いよいよ最終回である。
それにしても錦之助はこの『宮本武蔵』五部作でいったい何人の俳優たちと共演したのであろうか。数え切れないほどである。錦之助と共演者が二人だけで火花を散らす熱演を繰り広げた名場面をあえて選ぶとするならば、次の三つになるであろう。(第一部)千本杉に吊るされた武蔵と沢庵和尚(三国連太郎)が口論する場面、(第二部)武蔵と日観(月形龍之介)が寺の一室で対決する場面、(第四部)武蔵と吉野太夫(岩崎加根子)が遊里の茶室で対話する場面。
この三つが名場面であることについては、五部作すべて観た人なら誰も異論をはさまないだろう。しかし、これだけでは面白くない。このほかに、錦之助の人間的な暖かさがにじみ出て、私がいいなーと感じた場面をいくつか挙げておこう。
第二部と第三部では、武蔵が城太郎(竹内満)と一緒に居る場面が私は好きである。木賃宿に酒の注文を取りに来た城太郎と武蔵が会話する場面、大和街道で追いかけてきた城太郎に武蔵が出会う場面、奈良の逗留先で用事を済ませ訪ねて来た城太郎を武蔵が出迎える場面、柳生の里で犬に噛まれ顔に怪我をした城太郎に宿屋の部屋で武蔵がどうしたのかと尋ねる場面などである。これらのどの場面でも城太郎を見つめる武蔵の優しい目には、子供好きの錦之助の素顔が垣間見られて、心暖まる思いがした。もうこれは演技を越えた錦之助の表情だと言えるだろう。
錦之助は、子供にだけでなく、年寄りに対しても愛情のこもった表情をするが、これは錦之助の敬愛心があふれ出るからだと思う。たとえば、第三部で、吉岡清十郎と試合をする前に、お杉婆さん(浪花千栄子)に出くわす場面があるが、この時の錦之助の優しい眼差しも印象的だった。これは前にも書いたが、光悦の老母(東山千栄子)に遊里へ行くように勧められる場面もそうだった。老母の用意した着物をありがたく拝借するところなど、錦之助の礼儀正しさと、名優東山千栄子に対する尊敬の念がありありと窺われた。
錦之助は、たった一人の演技もずば抜けてうまい。『宮本武蔵』五部作には、武蔵の独白の場面が多かったが、これらのどれもが私の脳裏に焼きついている。(第一部)お甲が又八と朱美を連れて逃げてしまった後、一人取り残された武蔵が「お通さんをどうするんだ!」と叫ぶ場面。(第二部)姫路城を出て旅立つ時の決意表明の場面、花田橋の欄干に涙ながらに別れの言葉を小柄で彫る場面、般若坂で「殺しておいて何が念仏供養だ!」と叫ぶラストシーン。(第三部)柳生石舟斎の草庵の前で、お通さんを見かける場面、吉岡清十郎に勝った後、「やる相手ではなかった!」と独白するラストシーンなどなど、挙げ始めたらキリがない。
内田吐夢は、五年がかりで『宮本武蔵』を撮り続ける意図として、自分も錦之助もスタッフも共演者も、この映画を通じて人間的に成長・進歩していく過程を描きたいと語っている。しかし、錦之助に関しては、すでに第一部を製作した時点で、演技的にはすでに成熟していたと私は思っている。むしろ『大菩薩峠』三部作(昭和32年~34年)で、錦之助の演じた宇津木兵馬の方が、一作ごとに目を見張るような成長を遂げていたと思う。錦之助についての私の見方は、はっきりしていて、『大菩薩峠』が製作された昭和32年から昭和34年の頃を、錦之助が最も輝いていた時期と見なす。錦之助のはち切れんばかりの若さと天才的な演技が結合してピークに達した時期は昭和33年とその前後だと思っている。『宮本武蔵』が撮り始められた昭和36年の頃には、すでに錦之助は即興的な天才肌の演技から、意識的に計算した巧みな演技に移行していた。それもすでに二年ほど経った時期にあたっていたと思う。錦之助が武蔵を演じたのは、年齢で言えば、28歳から32歳までで、若い頃のまぶしい輝きは失い始めていたが、演技的には成熟期を迎えていた。だからこそ、人間的な深みのある、あれほど素晴らしい武蔵が演じられたのだと思う。
これで最後だと言うわりに、ずいぶん長くなってしまった。錦之助の武蔵に関しては、映画『真剣勝負』、あるいはテレビドラマ『それからの武蔵』を取り上げる時に、また語る機会があるかと思う。(了)
それにしても錦之助はこの『宮本武蔵』五部作でいったい何人の俳優たちと共演したのであろうか。数え切れないほどである。錦之助と共演者が二人だけで火花を散らす熱演を繰り広げた名場面をあえて選ぶとするならば、次の三つになるであろう。(第一部)千本杉に吊るされた武蔵と沢庵和尚(三国連太郎)が口論する場面、(第二部)武蔵と日観(月形龍之介)が寺の一室で対決する場面、(第四部)武蔵と吉野太夫(岩崎加根子)が遊里の茶室で対話する場面。
この三つが名場面であることについては、五部作すべて観た人なら誰も異論をはさまないだろう。しかし、これだけでは面白くない。このほかに、錦之助の人間的な暖かさがにじみ出て、私がいいなーと感じた場面をいくつか挙げておこう。
第二部と第三部では、武蔵が城太郎(竹内満)と一緒に居る場面が私は好きである。木賃宿に酒の注文を取りに来た城太郎と武蔵が会話する場面、大和街道で追いかけてきた城太郎に武蔵が出会う場面、奈良の逗留先で用事を済ませ訪ねて来た城太郎を武蔵が出迎える場面、柳生の里で犬に噛まれ顔に怪我をした城太郎に宿屋の部屋で武蔵がどうしたのかと尋ねる場面などである。これらのどの場面でも城太郎を見つめる武蔵の優しい目には、子供好きの錦之助の素顔が垣間見られて、心暖まる思いがした。もうこれは演技を越えた錦之助の表情だと言えるだろう。
錦之助は、子供にだけでなく、年寄りに対しても愛情のこもった表情をするが、これは錦之助の敬愛心があふれ出るからだと思う。たとえば、第三部で、吉岡清十郎と試合をする前に、お杉婆さん(浪花千栄子)に出くわす場面があるが、この時の錦之助の優しい眼差しも印象的だった。これは前にも書いたが、光悦の老母(東山千栄子)に遊里へ行くように勧められる場面もそうだった。老母の用意した着物をありがたく拝借するところなど、錦之助の礼儀正しさと、名優東山千栄子に対する尊敬の念がありありと窺われた。
錦之助は、たった一人の演技もずば抜けてうまい。『宮本武蔵』五部作には、武蔵の独白の場面が多かったが、これらのどれもが私の脳裏に焼きついている。(第一部)お甲が又八と朱美を連れて逃げてしまった後、一人取り残された武蔵が「お通さんをどうするんだ!」と叫ぶ場面。(第二部)姫路城を出て旅立つ時の決意表明の場面、花田橋の欄干に涙ながらに別れの言葉を小柄で彫る場面、般若坂で「殺しておいて何が念仏供養だ!」と叫ぶラストシーン。(第三部)柳生石舟斎の草庵の前で、お通さんを見かける場面、吉岡清十郎に勝った後、「やる相手ではなかった!」と独白するラストシーンなどなど、挙げ始めたらキリがない。
内田吐夢は、五年がかりで『宮本武蔵』を撮り続ける意図として、自分も錦之助もスタッフも共演者も、この映画を通じて人間的に成長・進歩していく過程を描きたいと語っている。しかし、錦之助に関しては、すでに第一部を製作した時点で、演技的にはすでに成熟していたと私は思っている。むしろ『大菩薩峠』三部作(昭和32年~34年)で、錦之助の演じた宇津木兵馬の方が、一作ごとに目を見張るような成長を遂げていたと思う。錦之助についての私の見方は、はっきりしていて、『大菩薩峠』が製作された昭和32年から昭和34年の頃を、錦之助が最も輝いていた時期と見なす。錦之助のはち切れんばかりの若さと天才的な演技が結合してピークに達した時期は昭和33年とその前後だと思っている。『宮本武蔵』が撮り始められた昭和36年の頃には、すでに錦之助は即興的な天才肌の演技から、意識的に計算した巧みな演技に移行していた。それもすでに二年ほど経った時期にあたっていたと思う。錦之助が武蔵を演じたのは、年齢で言えば、28歳から32歳までで、若い頃のまぶしい輝きは失い始めていたが、演技的には成熟期を迎えていた。だからこそ、人間的な深みのある、あれほど素晴らしい武蔵が演じられたのだと思う。
これで最後だと言うわりに、ずいぶん長くなってしまった。錦之助の武蔵に関しては、映画『真剣勝負』、あるいはテレビドラマ『それからの武蔵』を取り上げる時に、また語る機会があるかと思う。(了)