために今尾哲也という人が詳細に作成したものを指しているが、編集後記にあるように出版の際に大幅な削除があり、実際巻末に掲載された「中村時蔵年譜」には、「事実上時蔵松竹脱退」の一行はカットされている。編者の利倉幸一の独自の判断によるものか、時蔵の遺族からの要望があったのかは分からぬが、後々のことを考慮して松竹に対し気を遣ってカットしたことだけは確かだと思う。結局、時蔵はすぐに松竹へ復帰することになったそうだが、昭和二十四年夏前後の時蔵の去就については、謎のままである。「年譜」の昭和二十五年二月のところに、「時蔵後援会『獅童会』結成」という一行があるが、これは時蔵の再出発を励まし、再び時蔵劇団の実現をはかろうという人々が集まった会だったのかもしれない。今となっては詳しいことは分からない。
 前掲の評伝で、戸板康二は続けてこう書いている。

――しかし、じつは、時蔵はすでに、女形の第一人者であり、やがて芸術院会員にも推されるような立場に立っていた。五十四才の時蔵が、従来の場に甘んじないで、子供たちの力を支えに、新しい劇団をこしらえようとした壮んな意気は、今考えても、賞められていいと思うが、その反面、時蔵は、正統派として、歌舞伎の本拠である松竹に、いいかえれば二年のちに開場する歌舞伎座に、立女形としての地位を保守したのが、結局は妥当なあり方だったといえるかも知れない。

 時蔵が松竹に戻ったことは、結果的には確かに良かったことだった。が、その後も、時蔵自身、独立した自前の劇団を持ち、新たな道を進もうと思っていたことだけは間違いない。だから、立役にも手を広げ、新作にも意欲的に取り組んだのだろう。また、時蔵の周囲も、悪い言葉で言えば、それをけしかけていた。
 時蔵は、全員歌舞伎役者になった五人の息子たち、種太郎、梅枝、獅童、錦之助、賀津雄に期待をかけ、さらに古くからの門弟と気心の知れた役者たちを加えて、一座を成そうとずっと考えていた。それが時蔵の夢でもあり、ひな夫人の夢でもあったのだと思う。が、時蔵という人は、役者としては素晴らしかったにせよ、政治力と人望のある親分肌の人ではなかったように思う。
 戦後の数年間は、大所帯を抱えた時蔵一家にとって、その経済的苦労は並大抵のものではなかった。これは錦之助も書いていることだが、母ひながやり繰りして何とか一家を支えていたようだ。当時(昭和二十五年前後)の松竹専属の歌舞伎役者の給料(給金というのか)がどのくらいで、また時蔵のランクだとどのくらいだったかは分からないが、一般のサラリーマンで言えば部長クラスよりはるかに多かったことは確かであろう。しかし、息子たちの出演料といわゆるご祝儀を合わせても、大所帯のやり繰りは大変だったにちがいない。
 昭和二十一年十一月に五女正子が生まれ、昭和二十四年当時には、十六歳の錦之助の上に兄三人と姉二人、錦之助の下に妹三人(諄子十三歳、広子十二歳、末っ子の正子は二歳)と十歳の賀津雄がいた。賀津雄は暁星小学校の五年生、二人の妹は中学生だった。三河台の家には、この家族のほかに、婆やとお手伝いさんと内弟子がいたというから、総勢二十人以上の大所帯だった。

中村錦之助伝~世代交替(その1)

2012-09-13 23:53:20 | 【錦之助伝】~若手歌舞伎役者時代
 戦後しばらく、東京の歌舞伎界は、菊五郎と吉右衛門を中心に回っていた。この二人を座頭とする本流二派に、猿之助一座を加えて、三派と言ってもよいかもしれないが、猿之助一座は傍流であった。
 大御所七代目幸四郎も舞台に出た。が、すでに老齢の域に達していた。また、宗十郎が晩年の活躍を見せ、いわゆる宗十郎歌舞伎を確立するのも戦後のこの時期であった。ベテランの坂東三津五郎は健在だった。
 昭和二十二年、菊五郎と吉右衛門、そして幸四郎の三人は、芸術院会員になるが、菊五郎は六十二歳、吉右衛門は六十一歳、幸四郎はすでに七十七歳だった。
 歌舞伎界に暗い出来事も起った。
 戦後間もない食糧難の頃、昭和二十一年三月十六日、十二代目片岡仁左衛門(六十三歳)が殺される事件が起った。食べ物の恨みから、住み込みの門弟に薪割り用の斧で、夫人、三男、女中二人とともに殺されたのだった。
 関西歌舞伎では昭和二十三年、女形の名優中村梅玉(七十三歳)が亡くなった。
 
 東京の歌舞伎界が大きな痛手を受けるのは、昭和二十四年だった。三人の大看板が次々と亡くなったのである。
 一月二十六日、七代目幸四郎が死去(七十八歳)。
 三月二日、七代目宗十郎が死去(七十三歳)。
 七月十日、六代目菊五郎が死去(六十三歳)。

 六代目菊五郎は四月東劇で「加賀鳶」の道玄を勤めている最中に眼底出血で倒れ、療養中だった。その菊五郎が七月十日死去した。

 これで、歌舞伎界の勢力図が変った。
 吉右衛門がトップに立ったのだが、吉右衛門はライバル菊五郎の死後衰えを見せ、また病気がちだった。後進に道を譲って出番を減らし、また守役になることも多くなった。そこで、当時伸び盛りだった若手たちが歌舞伎界を背負っていくことになる。
 菊五郎劇団は、菊五郎の死後、男女蔵、海老蔵、松緑、梅幸が中心となって結束を固めた。彼らはみな実力をつけ人気役者になっていく。
 吉右衛門一座は、染五郎、もしほ、芝翫が次々と名跡を襲名し、八代目幸四郎(昭和二十四年八月襲名)、十七代目勘三郎(昭和二十五年一月襲名)、六代目歌右衛門(昭和二十六年四月襲名)となって看板を張り始める。
 歌舞伎界に世代交替の時期が始まった。

 こうした状況下で、立女形の時蔵は、微妙な立場に置かれていく。
 大正期から戦後間もない頃まで四十年以上にわたり、時蔵は兄の吉右衛門と行動を共にして来た。これは舞台の上での話だが、吉右衛門と時蔵は、ずっと恋人同士あるいは夫婦の関係であった。
 時蔵は、大正から昭和初期の二大女形と言われる五代目歌右衛門と六代目梅幸から学んだ女形だった。時代物の品格ある奥方や遊女、例えば、淀君、常盤御前、「先代萩」の政岡、「子別れ」の重の井、「助六」の揚巻、世話物では良妻型の子持ちの女房を得意役とした。が、時蔵は、古風で地味な役者であり、華やかさで観客を魅了する役者ではなかった。名優ではあっても、一枚看板で客を呼べる人気役者ではなかった。次第に芝翫(のちの歌右衛門)が頭角を現していくにしたがい、吉右衛門が芝翫を相手役に登用し始め、時蔵は脇に回り、年齢相応の役が多くなっていった。
 吉右衛門は、五代目歌右衛門の子で、早世した天才女形五代目福助の弟とも遺児とも言われる芝翫を特別に可愛がった。そして、戦後、吉右衛門が主役を張らない時は、主役は娘婿の染五郎、または弟のもしほがやり、相手役は芝翫が勤めることが多くなった。時蔵の出る幕がだんだん少なくなった。
 そうした不満もあったのだろう、時蔵は昭和二十一年暮に吉右衛門一座を離れた。そして、昭和二十四年からは三越劇場を本拠に、自らが座頭となって新たな道を模索していく。
 三越劇場では、同年の初夏から三ヶ月にわたって時蔵中心の出し物を組むが、小規模だがユニークな企画であった。主な出し物は、五月が「先代萩」「小猿七之助」、六月が「吃又」「切られお富」、七月が「怪談累物語」「女団七」。
 そこに、錦之助も加わり、「先代萩」「吃又」以外に出演した。が、すべて女役だった。兄の種太郎は男役、賀津雄は子役である。梅枝は吉右衛門一座に残り、獅童は役者を廃業していた。
 ここで、錦之助の兄三人について触れておこう。
 長兄種太郎(本名貴智雄)は、戦中から六代目菊五郎の教えを受けていたこともあり、戦後は二年ほど菊五郎一座にいたが、この頃は時蔵の側近にいた。種五郎は吉右衛門のライバルの菊五郎に師事したため、吉右衛門一座へは戻れず、父の時蔵の庇護下にいるほかはなかった。種太郎は、一番苦労したのではないかと思う。彼は幼い頃小児麻痺を患ったため、成人してからも身体が不自由で、しかも時蔵の長男として期待されていた重圧もあり、それに負けじと修業に励んだのだが、思うようにいかなかった。体型も顔立ちも女形向きではなかったので、立役を目指していたが、身体的にも才能的にも限界があった。種太郎は、昭和二十四年十一月、二十四歳で結婚した。長男進一(米吉から現・歌六)が生まれるのは、昭和二十五年十月である。
 次兄梅枝(本名茂雄)は、中学時代には大病したこともあり舞台に出ることはなかったが、戦後は吉右衛門一座で順調に成長を遂げていく。種太郎と違い、女形に向いていたことも幸いした。時蔵と同じ女形を目指したので、時蔵から学ぶことも多く、また吉右衛門劇団の女形ナンバーワン芝翫(のちの歌右衛門)に可愛がられたことも大きかった。梅枝は、時蔵と芝翫という吉右衛門の新旧二人の女房から女の手ほどきを受けたのである。それにまた女形としては無類の美しさだったので、将来を嘱望されていた。
 三兄獅童(本名三喜雄)は、終戦後一時期は若衆役などで出演していたが、ある事件を起こし、歌舞伎界からきっぱり身を引いてしまう。
 その事件とは、六代目菊五郎の「喜撰」にお迎え坊主の役で出ていた時、先輩の尾上松緑にからかわれ気味に「まずいな」と言われて憤慨、いくらなだめすかされても、翌日から舞台に立たなかった、というのである。獅童は、自分のことならともかく、身内のこともけなされて激怒したというのが真相だったようだ。身内とは誰だか分からないが、種太郎のことだったのではあるまいか。
 この事件は、昭和二十一年六月、東劇でのことだったと思われる。獅童は、もともと役者が好きではなく、将来に不安を抱えていたこともあり、自分の意志を通したのだろう。役者を廃業した彼は、その後、サラリーマンに転身、小川三喜雄という普通の人になってしまう。勤め先は外資系の銀行だったという。後年(昭和二十九年)、錦之助が東映に入ると、彼も東映企画部に入社し、錦之助映画のプロデュースを担当することになるのは周知の通りである。途中から小川貴也という名前に変えている。