錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

シネマスコープについて(その二)

2007-10-03 01:23:30 | 錦之助ファン、雑記
 『鳳城の花嫁』を今年フィルムセンターで久しぶりに観たが、この映画が日本初のシネマスコープだという感じはまったく受けず、松田定次監督が当たり前のように作っていて、明るく楽しい映画だった。大友柳太朗が東映スコープのトップバッターを務めたわけだが、彼のとぼけた朴念仁ぶりがとてもおかしく、見事に大任を果たしたと言えよう。東映のキャッチフレーズはこの時から「大型映画は東映」「画面3倍、興味100倍」に変わる。
 スーパースコープ方式による白黒映画は、クランクインの順番から言って、錦之助主演の『濡れ髪二刀流』が第一号になるはずだった。が、撮影が長引いたためか、実際初めて公開された映画は、東映東京製作、高倉健主演の現代劇『第十三号桟橋』(小石栄一監督、1957年4月9日封切)であった。しかし、スーパースコープは画質の悪さが不評で、東映はわずか5本ほど製作し、この方式を打ち切ってしまう。

 錦之助の出演した東映作品は、1957年(昭和32年)4月よりすべて、スタンダード・サイズから東映スコープのワイド画面になる。『濡れ髪二刀流』だけが白黒のスーパースコープで、残念ながら映像的に欠陥のある作品になってしまった。が、これ以降、錦之助の映画はカラー・白黒ともにフランスのシネパノラミーク方式の東映スコープを採用したので、問題なかった。『濡れ髪二刀流』に続く錦之助の出演作は『隼人族の叛乱』(4月30日封切)であるが、錦之助にとっては東映スコープ二本目でカラー映画だった。これは『鳳城の花嫁』と制作スタッフが同じで、監督松田定次、撮影川崎新太郎、照明中山治雄 美術鈴木孝俊だった。『隼人族の叛乱』は、市川右太衛門主演の映画であり(御大にとってはワイドスクリーン初登場)、横長の画面を存分に活かしたスペクタクル巨編で、ゴールデンウイークに大ヒットした。ストーリーは時代劇にしては変わっていたが、錦之助の扮した桂原主税介(かつらはらちからのすけ)がことのほか美しかった。
 この後、錦之助は、『水戸黄門』『大菩薩峠』と、主役ではない映画、月形龍之介や片岡千恵蔵主演の東映スコープのカラー大作に出演する。錦之助の主演作は、『濡れ髪二刀流』のあと、1957年9月15日公開の『ゆうれい船』までなかった。五ヶ月近く錦之助の主演映画がなかったのは、東映全盛期にあって不思議な話である。しかし、実は予定されていた『成吉思汗(ジンギスカン)』が製作中止になったことが大きな理由だったのかもしれない。プロデューサーのマキノ光雄が倒れたのも大きかった。錦之助は、その後、堰を切ったかのように、主演映画それも名作の数々を放っていく。

 最後に1957年度の日本映画各社の最初のワイドスクリーン映画を挙げておこう。
 『明治天皇と日露大戦争』(4月29日封切)――新東宝がスーパースコープ方式を採用し大シネスコと称して作った最初のカラー映画である。社長の大蔵貢が社運を賭けて製作した大作で、監督渡辺邦男、主演の嵐寛寿郎が明治天皇を演じ、新東宝始まって以来の空前の大ヒット作となった。映画館の設備が間に合わないことを考慮して、スコープ・サイズの上映プリントだけでなく、同時にスタンダードのプリントも作ったという。
 『地獄花』(6月25日封切)――大映ビスタビジョン第一作。カラー映画。縦横比率=1:2で、シネマスコープより横幅が狭い。伊藤大輔監督の時代劇で、出演は鶴田浩二、京マチ子、小堀明男ほか。
 『月下の若武者』(7月9日封切)――日活スコープ第一作。カラー映画。冬島泰三監督。出演は、長門裕之、津川雅彦、浅丘ルリ子ほか。
 『抱かれた花嫁』(7月14日封切)――松竹グランドスコープ第一作。カラー映画。明朗喜劇、花嫁シリーズの第一作。番匠義彰監督、出演は、大木実、高橋貞二、有馬稲子、片山明彦、高千穂ひづるほか。
 『大当り三色娘』(7月14日封切)――東宝スコープ・カラー映画第一作。美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみの三人共演によるミュージカル。杉江敏男監督。出演者はほかに宝田明、山田真二、若山セツ子。

 1957年に製作されたワイドスクリーン映画の本数は全部で、79本だった。そのうち東映作品が45本を占め、まさに「大型映画は東映」という結果であった。(了)




シネマスコープについて

2007-10-02 20:48:28 | 錦之助ファン、雑記
 ここで、シネマスコープについて説明しておこう。
 まず、シネマスコープという用語について。これは20世紀フォックスの商標名である。本来フォックス映画のワイド画面に限って使うべきものだったのだが、日本では一般名詞化して、その略称のシネスコもよく使われていた。従来のスタンダード・サイズは画面の縦横比率が、1:1.33(=3:4)であるのに対し、スコープ・サイズは、1:2.35(初期は2.55)であり、横長の大型画面になる。アメリカでは1953年9月公開のフォックス映画『聖衣』(ヘンリー・コスター監督、リチャード・バートン主演の宗教劇)がシネマスコープ最初の作品であった。第二作が『百万長者と結婚する方法』(1953年)で、ローレン・バコール、マリリン・モンロー、ベティ・グレイブルの三女優が競演するラブコメディで、これは大ヒット作だった。ご覧になっている方も多いだろう。私も二、三度観ている好きな映画である。その後1954年以降アメリカではワーナー、MGM、コロンビア、ユニバーサルなど各映画会社がワイドスクリーンの実用化と普及に向けて競い合っていく。『エデンの東』『スター誕生』(ワーナー)、『掠奪された七人の花嫁』(MGM)、『長い灰色の線』(コロンビア)などが1954年に製作されたシネマスコープ(に類する)映画である。

 次に、シネマスコープの撮影と映写について触れておきたい。
 まず、撮影用の35ミリ・ネガフィルムは従来のサイズ(縦横比率=1:1.37)と変わらない。また撮影カメラも同じでよい。特殊レンズを装着するだけである。この特殊レンズをアナモフィック・レンズ(略称アナモ・レンズ)という。ワイドな視界を、縦方向はそのままで横方向だけを圧縮して、歪んだ画像に映し出す凹型円筒レンズのことである。このレンズはもともとフランスのアンリ・クレティアンという科学者が発明したもので、その特許権をいち早く20世紀フォックス社が買い取り、アメリカの光学器械会社のボシュロム社と共同開発して映画に実用化した。このアナモフィック・レンズを撮影カメラに使い、視野の左右を約二分の一に縮めて従来のフィルムに記録する。そして、このネガフィルムをポジに焼き、映画館で映写する時に、今度は映写機に別の特殊レンズ(左右を圧縮して画像の歪んだフィルムを復元するレンズ)を装着して、横長のスクリーンにフィルムを映し出す。これがシネマスコープの基本的な仕組みである。
 アナモフィック・レンズを発明した本家のフランスでは、アメリカとは別個にシネパノラミークという名で映画への実用化を進め、この方式がフランスコープやディアリスコープと称するワイド画面になっていく。シネパノラミークの最初の映画は、『水色の夜会服』(1955年)という映画だったそうだ。

 ところが、映画のワイド化の草創期にはこれとは違った方式も開発された。その一つが、タシンスキー兄弟(ジョセフとアーヴィング)というユダヤ系アメリカ人が経営するスーパースコープ社が開発し、特許権を得て、映画各社に売り込もうとしたスーパースコープである。アメリカではRKO(ハリウッドの5大メジャースタジオの一つだったが、1957年倒産した)がこの方式を採用し、1954年『ヴェラクルス』(ロバート・アルドリッチ監督、ゲーリー・クーパー、バート・ランカスター主演)を制作している。この方式は、撮影時にアナモフィック・レンズを使わない。通常の35ミリフィルムのカメラで撮影し、ネガフィルムの上下方向をトリミングし、シネマスコープ同様、横方向を二分の一に圧縮したポジを作り、ワイド画面を得るといったものである。映画館で映写する時は、映写機に特殊レンズを装着し、横長の画面に拡大する。ここはシネマスコープと同じである。要するに、スーパースコープというのは、基本的にスタンダード・サイズで撮影し、あとでフィルムの約半分の面積だけを使ってワイドスクリーン用にプリントするわけである。しかし、欠点は、トリミングしたフィルムをスタンダード・サイズの約2倍のスクリーンに映し出すことになるため、画面の解像度が落ちてしまう。つまり画面は大きいものの、粒子が荒れて、鮮明な画像が得られない。また、撮影の段階であらかじめ上下を切ることを想定して、構図とフレームを決めなければならないので、面倒だったようだ。ついでに言うと、この方式で撮った映画は、スタンダード・サイズとスコープ・サイズの二種類のフィルムが出来るのだという。映画館で、大型スクリーンの設備がなく、あるいは映写機に取り付ける特殊レンズが揃わないところでは、従来通りスタンダードのフィルムを配給し、上映すればよいという話なのだが、映画館が予想以上に迅速にワイドスクリーン化に対応していったため、スタンダード版の需要もほとんどなかったようだ。
 結局、スーパースコープという方式は、画質が悪いため普及せず、廃れてしまった。(シネマスコープ自体も1960年を境に、MGM系のパナビジョンに取って代わられる。)

 1957年(昭和32年)は、日本の映画各社が映画のワイドスクリーン化を実現し始めた年である。アメリカと比べ、なんと三年以上も遅れていたが、これは、20世紀フォックス社を始めとするアメリカの映画会社がシネマスコープの特許権を海外に流出しないよう協定し独占していたことが原因らしい。東映は、他社に先んじて、東映スコープを打ち出した。が、当初この東映スコープも試作段階で、タシンスキーが開発しアメリカでは主流にならず日本に売り込んできたスーパースコープと、フランスで開発されたシネパノラミーク(フランスはアメリカに比べ、海外の映画会社に協力的だったという)の二つを併用して制作に乗り出した。スーパースコープは画像が悪いため、白黒映画に限り、カラー映画は、シネパノラミーク方式を使用したわけである。(つづく)



『源氏九郎颯爽記』(その三)

2007-10-01 13:27:48 | 源氏九郎颯爽記・剣は知っていた
 第二に(前回の「第一」が長すぎた!)、『濡れ髪二刀流』で加藤泰監督と錦之助が初めて出会ったことが重要な意味を持つ。錦之助が出演した加藤泰の監督作品は全部で六本あり、異色作、名作揃いであるが、これがその記念すべき一本目だった。加藤泰は、当時不遇で、なかなか思うように映画が撮れない状態が続いていたが、この作品で錦之助と初めてタッグを組み、並々ならぬ意欲を燃やしてこの映画を作り上げた。『濡れ髪二刀流』は、彼が宝プロから東映に移籍し、メガフォンを取った東映作品第二作目であるが、もしもこの時、錦之助の主演映画を撮らなかったとすれば、監督としての出世もずっと遅れていたかもしれない。当時この映画で、加藤泰という監督の手腕が映画評論家や一般の観客からどれほど認められたかは知らないが(恐らくほとんど認められなかったのだと思う)、今見直してみると、彼の映画作りの特色が随所に発揮されているのが分かる。たとえば、得意の長回しも何箇所かあり、また長屋風景など奥行きのある構図も使っていた。内容的にも、源氏九郎にからむ女性の描き方や市井のありふれた人々の扱い方に加藤泰独特の思い入れが込められていたと思う。加藤泰はこの作品によって東映幹部の評価を得て、売れっ子スターの錦之助や橋蔵主演の映画を撮るようになる。『源氏九郎颯爽記』第二作「白狐二刀流」も加藤泰が監督し、これがまた興行的にヒットしたため、さらに錦之助主演で人間群像をリアルに描いた初期の名作『風と女と旅鴉』(1958年4月)を作ることになったと言えるだろう。

 第三に、東映の初代三人娘の二人、田代百合子(織江)と千原しのぶ(放れ駒のお竜)が錦之助の相手役として熱演していること。そして、この映画が結果的に、東映の娘役・お姫様役の世代交替を決定付ける作品になってしまった。三人娘のもう一人、高千穂ひづるは前年の1956年の末をもって東映を辞め、独立プロの映画に出演した後、1957年夏に松竹に移籍する。田代百合子もこの映画が最後で東映を辞め、松竹と大映の映画に出演するのだが、影の薄い存在となって忘れられていく。千原しのぶは、この映画の前後に演技開眼したようで、一人東映に残り役柄を拡げて頑張るのだが、主役の男性スターの相手役を二代目三人娘(丘、大川、桜町)に取って代わられ、脇役に転じていく。

 第四に、大映から羅門光三郎を招いて、錦之助の敵役に据えたこと、また、松竹から桂小金治を招いて、脇役に付けたことも意外性があり、話題を呼んだが、これは今この映画を観る限り、特筆すべきことではない。

 最後になってしまったが、『濡れ髪二刀流』で東映がタシンスキー方式のワイド画面(スーパースコープ)を白黒映画で初めて試み、映像的に失敗したことはどうしても述べなければならない。
 この映画をご覧になった人はお気づきのことと思うが、画面の真ん中のあたりがうすぼんやりしてボケている。ビデオで観ると、上下に黒い縁を取っているため画面が狭く、しかも全体が暗くて真ん中がボケているので、かなり見にくい。ビデオ化するときに使った原版が劣化していたのかと思うかもしれないが、そうではなく、もともとこの映画自体が東映スコープの欠陥作品だった。ご承知のように、本邦初のシネマスコープ映画は、東映の『鳳城の花嫁』(松田定次監督、大友柳太朗主演、1957年4月2日封切)であるが、これはカラー作品で、『濡れ髪二刀流』の二週間前に公開され、喝采を浴びていた。『鳳城の花嫁』は、タシンスキー式ではなく、フランスで開発されたシネパノラミークという方式(フランスコープ)を使って制作した。こちらの方は映像的に問題なかった。
 『濡れ髪二刀流』は、スーパースコープ社が派遣した技術者の指導がいい加減だったようで、撮影時に照明の仕方を失敗してしまい、画面の中央がハレーションを起して、ぼやけてしまったのだという。試写の段階で、撮影技師の松井鴻が東映のお偉方達から叱責されたらしいが、どうやら撮影技師だけの責任ではなかったようである。東映は、映像的な欠陥を承知の上で、『濡れ髪二刀流』の一斉公開に踏み切ったため、多くの人の非難を浴びることになった。多くの人というのは、主に東映以外の映画関係者やアンチ東映の映画ファンだと思うが、他社に先駆けて「東映スコープ」と名づけたワイド画面を打ち出した東映が早々と失策を演じ、それを鬼の首でも取ったように非難したのだろう。
 私は今年京橋のフィルムセンターで、この映画を二度スクリーンで観たが、やはり画面の真ん中がボケているのが時々気になった。しかし、ビデオで観るのとは雲泥の差で、画面の大きさに迫力を感じ、満足した。ただ、なぜこのようにボケてしまったのか、ずっと頭の隅に引っかかっていた。そこで、シネマスコープの実用化に関し、いろいろ調べてみたので、そのことは次回に書いてみたい。(つづく)