錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『宮本武蔵』(最終回)

2007-07-28 19:28:20 | 宮本武蔵
 いよいよ最終回である。
 それにしても錦之助はこの『宮本武蔵』五部作でいったい何人の俳優たちと共演したのであろうか。数え切れないほどである。錦之助と共演者が二人だけで火花を散らす熱演を繰り広げた名場面をあえて選ぶとするならば、次の三つになるであろう。(第一部)千本杉に吊るされた武蔵と沢庵和尚(三国連太郎)が口論する場面、(第二部)武蔵と日観(月形龍之介)が寺の一室で対決する場面、(第四部)武蔵と吉野太夫(岩崎加根子)が遊里の茶室で対話する場面。
 この三つが名場面であることについては、五部作すべて観た人なら誰も異論をはさまないだろう。しかし、これだけでは面白くない。このほかに、錦之助の人間的な暖かさがにじみ出て、私がいいなーと感じた場面をいくつか挙げておこう。
 第二部と第三部では、武蔵が城太郎(竹内満)と一緒に居る場面が私は好きである。木賃宿に酒の注文を取りに来た城太郎と武蔵が会話する場面、大和街道で追いかけてきた城太郎に武蔵が出会う場面、奈良の逗留先で用事を済ませ訪ねて来た城太郎を武蔵が出迎える場面、柳生の里で犬に噛まれ顔に怪我をした城太郎に宿屋の部屋で武蔵がどうしたのかと尋ねる場面などである。これらのどの場面でも城太郎を見つめる武蔵の優しい目には、子供好きの錦之助の素顔が垣間見られて、心暖まる思いがした。もうこれは演技を越えた錦之助の表情だと言えるだろう。
 錦之助は、子供にだけでなく、年寄りに対しても愛情のこもった表情をするが、これは錦之助の敬愛心があふれ出るからだと思う。たとえば、第三部で、吉岡清十郎と試合をする前に、お杉婆さん(浪花千栄子)に出くわす場面があるが、この時の錦之助の優しい眼差しも印象的だった。これは前にも書いたが、光悦の老母(東山千栄子)に遊里へ行くように勧められる場面もそうだった。老母の用意した着物をありがたく拝借するところなど、錦之助の礼儀正しさと、名優東山千栄子に対する尊敬の念がありありと窺われた。

 錦之助は、たった一人の演技もずば抜けてうまい。『宮本武蔵』五部作には、武蔵の独白の場面が多かったが、これらのどれもが私の脳裏に焼きついている。(第一部)お甲が又八と朱美を連れて逃げてしまった後、一人取り残された武蔵が「お通さんをどうするんだ!」と叫ぶ場面。(第二部)姫路城を出て旅立つ時の決意表明の場面、花田橋の欄干に涙ながらに別れの言葉を小柄で彫る場面、般若坂で「殺しておいて何が念仏供養だ!」と叫ぶラストシーン。(第三部)柳生石舟斎の草庵の前で、お通さんを見かける場面、吉岡清十郎に勝った後、「やる相手ではなかった!」と独白するラストシーンなどなど、挙げ始めたらキリがない。

 内田吐夢は、五年がかりで『宮本武蔵』を撮り続ける意図として、自分も錦之助もスタッフも共演者も、この映画を通じて人間的に成長・進歩していく過程を描きたいと語っている。しかし、錦之助に関しては、すでに第一部を製作した時点で、演技的にはすでに成熟していたと私は思っている。むしろ『大菩薩峠』三部作(昭和32年~34年)で、錦之助の演じた宇津木兵馬の方が、一作ごとに目を見張るような成長を遂げていたと思う。錦之助についての私の見方は、はっきりしていて、『大菩薩峠』が製作された昭和32年から昭和34年の頃を、錦之助が最も輝いていた時期と見なす。錦之助のはち切れんばかりの若さと天才的な演技が結合してピークに達した時期は昭和33年とその前後だと思っている。『宮本武蔵』が撮り始められた昭和36年の頃には、すでに錦之助は即興的な天才肌の演技から、意識的に計算した巧みな演技に移行していた。それもすでに二年ほど経った時期にあたっていたと思う。錦之助が武蔵を演じたのは、年齢で言えば、28歳から32歳までで、若い頃のまぶしい輝きは失い始めていたが、演技的には成熟期を迎えていた。だからこそ、人間的な深みのある、あれほど素晴らしい武蔵が演じられたのだと思う。
 
 これで最後だと言うわりに、ずいぶん長くなってしまった。錦之助の武蔵に関しては、映画『真剣勝負』、あるいはテレビドラマ『それからの武蔵』を取り上げる時に、また語る機会があるかと思う。(了)



『宮本武蔵』(その三十二)

2007-07-28 19:24:44 | 宮本武蔵

 そろそろ『宮本武蔵』五部作もまとめに入りたいと思う。この4ヶ月間、「宮本武蔵」のことばかり書いてきた。30回以上書いて、まだ語り足りない気もしないではないが、内田吐夢監督、錦之助主演の映画『宮本武蔵』については私なりに語り尽くしたと思う。実在した宮本武蔵のことや、彼の兵法書の『五輪書』『兵法三十五箇条』、そして武蔵が最後に遺した自省自戒の壁書文『独行道』については触れる機会がなかった。これまで好奇心のおもむくまま、武蔵に関していろいろな本を読んできたが、吉川英治の『宮本武蔵』と吐夢の映画とを比較検討するのが精一杯だった。また、武蔵が登場する映画でビデオ化されたものは何本か観てきたが、吐夢の映画と錦之助の武蔵を中心に語ることが本意だったので、それらにもほとんど触れなかった。それでも、話はずいぶん脇道に逸れたように思っている。
 
 内田吐夢の映画『宮本武蔵』五部作は、この4ヶ月間にそれぞれ五度ずつは観たと思う。しかし、スクリーンではなくDVDで観たことだけは残念だった。来月15日に京橋のフィルムセンターで、第四部「一乗寺の決斗」を上映するというので、楽しみにしている。9月23日にももう一度上映するので、二回とも観ようと思っている。それはともかく、吐夢の五部作では、第一部から第四部までが最高の出来栄えで、第五部だけは少しレベルが落ちると思っている。私の個人的な好みから言うと、第一部と第二部は鳥肌が立つくらい好きで、何度観ても飽きない。錦之助の武蔵が抜群に素晴らしく、感動の連続で、心臓の高鳴りが止まらないほどである。第三部は、世評がやや低く、それは凄まじい決闘シーンがないからなのだろうが、私はこれも傑作だと思っている。第三部は起承転結の「転」の部分だと思うが、柳生石舟斎と吉岡清十郎の描き方が良く、十分見ごたえがあった。第四部は、ラストの「一乗寺の決闘」の部分ばかりが取り上げられ、ことのほか評価が高いが、私は前半の遊里の場面や三十三間堂での吉岡伝七郎との決闘の場面も非常に好きである。第五部については最近書いたことが私の正直な感想だと思っていただきたい。

 『宮本武蔵』五部作を観ていてまず何よりも強く感じることは、「錦之助よ、よくぞ武蔵を演じてくれました」ということである。私みたいな錦之助ファンにとっては、これがたまらなく嬉しいし、感謝の気持ちすら覚える。さらに言えば、内田吐夢が監督し、5年がかりで『宮本武蔵』を撮ってくれたことも喜ばずにはいられない。最高の役者、最高の演出による『宮本武蔵』が完成したからである。製作スタッフも共演者も、錦之助と内田吐夢を中心に、最高の仕事をしたと思う。吐夢に協力した脚本家鈴木尚之のシナリオは推敲に推敲を重ねたにちがいなく、セリフ過多にならず、鮮やかな映像とえり抜かれたセリフが相乗効果を発揮する素晴らしいものだった。また、撮影、美術、音楽、そして殺陣、すべてが一体化して映画の醍醐味を生み出していたと思う。
 共演者について言えば、錦之助の武蔵をめぐる人間模様に濃淡さまざまな彩りを加え、登場人物のほとんど誰もが生き生きとして、印象に残っている。二作以上に出演した主だった助演者を除けば、登場場面は少なかったが今私の頭に思い浮かぶ俳優は、ベテランや老優が多い。花沢徳衛(青木丹左衛門)、宮口精二(花田橋のたもとの竹細工屋の亭主)、織田政雄(木賃宿の親爺)、村田知栄子(奈良の逗留先の女主人)、東山千栄子(本阿弥光悦の老母・妙秀)、有馬宏治(遊里の茶屋の主人)、中村是好(刀研ぎ師の耕介)、日高澄子(耕介の女房)などである。月形龍之介(日観)、薄田研二(柳生石舟斎)、山形勲(壬生源左衛門)、片岡千恵蔵(長岡佐渡)は、一作にしか出演しなかったが、強烈な印象を与え、別格だった。(つづく)



『宮本武蔵』(その三十一)

2007-07-28 01:48:53 | 宮本武蔵
 第五部のクライマックスは、もちろん、武蔵と佐々木小次郎との「船島での決闘」である。巌流島というのは、ご承知のように、ここで小次郎が武蔵に倒され、小次郎を追悼して後世に名づけられた名称で、船島というのが正しい。小倉からも下関からも4キロほどのところにある小さな島だそうだ。隣の彦島は比較的大きな島で、ここは昔から源平合戦などで名高く、また火野葦平の『花と竜』にも登場するので、よく知られている。
 さて、宮本武蔵といえばどうしてもライバル佐々木小次郎との巌流島の決闘がなくては、観客は納得しないだろう。吉川英治原作の『宮本武蔵』の映画(テレビは除く)で、佐々木小次郎を演じた俳優は、戦前は月形龍之介(その時の武蔵は片岡千恵蔵)、戦後は高倉健のほかに、鶴田浩二(武蔵は三船敏郎)、田宮二郎(加藤泰監督作品、武蔵は高橋英樹)などが頭に浮かぶ。村上元三原作の『佐々木小次郎』では、大谷友右衛門(武蔵は三船敏郎)、東千代之介(武蔵は片岡千恵蔵)、尾上菊之助(現・菊五郎、武蔵は仲代達矢)が小次郎を演じていたのが記憶に残る。私は一応どれも観ているが、最近ビデオで見直したのは、月形龍之介、鶴田浩二、東千代之介の佐々木小次郎である。それに、高倉健を加えて比較してみよう。
 何と言っても、天才剣士で一番強そうに見えるのは、月形龍之介だった。が、月形は、きざな役がどうも似合わず、訛りも気になった。
 やはり、小次郎のイメージに一番近いのは、鶴田浩二だと思う。きざで、女に一番もてそうな美剣士なのも鶴田の小次郎である。稲垣浩監督の戦後版『宮本武蔵・決闘巌流島』(1956年)では、三船の武蔵よりも鶴田の小次郎が主役で、クレジットタイトルも鶴田の名前が一番初めに出てくる。そして、小次郎を魅力的な好人物、悲運のヒーローに描いていた。(吉川英治の原作をずいぶん変えていた。)岡田茉莉子の朱美や嵯峨三智子のお光との関係も鶴田の小次郎となら十分許せるものだった。
 東千代之介の小次郎は、線が細く、無難ではあるが、物足りなかった。剣も弱そうだった。が、とても哀れで情感豊かな小次郎を演じていたと思う。

 高倉健の小次郎については、前にも適役ではないと書いたが、無粋と言おうか、力みすぎて、動きもセリフも固く、派手な衣装も似合わず、要するになかなか良い点が見当たらなかった。それでも第五部では、細川家に召抱えられ、総髪になってから(由井正雪みたいだったが…)立派になって、かなり良くなったと思う。ただし、燕返しの剣さばきをほとんど見せないまま終わってしまったのは、大いに不満だった。高倉健は、時代劇の立ち回りが不得意だったのだろう。内田吐夢も高倉健には殺陣師(足立伶二郎)を付けなかったようだ。細川忠利の御前で、槍使いの岡谷と試合をする場面では、小次郎は片手に木刀を持って構えるだけで、試合が始まると岡谷の足さばきしか映さず、誤魔化していた。ラストの船島での決闘でも、物干し竿を持って砂浜を突っ走るだけで、飛び上がった武蔵に一撃にして頭を打たれてしまう。小次郎は、普通、にっこりと笑った死に顔を見せるものだが(鶴田の小次郎はそうだった)、高倉健の小次郎は、目をうつろにして意識を失っていく顔を見せていた。この死に顔も印象に残るものだったが、死に顔が最高の見せ場だったとは健さんもさぞかし無念だったことだろう。
 ともかく、健さんには時代劇は似合わない。(『千姫と秀頼』の侍役もいただけなかった。)やはり現代劇の俳優だと思う。若い頃は真面目なサラリーマン役で佐久間良子と共演したりして、それなりに良かったが、たいした人気は出なかった。高倉健が錦之助に替わって一躍東映を背負うスターになっていくのは、皮肉なことに『宮本武蔵』で不本意な小次郎役を演じたこの時代(昭和36年~40年)からである。『人生劇場・飛車角』(昭和38年)の宮川、『日本侠客伝』(昭和39年)の辰巳の長吉、『網走番外地』(昭和40年)の橘真一、『昭和残侠伝』の寺島清次を演じ、高倉健は新境地を開いていく。内田吐夢の映画では、『宮本武蔵』第四部と第五部の間に製作された『飢餓海峡』(昭和39年製作)に、高倉健は若い刑事役で出演している。『飢餓海峡』は吐夢最後の傑作だったと昔から私は評価しているが、高倉健はこの役の方が佐々木小次郎よりずっと良かったと思う。(つづく)



『宮本武蔵』(その三十)

2007-07-27 18:37:03 | 宮本武蔵
 内田吐夢という監督は、結構いい加減なところがあるようだ。吐夢の映画を観ていると、時々変だなーと感じる箇所を発見する。これは、ストーリーの根幹に関わる部分ではなく、描写の仕方について疑問に感じる点なので、それほど重要なことではない。が、映画を観ている時や観終わった後に、私みたいに少々理屈っぽい者は、どうも気になって仕方がない。『宮本武蔵・第五部』にはそうした箇所がいくつか目についたので、挙げておこう。この映画をご覧になった皆さんがどう思われたか知らないが、多分私同様に疑問を感じた方もいるのではなかろうか。
 たとえば、
 一、お通さんが武蔵を追って、渓流の岩場を急ぎ足で歩いていくシーン。岩と岩の間に細い木を掛けただけの2メートルくらいの橋があって、見るからに渡るのが危なっかしい。武蔵が先にそこを渡る。足元に気をつけながら渡った後、向こう側で立ち止まる。するとお通さんが武蔵に声をかけ、二言三言、会話を交わす。その後なのだが、お通さんが武蔵の方を見たまま、足元も見ないで、しかも話しながら、すーっと向こう側の武蔵のところへ歩いて行くのだ。ここはお通さんのバストショットで、足元は映していない。もちろん、このカットは足場の良い別の場所で撮影し、それをつなげたのだろうが、そのまま観ていると誰でも「危ない!」と言いたくなる場面である。お通さんがサーカスの曲芸師でもなければ、あんな芸当はできないのではないかと思う。しかし、この場面は次のような解釈もできるかもしれない。武蔵は危ない橋を渡っていく。追いかけるお通にも、行く手に危険が待ち受けている。が、武蔵を一途に慕うお通には武蔵の姿しか見えず、だから、危険などには目もくれない…。
 
 二、武蔵が秋の野原で伊織に出会うシーン。足元から急に野鳥が飛び立つと、武蔵は木刀(杖かもしれない)を頭上に構えている。すると、向こうに落下した野鳥を捕まえに、一人の少年(伊織)が飛び出してきて、野鳥を逆さまに持ち、口からしたれる血か何かを器に採っている場面になる。ここが私にはどうしても理解できなかった。原作では、武蔵がドジョウを取っている少年(伊織)にそれを少しくれないかと頼んだのがきっかけで顔見知りになるのだが、ドジョウを野鳥に変えるのは構わないが、伊織が野鳥の口から何を採っているのかが分からなかった。打ち落とした鳥の口からはたして血が流れ出るだろうか。ドジョウを伊織が取っているのは、それが死にそうな父の好物だからであるが、伊織が野鳥の血を採るのは、それを父に飲ませようとでも思ったのだろうか。

 三、武蔵と小次郎との船島での試合が決まり、お通さんもとに手紙が届く。小倉に行くようにと指示を出す沢庵からの手紙なのだが、部屋の中でお通さんが手紙を読んで、「二人の人に会えると書いてあるけど、一人は武蔵様……、もう一人は?」と言う短い場面である。が、お通さんが登場するのは、渓流のところで武蔵と別れて以来なのだが、その時いったいお通さんがどこにいるのか、映画を観た限りではまったく分からなかった。(原作では、柳生の里にいる。)
 
 四、武蔵は小次郎との決闘で櫂を削って作った長い木刀を使う。その櫂のことだが、映画では武蔵が船出する間際に波打ち際に落ちていた櫂を拾うという設定にしていた。それが私には納得できなかった。海水に浸って腐っているかもしれない櫂だ。それに水を含んで重いだろうし、削るのも大変だろう。それよりも、武蔵は小次郎の物干し竿と対抗するために長い木刀を使うわけで、これは武蔵が考えた重要な戦略である。だから、偶然、波打ち際で拾った櫂を使うというのは、どう見てもおかしい。原作では、下関の廻船問屋の主人に頼んで櫂をもらい受けることになっていたと思う。ところで、船島へ行く舟の中で、櫂を削って木刀にするということも無理な話であろう。これは、原作にもあり、映画もそれに従っているが、以前誰かが不可能だと指摘していたことを覚えている。下関から船島へ渡るのにわずか30分、しかも海流が急で、舟が揺れてとても櫂を削れるどころではない。しかし、この点は許そう。(ただ、波打ち際で櫂を拾うことだけは気にかかる。しつこいようですが…。)
 
 五、小次郎を倒して帰る舟の中で、武蔵が血に染まった手を見る場面、ここが不思議である。武蔵は小次郎の脳天を一撃で叩き割ったはず。櫂の木刀を持った手が血でぬれるわけがない。もし、血がついているとすれば、木刀を強く握り締めていたため、武蔵自身の手が切れて出た血としか思えない。あの場面では確か武蔵が「ああ、この手は血で穢れている」と嘆くが、画面に映った武蔵の手のひらの赤い血は、想像上の血だったのだろうか。
 六、これも舟の中で、武蔵が過去の闘いを次々に追想するシーンがあり、さかのぼって「たのむはこの一腰。青春二十一、遅くはない」と言う姫路城を旅立つ時の場面が映し出される。その後、武蔵が我に帰り、「あれから十年…」と言うが、厳密に言うと八年である。

 映画の本筋とは、関係ないことを思わず書いてしまった。この辺で、アラ探しみたいなことはやめるとしよう。(つづく)



『宮本武蔵』(その二十九)

2007-07-26 21:59:43 | 宮本武蔵
 第五部で私がとくに好きな場面は、武蔵が刀研ぎ師の耕介の店へ刀を持って行き、耕介から説教をされるところである。耕介に扮した中村是好の、飄々としているようでぴりっとカラシの利いた演技が大変良い。武蔵に刀を研いでくれと頼まれ、「切れるようにというご注文ですか、それとも切れるほどでもよいというご注文ですか」と尋ねる場面がふるっていた。武蔵が「もとより切れるようにお願いする」と答えると、一転してつむじを曲げ、「研げません。刀はお返しします」ときっぱりと言うセリフなど、いかにも一本筋の通った職人といった感じだった。侍が刀を、人を斬るためにばかりに使うのはけしからん、看板をよくご覧なさい、「御たましい研ぎどころ」と書いてあるではないか。武蔵が耕介の話に納得し、「一理ある」と妙に感心するのも謙虚でよろしい。また、耕介の女房役の日高澄子も地味な役だが、落ち着いていて良かった。頑固な夫の横で、武蔵に対し非礼を丁寧にわびたりするところなど、細かい女房の気遣いがうまく表されていた。

 馬喰宿で荒くれ者の秩父の熊五郎を前に武蔵が蕎麦にたかったハエを箸でつまむ場面は、これまでの武蔵の映画では必ず描かれてきた有名な場面である。この場面はいつ観ても痛快で面白い。熊五郎は、戦前の片岡千恵蔵の武蔵では上田吉次郎、戦後の三船敏郎の武蔵では田中春男が演じていたが、どちらもアクの強い一癖も二癖もある博労だった。尾形伸之介の熊五郎は単純で生真面目、人の良さそうな面が印象に残った。錦之助の武蔵では、箸でつまんだハエを、熊五郎が床に突き刺した匕首の柄の上にのせる点が新工夫。また、武蔵がわざと熊五郎の目の前で、空中に飛んでいるハエをつかんで見せると、熊五郎がトンボのように目を回すところも、おかしかった。錦之助が終始真顔なので、余計おかしかった。「箸を洗ってきてくれないか」という言葉は、普通武蔵が伊織に対して言うのだが、熊五郎に向かって言うように変えていた。熊五郎が急にかしこまり、素直に「はい」と返事するのだが、こっちの方が話のオチとしてはずっと面白いと思う。

 武蔵が外でやくざたちに後を付けられ、彼らをまくために宿まで駆けっこしようと伊織に言い、二手に分かれて走り出して宿に着くまでの場面は、映画のオリジナルで、短いけれども私の好きな場面である。錦之助の武蔵は、城太郎や伊織といった子供と一緒にいると、弟を可愛がる兄貴みたいになる時があり、そうした場面での錦之助は、稚気があり、またなんとも言えぬ優しさが表情にあふれる。それがたまらない魅力でもある。

 ところで、第五部には戦前戦後と何度も武蔵を演じ当たり役にしてきた片岡千恵蔵が出演している。小倉藩の家老長岡佐渡の役である。長岡佐渡は、第五部のキーパーソンだった。武蔵に興味を持ち、彼の噂話を聞くにつけ、「なかなかの人物だな」と感心し、武蔵に対し次第に好感を持っていく。佐々木小次郎に対しては、「こざかしいヤツ」と言い、その傲慢さに鼻持ちならない気持ちでいる。小次郎のスタンドプレイも見透かしている。貫禄たっぷりの千恵蔵が何か意見を言うと、説得力があってもっともだと思ってしまうから、不思議なものだ。さすが東映の重役である。千恵蔵に認められると、錦之助が、いや武蔵が、だんだん立派な人間に見えてくる。長岡佐渡の役回りは、武蔵と小次郎の対決を冷静に見守る立場で、こうした客観的な視点をドラマに加えることは、内田吐夢の映画の特長でもある。
 長岡佐渡が伊織のことを「小僧、小僧」と言って、可愛がるところも奥ゆかしかった。「菓子をやるから遊びに来いよ」というセリフなど、おじいちゃんが孫に言うような言葉ではないか。佐渡は伊織に「侍になりたいなら、ワシのところへ来い」と誘うのだが、伊織は武蔵を先生と慕っているので、あっさりと断わられてしまう。ちょっとがっかりする千恵蔵の表情が良い。伊織が武蔵の手紙を持って、はるばる小倉の長岡佐渡の屋敷にやって来た時、「やっぱりわしのところへ来たではないか」と言って内心喜ぶところも、子供好きな千恵蔵の地がにじみ出ていて、味があり、実に良かった。(つづく)