錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『浪花の恋の物語』(その6)

2016-12-25 21:41:02 | 浪花の恋の物語
 初めは巨匠の前でかしこまっていた三喜雄も、だんだん打ち解けてきた。正座を崩さずニコニコしながら話を聴いている三喜雄を見て、吐夢が言った。
「いやあ、実は、錦之助君に対しては申し訳ないなと思っていたんです。『大菩薩峠』で3年間も宇津木兵馬をやらせてしまいましたからね。来年の春、完結篇を撮ってから、次は錦之助君の主演作をぜひ撮ってみたいと思っていたところに、この話が来たんで喜んでお引き受けした次第なんです。忠兵衛はまったく違った役になりますが、今の錦之助君なら十分演じられるでしょうし、大いに期待しているんですよ」
 そう言われて、三喜雄は、弟のことながら、嬉しさで胸がいっぱいになった。
「忠兵衛は錦之助がずっとやりたがっていた役ですし、内田先生の作品ということで、錦之助も大変喜んでいるんです。ぼくも同じ気持ちです」
 吐夢はほほ笑みながら、辻野のほうを見て、
「弟思いのプロデューサーがそばにいて、錦之助君も幸せですな。辻野君も全面的に協力してあげないといかんな」と言った。
 辻野は、自分に向けられた吐夢の言葉に、この企画を実現させろという吐夢の指示を感じとり、あわてて「はいっ」と答えた。
「ところで、相手役の梅川のほうですが、ひとり、考えてる女優がいるんです」
 辻野も三喜雄も思わず膝を乗り出し、吐夢の顔を覗き込んだ。
「ほー、だれですか?」と辻野が尋ねると、吐夢はちょっと照れくさそうな表情を浮かべながら、それでもきっぱりと言った。
「有馬稲子です」
「ああ」と辻野は言うと、合点がいったように首を縦に二、三度振った。
 三喜雄はハッとして、口をぽかんと開けたまま、すぐに有馬の顔を思い浮かべた。有馬には一度も会ったことがないので、雑誌のグラビアか何かの写真の顔である。そしてすぐに、錦之助が「有馬稲子と共演したいなあ」と何度も言っていたことを思い出したのである。
「この前の映画に少しだけ出てもらったんですが、なかなかファイトのあるいい女優でしてね」と吐夢が言った。
 その映画とは、今年の秋に吐夢が撮った『森と湖のまつり』(昭和33年11月26日公開)であった。アイヌと日本人の問題をテーマにした武田泰淳の長編小説を植草圭之助が脚色し、東映東京撮影所で製作した現代劇のカラー大作である。主演は高倉健、共演に三國連太郎、香川京子、中原ひとみ、藤里まゆみ、そして有馬稲子が特別出演した。吐夢は、高倉健の相手役として最初、左幸子を希望したが、日活の専属女優だった左は五社協定のため出演することができなかった。そこで有馬稲子を候補に上げ、出演交渉をしてもらったところ、北海道ロケが長期に及ぶことを有馬が聞いて、その役を辞退した。それで、久我美子に話が行ったが、久我もスケジュールの都合で出られず、最後に急きょ、香川京子に決まった。しかし、有馬は、吐夢のこの映画にぜひ出たいと思い、東京でのセット撮影ならオーケーして、一場面だけ特別出演したのである。釧路のスナックのマダムの役であった(この役は当初淡島千景を予定していたが、淡島が有馬に譲ったようだ)。(つづく)



『浪花の恋の物語』(その5)

2016-12-24 18:55:18 | 浪花の恋の物語
 三喜雄が、企画部長の辻野公晴とともに、東京・笹塚にある内田吐夢の家を訪ねたのはクリスマス過ぎであった。年を越す前に、挨拶と簡単な打ち合せだけはしておきたかったからだ。
 辻野は、吐夢とは戦前から旧知の間柄だった。三喜雄は、吐夢と京都撮影所で挨拶をする程度で、直接会って話したことはない。巨匠吐夢の作品のプロデュースを担当するのも初めてなので、緊張していた。
 数日前、吐夢を訪ねた鈴木尚之が、「吐夢さんが監督を快く引き受けてくれたので、ほっとしたよ」と言っていたが、三喜雄も同じ気持ちだった。弟の錦之助が快諾することは分かっていたので、最初に鈴木から吐夢に打診してもらったのだ。鈴木の話では、錦之助が主演することも、成沢昌茂がシナリオを書くことも、喜んで了承したという。
「梅忠」映画化の話が持ち上がって、わずか一週間で、監督、脚本家、主演者が決まったのだが、まだこれから先が大変であることは、三喜雄も十分承知していた。本社の企画会議にはかったところ、幹部から消極的な意見が出て、まだ製作決定にまでは至っていない。大阪の商人と遊女との悲恋話では、立ち廻りもなく、東映向きではない、というのである。
「会社も慎重になるんだよ。それに吐夢さんが監督するとなれば、大作になること間違いないし、金も日数もかかるからな」と辻野が言った。
「錦之助もやる気満々ですし、なんとか企画が通るようにぼくも頑張りますので、よろしくお願いします」と三喜雄は辻野に頭を下げた。
 辻野は、マキノ光雄亡きあと、企画段階で錦之助出演作のほぼすべてに関与し、また、三喜雄が錦之助主演作品をプロデュースするのをこれまでずっと積極的に支援してきた人物である。沢島忠監督の『一心太助』と『殿さま弥次喜多』シリーズ、柴田錬三郎原作の『源氏九郎颯爽記』『剣は知っていた 紅顔無双流』、そして『風と女と旅鴉』『浅間の暴れん坊』などはすべて、三喜雄(タイトルでは小川貴也)と辻野の共同プロデュースであった。
「吐夢さんにもきっと何か考えがあると思うんだ。巨匠、あれでいてなかなかの戦略家だしなあ」
 東映内では皆、吐夢のことを、畏敬の念を込めて「巨匠」という名で呼んでいる。それは、彼の映画だけでなく、体格もまた、並外れてスケールが大きいためである。撮影中は怖くて近寄りがたいが、普段は温顔に微笑をたたえ、言葉遣いも丁寧で、人当たりもよい。

 吐夢は、愛想よく辻野と三喜雄を迎えた。
「鈴木君から話を聞いて、近松のああいう世話物を東映でやるのは難しいんじゃないかと思ったんですけどね」と言うと、吐夢は話を続けた。
「東映の時代劇は、侍かやくざが主役で、チャンバラが売りものですからね。わたしが前に撮った『暴れん坊街道』は、近松の原作でも親子の話で、現代にも通じるテーマでしたから、チャンバラがなくてもドラマになりましたが……」
「いやあ、あれはいいシャシンで泣けましたよ」と辻野は言った。お世辞ではなく、本当のことだ。三喜雄もすぐに辻野の言葉を継いで、
「ぼくもです」と言った。
「それで、今度の『梅川・忠兵衛』なんですが、亡くなった溝口さんならリアリズムで追い詰めて描くでしょうが、わたしは男女の情話みたいなものは苦手ですからね。近松が生きていた時代の大阪の社会的経済的な背景から男女の悲劇を描いてみようかと思っています。当時の大阪は商人が台頭して、金の力がものを言う社会が成立していたんですね」
 辻野も三喜雄も頷きながら、吐夢の話を聴いている。
「これは成沢君とも話し合って決めなければならないことなんですが、テーマは、金が人間を支配する社会の中で反逆した人間の悲劇でしょうかね。今度の映画では封印切りが沸騰点になるんでしょうが、いろいろな内面的な葛藤があって、それが煮詰まって、封印切りという行動に至らしめたと解釈したいんです」
 吐夢の弁舌はよどみない。「梅忠」の映画の内容が社会性を帯び、ぐっと深まってくるから不思議である。(つづく)



『浪花の恋の物語』(その4)

2016-12-15 14:18:13 | 浪花の恋の物語
 錦之助が吉右衛門の忠兵衛を観たのはもう10年近く前のことであった。
 昭和24年3月、「恋飛脚大和往来」の「封印切」の場が新橋演舞場で再演され(昭和23年1月帝国劇場で上演され好評だった)、還暦を過ぎた吉右衛門が連日、忠兵衛を熱演していた。梅川は若き日の歌右衛門(当時芝翫)、八右衛門は脇役のベテラン市川團之助であった。
 当時16歳の錦之助は、同じ新橋演舞場でその前の演目に出演していたが、それが終わると顔を落として私服に着替え、客席に回って、食い入るように舞台を観ていた。
 その時の伯父の姿や顔つきが、断片的ではあるが今も錦之助の瞼に浮かんでくる。
 ふところの金を握り締め、全身をわななかせている姿。封印が切れて小判がこぼれ落ち、あわてて拾い集める姿。そして、小判を突き出して、勝ち誇ったように笑っている顔つき……。

 いつか伯父からこんな話を聞いたことを錦之助は覚えていた。
「梅忠」は、上方の義太夫狂言で、忠兵衛と孫右衛門(忠兵衛の実父で「新口村」の場で登場する)はもともとおやじ(三代目歌六)の当たり役だった。おやじは大阪生まれの上方役者だったから、成駒屋さん(初代鴈治郎)よりずっと前から忠兵衛をやっていたんだ。上京して、おやじは東京の舞台でも何度か「梅忠」をやっていた。私は子供の頃、おやじの忠兵衛を観て、覚えたんだ。
 それで、私は二十代の頃、市村座で一度忠兵衛をやったことがあった。おやじが孫右衛門だった。その時やった私の忠兵衛は評判が悪くて、それからずっとやらなかった。四十を過ぎてもう一度やったら、初日に病気になって、二日目からずっと休んでしまった。この年になって、また久しぶりにやって、やっと褒められたんだが、やり甲斐のある役だと思っている。
 
 忠兵衛の役は、あの世にいる伯父さんからの贈り物なのだろうか?
 いや、贈り物ではあるまい。芸に人一倍厳しかった伯父さんが自分に与えてくれたのは、きっと課題にちがいない。忠兵衛のような難役をどう演じるかという課題を出して、もっと演技の勉強をしろということなのだろう。
 そう考えると、喜んでばかりもいられない。忠兵衛をやるなら、気を引き締めて臨まなければなるまい。
 しかし、これでまた来年の楽しみが増えたと錦之助は思った。(つづく)



『浪花の恋の物語』(その3)

2016-12-13 19:59:35 | 浪花の恋の物語
 12月22日の午後――。
 正月作品『殿さま弥次喜多 捕物道中』が昨日クランク・アップして、錦之助は京都から弟の賀津雄といっしょに東京へ帰って、青山の実家にいた。
 今年の映画の仕事は全部終わってほっとした気分だったが、まだゆっくり休むわけにはいかなかった。実家には一日だけ居て、夜にはまた賀津雄とともに沖縄へ飛行機で旅立つのだ。沖縄の錦之助後援会の招きで、那覇市の劇場で舞台挨拶をして、舞踊と立廻りの実演を行なうためである。錦之助にとっては初めての沖縄で、クリスマスをはさむ一週間の滞在で観光も兼ねていたので、わくわくして心も浮きたっていた。
 旅行の仕度をしている錦之助に、東映本社にいる兄の三喜雄から電話が入った。来年撮る映画の企画についての話であった。
「まだ本決まりじゃないんだけど、すごい企画があるんだよ」
三喜雄の声から興奮ぶりが伝わってくる。
「へえ、どんな?」
「企画部の鈴木君から、ぜひやらないかって言われたんだ」
「なんだよ。もったいぶらないで早く言えよ」
「実は、近松の『梅川・忠兵衛』をさ、来年の夏あたりに映画にしようって話なんだ。やるかい、忠兵衛?」
「えっ!やるに決まってるじゃないか。来たか忠さん待ってたホイだ」
「真面目に聞けよ。ホンは成沢さんが書いて、監督は吐夢さんが引き受けるってことなんだよ」
「ほんとかよ。すごいね」
「この企画、進めていいよな」
「いいよ。よきにはからえ!」
 電話を切って、錦之助は小躍りして喜んだ。
 いつか絶対に、近松の世話物の主人公をやってみたい。これは錦之助が歌舞伎役者だった二十歳の頃に抱いた夢であった。その頃はちょうど近松生誕三百年(昭和28年)で、歌舞伎界は近松ブームだった。錦之助もその中にどっぷり浸かって、近松の劇作の素晴らしさに感激し、大きな影響を受けたのである。
 映画界に入ってから、この夢は願望に変わり、錦之助はなんとかそれを実現させたいと思っていた。心中物では「曽根崎心中」の徳兵衛、いわゆる犯罪物では「女殺油地獄」の与兵衛がとくに演じてみたい役であった。
 3年ほど前、錦之助は「女殺油地獄」の与兵衛をぜひやらせてほしいと、専務のマキノ光雄に進言したことがあった。しかし、マキノは、首を縦に振らなかった。極道息子で女殺しの役だから錦之助には向かないと考えたのだろう。そのうち「女殺油地獄」は東宝に先取りされ、映画にされてしまった。主役の与兵衛は、錦之助の歌舞伎時代からのライバル中村扇雀だった。映画俳優としては鳴かず飛ばずだった扇雀が熱演して高い評価を受け、映画もヒットした。その時、錦之助は歯ぎしりするほどの悔しさを味わった。昨年の秋の終わりのことである。(東宝カラー作品『女殺し油地獄』は、堀川弘通監督、橋本忍脚本、新珠三千代、中村鴈治郎共演、昭和32年11月公開)
 また、一昨年の夏に、近松原作の映画を内田吐夢監督が撮るという話を人づてに聞いた時には、錦之助は自分にお声がかかるのではないかと心待ちにしていた。が、それも失望に終った。『暴れん坊街道』(昭和32年2月公開)は、「重の井子別れ」の映画化であり、配役上、自分のやれるような役はなかった。それで納得がいったのである。
 そんなこともあって、錦之助は近松の主人公を演じることをあきらめかけていた。それが、兄の三喜雄からの思いがけない知らせである。
「冥途の飛脚」の忠兵衛は、願ってもない役であった。
 そして、もし自分が忠兵衛を演じることになるとすれば、錦之助は何か宿縁のようなものを感じないわけにはいかなかった。忠兵衛は、今は亡き伯父の吉右衛門の晩年の当たり役だったからだ。(つづく)



『浪花の恋の物語』(その2)

2016-12-09 21:07:20 | 浪花の恋の物語
「監督は吐夢さんがいいと思いますけど……」と鈴木尚之が続けて言った。
 内田吐夢は、鈴木が最も敬愛し、また親しく接している監督であった。吐夢と仕事上の付き合いが始まったのは、『黒田騒動』(昭和30年秋に製作)からで、すでに9本の吐夢作品に関わって、企画準備やシナリオの完成に協力してきた。
 2年前に、吐夢は近松原作の映画を撮っていた。近松の「丹波与作・待夜小室節」、歌舞伎のいわゆる「重の井子別れ」を映画化した『暴れん坊街道』(昭和31年秋に製作)である。溝口健二監督作品の名脚本家であった依田義賢が溝口亡きあと、初めて吐夢と組んでシナリオを練り上げた。重要な役のキャスティングも吐夢の思い通りに行った。現代劇専門の佐野周二を主役の与作に抜擢し、重の井には山田五十鈴を迎え、さらに馬子の三吉に天才的な子役の植木基晴(千恵蔵の長男)をあてたのである。『暴れん坊街道』は、久しぶりに吐夢の演出が冴え、この三者が好演し(加えて千原しのぶも好演)、吐夢の戦後復帰第一作『血槍富士』以来の佳作になった。その勢いに乗って、吐夢が取り組んだ大作が『大菩薩峠』(第一部は昭和32年春の製作)であった。
 吐夢は、マンネリを嫌い、自分が作った映画のリメイクを断り、会社企画の映画でも常に何か新しいものに挑戦する気概をもって、一作一作、映画作りに打ち込んでいる。そんな吐夢が再び近松原作の映画を引き受けるかどうか、鈴木は思わず首をかしげた。
『大菩薩峠』三部作の完結篇は来年春に撮影予定であるが、それが終わったあとの吐夢作品は今のところ何も決まっていない。企画担当の鈴木も焦っていた。
 成沢昌茂は、最初、監督には松田定次かマキノ雅弘を頭に浮かべていたが、鈴木に内田吐夢はどうかと言われて、
「そうだ、吐夢さんがいい、いや、吐夢さんが最適かもしれない」と言った。
 成沢は、これまで吐夢の映画のシナリオを書いたことはなかったが、恩師の溝口健二から彼の話は聞いていたし、映画も数本見ていた。
 吐夢には溝口にない逞しさと論理があり、また溝口のように人間を冷徹な目でリアルに捉えるのではなく、吐夢はむしろ人間を主観的に見て、自己投影しながら描いていく傾向が強い。だから、溝口は異性の女を主人公にして描くのが得意で、吐夢は同性の男を描くのが得意なのだろう、と成沢は思っていた。
「吐夢さんなら、『梅忠』も線の太い映画になりますね。男と女の情話を新派みたいに描いても面白くないですからね」
 そう言われると鈴木も自信が湧いてきた。確かにマキノ雅弘なら、こうした題材はお手のもので、喜んで演出するだろう。が、しかし、レディーメイドな娯楽映画になることは目に見えているのではなかろうか。吐夢が監督すれば、人間の内奥に迫った芸術的な問題作ができるにちがいない。
「梅川にはだれがいいでしょうかね」と鈴木は成沢に尋ねた。
「東映にはいないような気がしますが……」
 鈴木も東映の女優たちの顔を思い浮かべてみたが、これぞという候補が見当たらなかった。他社から借りてくるか、フリーの女優を探すしかないかもしれない。成沢も同意見であった。
「まあ、梅川のほうは、錦ちゃんの忠兵衛が決まったら、考えればいいでしょう」
「そうですね」と鈴木も頷いた。
 こうして二人は渋谷で別れた。(つづく)