錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『仇討』

2006-09-27 13:28:46 | 武士道残酷物語・仇討

 今井正監督の『仇討』(昭和39年)は、作品的には『武士道残酷物語』より優れていたと私は思っている。どちらも暗い映画で、観終わって、何とも言えない殺伐とした気分を味わうが、作品の完成度は『仇討』の方が高かったと思う。
 まず、『仇討』は、ストーリーが奇抜だった。同じ藩の武士同士の些細ないさかいから、私闘、決闘、そして一族郎党だけでなく藩全体を巻き込んだ仇討へと状況が深刻化していく。池に投げた小さな石のような小事が、波紋を広げ、取り返しのつかない大事になる。意外性のある話で、観ているうちに私はぐいぐいと引き込まれてしまった。そして、絶えず緊張感を覚えながら観ることができた。
 この映画は、橋本忍のオリジナル脚本であるが、さすがに戦後のシナリオライターの第一人者だけあって構成がしっかりしていると思った。『切腹』(昭和37年公開、橋本忍脚本、小林正樹監督)も奇抜な話で素晴らしかったが、『仇討』も甲乙つけがたい出来映えだったと思う。60年代に続々と制作された残酷時代劇や集団時代劇の中では、『切腹』と『仇討』と『十三人の刺客』(昭和38年公開、工藤栄一監督)が三大傑作ではなかろうか。
 『仇討』の前年に製作された同じく今井正監督・錦之助主演の『武士道残酷物語』は一種のオムニバス映画だったので、比較するのはやや無理な点があるが、第五話、第六話など無理矢理繋げた感もあって、破綻のある構成になっていた。『仇討』は、場面場面が緊密に繋がっていて、最後のクライマックスへ至るまでの展開も見事だった。登場人物たちの配置も良かった。錦之助の演じた主人公江崎新八をめぐる周りの人物たちの態度や言動も巧みに描かれていたと思う。共演者では、新八の兄を演じた田村高廣が特に良かった。ベテラン俳優では、寺の住職役の進藤英太郎、藩の目付け役の三島雅夫、新八の許婚の父親役の信欣三が目立っていた。
 黛敏郎の音楽も独特で、効果を上げていた。撮影は中尾駿一郎、今井正の映画にはなくてはならない名カメラマンだった。
 
 主役の錦之助について語ろう。演技の点で言えば、『武士道残酷物語』の方が役柄も多く獅子奮迅の大熱演だったと思うが、『仇討』の江崎新八もすごい役柄だった。人一人殺してからの、その異様な風貌と、狂気を帯びた目つきは恐いほどだった。これが錦之助なのかと目を疑いたくなった。寺に預けられ、おどおどして異常な精神状態になっている時の新八を演じた錦之助は、表情も動作も、これまで誰も見たことのない錦之助だったと思う。
 新八は、死を覚悟することによって心の平安を見出す。自ら仇敵となって相手に討たれる決心をし、城下に戻ることになった前夜のシーンは、嵐の前の静けさのようだった。ここだけは、錦之助がいつもの見慣れた人間らしい表情に戻っていた。無精髭を剃り、さっぱりした顔で庭に置いた大樽の湯船に漬かり、寺の小僧相手に「武者追い唄」を歌うシーンは、ペーソス(悲哀)の漂う唯一の場面だったが、特に印象的で感銘を受けた。静寂の中で河鹿(かじか)の鳴く声が聞こえる。それが一層、生きることの切なさと孤独感を深めていた。
 そのあと、この映画は一転して壮絶なクライマックスへと向かっていく。ここからまた錦之助はすっかり人が変わってしまうのだが…、見るに忍びないと感じた人も多かったことだろう。実家に帰ってからの新八は落ち着いた表情だったが、仇討の場所へ赴き、それが見世物になっていることを知ってからは、憤りをぐっと抑えた我慢の表情に変わる。見物人の群衆から石を投げられた時の悔しい表情は何とも言えなかった。そして、その憤りはラストシーンで爆発する。裏切られたと分かってからの新八の形相は目に焼きつく。「助太刀無用!」と大声で叫び、新八が刃引きをした刀で五人の討手たちに必死で立ち向かう場面は、言語を絶するすさまじさだった。
 『仇討』で、錦之助は従来のイメージをすべてかなぐり捨てた。その過激な役者ぶりは、東映時代劇の映画スターとしての自爆行為に等しかったと言えるだろう。
 
 この映画は「時代劇」ではあるが、『武士道残酷物語』同様、「反時代劇」であり、「時代劇否定」だった。というのも、「仇討」という行為は、従来の時代劇が美化し、好んで描いてきたことであったからだ。「忠臣蔵」「中山安兵衛」「荒木又右衛門」「曽我兄弟」は言うまでもなく、仇討を話の中心に据えた幾多の時代劇は、仇敵を斬り殺すことを正当化し、仇討場面をクライマックスとして、恨みを晴らすその痛快さを売り物にしてきた。「仇討物」は、時代劇を好む観客にとってカタルシス(精神浄化作用)の役割を果たしてきたとも言える。(これは、東映時代劇衰退後の任侠やくざ映画にも受継がれて行ったと思う。)
 もちろん、「仇討」の虚しさや愚かさを描いた時代劇映画はこれまでに何作もあったが(マキノ雅弘監督の『仇討崇禅寺馬場』はその代表作であろう)、橋本忍脚本・今井正監督のこの『仇討』ほど仇討の醜悪さを嫌というほど暴いて見せた作品はなかったのではあるまいか。藩公認のもと、民衆の面前で見世物的に仇討を行わせるその経緯の馬鹿馬鹿しさ、仇討を行わざるを得ない当事者たちの悲憤、関係者たちの詰まらぬ意地や愚劣さなど、これらを主人公江崎新八の内面的な葛藤に反映させながら描き切った作品が、まさに『仇討』だった。
 この映画の評価は、大きく分かれるだろう。この作品には、娯楽性もない。ユーモアもない。カタルシスもない。なぜ、こんな映画を作ったのだろうといった批判も多いだろう。しかし、この映画を好む好まないは別として、また時代劇であるかどうかもおくとして、『仇討』は、人を死に至らしめる人間社会の恐ろしさを描いた傑作だったことは間違いない。



『武士道残酷物語』

2006-09-27 00:19:37 | 武士道残酷物語・仇討

 見るも無残で、錦之助ファンが思わず目を覆いたくなる映画と言えば、今井正監督の『武士道残酷物語』(昭和38年)と『仇討』(昭和39年)であろう。先日私は池袋の新文芸座で、『武士道残酷物語』を観て来た。この映画、ビデオでは何度も観ているが、映画館の大きなスクリーンで観ると、やはり迫力が違う。そのすさまじさに圧倒されてしまった。
 もちろん、私はヤワな錦之助ファンではない。錦之助ファンならこういう映画もじっくり観て評価しなければならないと思っているファンの一人である。粋でカッコ良い錦之助も素晴らしいが、演技の鬼と化したすさまじい錦之助にも私は大きな魅力を感じている。だから、この映画を観ても、目を覆うことなく、むしろ目を見張って観たわけであるが、七役を演じ分けた錦之助の並々ならぬ気迫と執念にはいつも感嘆してしまう。ここまでやるのか!と内心思いながら、スゴイ役者、スゴイ映画俳優だ!と痛感しないわけにはいかない。
 『武士道残酷物語』を観ると、錦之助の「闘う姿」に感動する。「闘う姿」というのは、映画の中で立ち回りをして敵と戦うというのではない。実はこの映画に、立ち回りや斬り合いは出て来ない。私が言いたいのは、この「反時代劇」とも言える作品を通じて、錦之助は、自分と闘い、監督の今井正と闘い、また、並み居る出演者たちと闘っているように思えたことである。『武士道残酷物語』ほど、錦之助が闘志を燃やした映画はなかったのではあるまいか。
 今井正は妥協しない監督で有名だった。演技が気に入らないと何度でもテストを繰り返す。それは、有馬稲子が『夜の鼓』(昭和33年)の撮影で、「待って!」と言うだけのカットを500回近くもやらされ、自殺したくなったと語っているほどである。錦之助が奥方の有馬から、その話を聞いていないわけはない。有馬稲子は、死にたくなるほど今井正のしごきにあったにもかかわらず、今度は錦之助と一緒に『武士道残酷物語』に出演するのだから、彼女の役者魂も見上げたものだ。有馬稲子は今井正の映画が好きなのだろう。錦之助を誘って、この映画に出演させたのではないかと思われるフシもある。
 それはともかく、『スクリーンのある人生・今井正全仕事』(編集:映画の本工房ありす)のために錦之助が書いた序文「役者道残酷物語」によると、クランク・インする前に錦之助は10キロも減量したそうだ。タイトルマッチ前のボクサーのような状態だったという。空腹で台本も頭に入らなかったらしい。また、今井正の平然とした態度に、内心「この野郎!」と思ったとも正直に語っている。
 この映画は共演者が芸達者ばかりで見ごたえがあった。オムニバス映画なので、話ごとに共演者が変わっていくのだが、錦之助だけが出ずっぱりで、次々と相手役と火花を散らす演技の闘いを続けていく。
 第三話「飯倉久太郎の章」で男色の殿様を演じた森雅之が何と言っても絶品だった。また、見捨てられた愛妾役の岸田今日子が気味悪いほど良かった。この二人の間に、若衆役の錦之助が入って、引くに引けぬ三角関係を繰り広げるのだから、観ている私は何度固唾を飲んだか分からない。挙句の果ては、錦之助の一物が斬られてしまい、しかも岸田今日子をお下がりの嫁にあてがわれるというのだから、衝撃的な話だった。
 第四話「飯倉修蔵の章」は、この映画のメインで最も残酷なストーリーだと思うが、配役の上でも錦之助(修蔵)の奥方を演じた有馬稲子が控え目だったが実に憐れで、稲子ファンの私は胸が締め付けられる思いだった。殿様役の江原真二郎の凶暴さと狂った表情も強烈な印象を残した。
 最初と最後に現代の話があるのだが、今回観ていて、最後の「飯倉進の章」もなかなか良く出来ているなと感じた。進が勤める建設会社の部長に扮した西村晃が相変わらずの好演で、恋人役の三田佳子も熱演していた。現代劇の錦之助も新鮮で良かった。錦之助は普通の洋服姿で出演していたが、先祖たちとのギャップがこの優柔不断なサラリーマン青年像をかえって際立たせていたように感じた。
 自殺未遂した三田佳子のベッドの脇で、錦之助が「二人だけで結婚しよう」ときっぱり言うラストシーンは、この映画の唯一の救いだった。しかし、この取って付けたような終わり方を観て、はたして、映画全体のテーマからして、これで良かったのだろうかという疑問も残った。
 
 『武士道残酷物語』は、主君に対し忠誠を尽くし、自らの家の永続を願うがために、個人を犠牲にするという武士道の愚劣さを、嫌というほどわれわれの前に突き付けた作品であった。この映画は一貫してこのテーマを追求し、筋立てを変えながら武家社会の不条理というものを執拗に描いていたが、しかしなぜ、ここまで、封建道徳に縛られた先祖たちの生き様を冷徹に描かなければならなかったのか。今井正は、戦争責任の問題を個人の内部の問題として捉え直そうと試みて、この映画を製作したと述懐しているが、この意図はどうも理解できない。主君をお国に置き換えてみたとして、お国の暴虐がどんなにひどいものであれ、臣民は、あくまでもそれに耐え忍び、いざとなれば命をも犠牲にしなければならない。それがどれほど理不尽に思えても、滅私奉公を逃れる道が他にないとするならば、自らの宿命に対し、やり場のない憤りを抱くだけである。『武士道残酷物語』は、過去の日本人の封建的な生き方を弾劾しながら、同時にその血を引く戦後の日本人も体質的に変わっていないのではないかという問題提起をした。が、この映画の限界は、そこにとどまって、現代の日本人に向かって自己変革への意志も希望も示唆できなかったことにあったと思う。


『笛吹童子』(その3)

2006-09-18 11:00:42 | 笛吹童子

 先週、池袋の映画館で、『笛吹童子』三部作を観たことはすでに書いた。その後、ビデオで全編見直し、よせばいいのに昨晩もう一度ぶっ通しで観てしまった。今、私の頭の中は、『笛吹童子』でいっぱいである。場面場面が浮んでは消え、消えては浮んで……、もう気が狂いそうなほど。
 霧の小次郎に扮した大友柳太朗の不敵な顔と、胡蝶尼役の高千穂ひづるの陽気な笑顔が頭の中を交錯している。「ウッワハッハハ」と笑う大友の太い声も耳から離れない。古井戸の前で唱える高千穂のおまじない、「出て来い、出て来い、上がって来い、魔法の柱を登って来い」という甲高い声も離れない。高千穂が長い髪を振って引っ張ると、井戸の底から、ざんばら髪の亡者のような斑鳩隼人(楠本健二)がぬーっと浮かび上がって来る。このシーンが二回か三回かあって、印象に強く残っている。魔法使いの婆さんの姿も夢に現れて来そうだ。鼻を高くするため粘土みたいなもの付けていたなー。この婆さんを演じたのは千石規子で、よくやったと感心する。

 錦之助のことも書かなくてはまずいだろう。菊丸である。だが、どうも印象が薄い。笛を吹いている涼しげな顔しか浮ばない。この映画の出演時、錦之助は21歳である。顔にあどけなさが残り、可愛らしさは感じるが、水もしたたるイイ男とまでは行っていない。男っぽさはなく、美少年でお小姓的である。とても成人した若者には見えないと思う。菊丸は、そのタイトル通り『笛吹童子』の主人公であるはずなのだが、この映画では脇役的存在になっていた。全篇を通じ、出番もそれほど多くなかった。錦之助の立ち回りもほとんどなかった。刀は最後に一度抜いただけである。菊丸は武士を捨て、平和回復のため、面作りに専念する。そういう設定だから、悪者に対しても手を出さなかったのだろう。笛を吹いたり、面を彫ったりしているだけで終わってしまった。『里見八犬伝』の犬飼現八の方がカッコ良かったと思う。ところで、菊丸が留学先の明の国で世話になったあの娘はどうしたのだろう。第一部に登場する面作りの先生の娘である。恋人だったのに、別れたきりになってしまった。錦之助が出て来て、すぐラブ・シーンもどきの場面があったのにはちょっと面食らったのだが……。
 萩丸の千代之介はもっと印象が薄い。思い出してみると、第二部には確か全然出て来なかったと思う。千代之介の印象的なシーンと言えば、やはり、しゃれこうべの面をかぶされて取れなくなった場面である。千代之介は、立ち回りが多かったが、下手だなーとつくづく思った。萩丸の千代之介はどうも個性がなかった。正直言って、『紅孔雀』の浮寝丸の方がずっと良かった。

 桔梗の田代百合子のことは、ご年配の隠れファンが多いので、変なことを書けない。『笛吹童子』を観た当時の少年たちのほとんどが一遍で熱烈な田代ファンになったことを私は知っている。純情可憐な桔梗役の田代をけなそうものなら、オールド・ファンに袋だたきにされそうで恐いが、私は彼女の緊縛シーンが目に焼きついている。この映画で桔梗は何度縛られたことだろう。三回、いや四回あった気がする。田代百合子は、どことなく陰影があり、マゾ的な雰囲気が漂うエロティックな女優さんだなーと私などは感じるのだが、賛同してくれる方がいるかどうか。斑鳩隼人が知らないふりをして、ムチで折檻するシーンがあるが、その時田代が身を屈めて、打たれるたびに悩ましい声を上げたところが私は忘れられない。また、霧の小次郎に嚇された時の、「堪忍して!」「助けて!」という声も耳にこびり付いている。
 『笛吹童子』の大きな魅力の一つは、陰性の田代百合子と陽性の高千穂ひづるの競演にあったと思う。高千穂ひづるは演技もうまいし、宝塚出身だけあって、輝いている。それに対し、田代百合子はいかにもシロウトっぽく、控え目で、そこがまた良かったのかもしれない。

 桔梗の父親、上月右門役の清川荘司の間抜けぶりも妙に頭に浮かんでくる。漂流して無人島に潜んでいたり、しゃれこうべの面をかぶった主君の萩丸を谷底に突き落としたり、満月城の抜け道に隠れていて萩丸に襲い掛かったり、馬鹿さ加減に飽きれてしまう。演技も下手。だが、ちょこちょこ登場するので、目に付く。女房役の松浦筑枝は、さすがにうまかった。堂々とした所作と落ち着いたセリフ回しに感心した。息子の上月左源太に扮した島田照夫(その後片岡栄二郎と改名)は、父親役の清川荘司に負けず、頼りなかった。第一部で母親の松浦に命令され、援軍を頼みに行くのだが、そのままどこかへ行ってしまい、第二部は登場せず。第三部の終わりでやっと現れたと思ったら、白鳥党に入っていた。

 『笛吹童子』三部作は、はっきり言って、幼稚で矛盾だらけのストーリーだった。しかし、幻想的なロマンに溢れたこの冒険活劇は、戦後の窮乏時代に育った子供たちに夢と憧れを与え、一世を風靡することになった。今この映画を観ると、奇想天外、荒唐無稽を通り越して、バカバカしいと思われる部分も多い。今の若い人や子供たちがこの映画を観たら、どんな感想を述べるだろうか。もしかすると漫画の方がずっと面白いと言うかもしれない。私自身、前にも書いたように、この映画をリアルタイムで観て感動したわけではないので、懐かしい思い出を込めてこの映画について熱っぽく語ることができない。昔も今も変わらない初恋の人に再会した時のような気持ちにはどうしてもなれないのだ。かといって、この映画を生まれて初めて観た若い人のように、時代背景を抜きにして、まったく新鮮な気持ちで感想を述べ、面白がったり、馬鹿にしたりすることもできない。そんなわけで、支離滅裂な感想になってしまったかもしれないが、お許し願いたい。



『笛吹童子』(その2)

2006-09-17 10:44:56 | 笛吹童子

 『笛吹童子』がなぜこれほどの人気を呼んだかに関してはいくつかの理由があると思う。が、一番大きな理由は、『笛吹童子』が映画化される前に、ラジオドラマとしてすでに絶大な人気を得ていたことである。まずこれが大きかった。黙っていても観客が呼べる条件が整っていたからだ。そして、中村錦之助と東千代之介という二人のフレッシュで魅力溢れる美男俳優が出演していたことが爆発的な人気を確定した。もちろん、この映画が若い観客の期待に応え、ハラハラドキドキの連続で、非常に面白かったことも大きい。

 ご存知の方も多いと思うが、『笛吹童子』は、『新諸国物語』というシリーズの中の一作である。原作者は北村寿夫(1895~1982)で、劇作家の小山内薫に見出されて以来、映画やラジオドラマの脚本を戦前から手がけていた作家だった。彼は児童文学も書いていた。森鴎外の翻訳集に『諸国物語』という作品があるが、これは西洋諸国の冒険話で、北村の『新諸国物語』は昔の日本各地の冒険話である。これには、『笛吹童子』のほかに、『白鳥の騎士』『紅孔雀』『オテナの塔』『七つの誓い』『天の鶯(うぐいす)『黄金孔雀城』が含まれている。すべてラジオドラマ化され、映画化されたが、『新諸国物語』シリーズの第一作『白鳥の騎士』が初めてラジオで放送されたのは昭和27年(1952年)のことだった。NHKの連続ラジオドラマで、夕方15分間、月曜から金曜まで毎日放送された。『白鳥の騎士』はそこそこの人気だったようだが、翌昭和28年1月から『笛吹童子』が放送され始めると、一大センセーションを巻き起こした。
 主題歌が良かったこともある。「ヒャラーリ ヒャラリコ、ヒャリーコ ヒャラレロ、誰が吹くのか、ふしぎな笛だ」で始まるあの有名な曲である。原作者の北村寿夫が作詞したが、何と言っても尺八の名手福田蘭童(1905~1976)が作曲した哀愁に満ちたメロディーが胸に沁みた。
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/00_songs.html
<「笛吹童子」のメロディが検索できます>
 子供たちは皆心躍らせ、ラジオの前に坐り込み、耳をそばだててドラマを聴き入った。(もちろん、これは母や兄や先輩諸氏から聞いた話で、私はラジオドラマで育った世代ではない。『赤銅鈴之助』を聴いていた覚えはあるが、東映の子供映画と漫画の月刊誌で育ち、テレビが家庭に備わってからは『月光仮面』『七色仮面』などが憧れのヒーローだった。NHKテレビの『ちろりん村とくるみの木』などはバカにして見ていなかった。)
 福田蘭童のことに少し触れておこう。彼は、明治の天才洋画家青木繁の遺児で、幼少の頃に母子を捨てた父とは死別し、母とも生き別れて、不幸な少年時代を過ごしたようである。そんな孤独感もあってか、彼は尺八奏者となり、作曲家としても一躍名を上げた。そして、昭和8年、当時人気絶頂だった映画女優川崎弘子と恋愛結婚する。二人の間に生まれたのが石橋エータロー(クレージーキャッツの一員で、ピアニスト)だった。
 ラジオドラマ『笛吹童子』は、昭和28年の大晦日まで続き、大好評のうちに終了する。その後昭和29年正月から始まったのが『紅孔雀』である。

 さて、東映がこの『笛吹童子』の映画製作権をいつ取ったのかは不明だが、製作に本格的に乗り出したのは、昭和29年春だった。主人公の萩丸、菊丸を誰にするかしばらく迷っていたらしいが、初めに東千代之介が決まり、次に中村錦之助に白羽の矢が立ったようである。その頃東映には、子供や若い女性を呼べる青年の人気スターがいなかった。千代之介は昭和29年初めに東映に入社し、デビュー作『雪之丞変化』も決まって、撮影に入っていた。錦之助はといえば、昭和28年11月に歌舞伎界から美空ひばりの相手役として新芸プロの福島通人社長にスカウトされ、すでに松竹映画『ひよどり草紙』(昭和29年2月公開)でひばりと共演し、映画デビューを飾っている。錦之助の映画出演第二作が新東宝の『花吹雪御存じ七人男』(昭和29年3月公開)で、その撮影終了後に福島社長が錦之助に出演の依頼をしてきたのが、東映の『笛吹童子』だった。錦之助は二つ返事で、出演を引き受けたと言う。ただ、ラジオドラマの『笛吹童子』のことはまったく知らなかったらしい。萩丸と菊丸のどちらがやりたいかという福島の質問に対し、笛を吹くのは菊丸だと聞き、錦之助は即座に菊丸がやりたいと答えたようだ。「笛吹童子」の菊丸の方が主役だと思ったからだった。
 
 ところで、東映社長大川博の随想集『この一番』を読むと、昭和26年4月東映設立当初からの苦しい経営事情が書かれていて興味深い。大川博の赤字打開策は、次の三つだった。第一に、東映の専属の映画館を全国に増やすこと。第二に、そこでは東映の映画を毎週二本立てで上映すること。第三に、一本は長編の大作にして、もう一本は、子供ないし若年層向きの中篇映画にすることだった。大川博は、第三の計画を達成するために当時東映の辣腕プロデューサーであったマキノ光雄に若手スターの急遽育成を指示する。
 昭和28年頃から第一と第二の計画は軌道に乗り始めた。が、週替わりの二本立てといっても昭和28年度は二本立てのうちの一本はリバイバル上映だった。また若い観客を呼べる若手スターは育っていなかった。新作二本立て体制が整い始めるのは昭和29年からで、それを確実にしたのが5月に『笛吹童子』が大ヒットしたことだった。錦・千代ブームが起こって初めて、東映はプログラム・ピクチャーの量産体制に入ったのである。データを見ると、昭和28年度が57作品だったのに対し、昭和29年度は103作品になり、ほぼ倍増したことになる。当初、子供向けに作られた中編映画は、大人向けの長編映画の添え物に過ぎなかった。しかし、これが観客動員を飛躍的に増やす決め手となった。東映の目算は予想を超えて、当たった。東映はジャリ集めの映画を作って儲けているといった非難を映画界から浴びたが、あっという間に、他の映画会社を追い抜き、三国一の映画王国を築いてしまう。
 
 『笛吹童子』三部作と共に封切られたメインの映画は、『悪魔が来りて笛を吹く』(横溝正史原作、松田定次監督、片岡千恵蔵主演)、『唄しぐれ おしどり若衆』(佐々木康監督、美空ひばり、中村錦之助主演)、『鳴門秘帖』(吉川英治原作、渡辺邦男監督、市川右太衛門主演)だった。注目すべきは、『笛吹童子』第二部と併映されたのが、ひばりと錦之助が共演した映画だったことである。錦之助は『唄しぐれ おしどり若衆』を『笛吹童子』の前に撮影し終えていたようだ。昭和29年のこどもの日は、東映の全国の封切館に錦之助の映画が2本並んだことになる。東映がいかに錦之助を売り出そうと力を入れていたかが分かる。錦之助の名前は、錦(にしき)の鯉のぼりのように五月の空高く舞い上がったわけである。(つづく)



『笛吹童子』(その1)

2006-09-17 04:39:54 | 笛吹童子

 中村錦之助の名前を一躍日本中に知らしめた映画と言えば、まさにこれである。
 東映映画『笛吹童子』第一部が封切られたのは昭和29年4月27日、ゴールデンウイークに入る直前のことだった。『笛吹童子』は封切られるやいなや爆発的人気を呼んだ。続いて第二部が同年5月3日、第三部が5月10日に封切られた。連続ものの三部作で、一週間に一作ずつ上映されて行った。そして、これが爆発的人気をさらに爆発的にした。
 日本中のどれほどの多くの少年少女がこの映画を観に行ったのだろう。その数は分からないが、数百万人に上ったに違いない。観客は、昭和29年当時の小・中学生が中心だったが、幼児や高校生も含まれていた。年代的に言えば、昭和10年代後半から昭和20年代初めに生まれた子供たち。こんなことを言っては悪いが、戦争中ないしは戦後直後のドサクサまぎれに生まれた子供たちである。現在の年齢なら、70歳から60歳くらいまでの間の人たちで、いわゆる「団塊の世代」(昭和22・23年生まれ、戦後のベビー・ブーム世代)より数歳上の世代である。
 かく言う私は、彼らに比べてずっと若く、サンフランシスコ講和条約が公布され日本がアメリカの占領時代を終えた昭和27年4月生まれなので、もちろんリアルタイムで『笛吹童子』を観ていない。物心つくかつかぬうちに東映映画の洗礼を受け、錦之助の大ファンになったとはいえ、覚えのあるのは『紅孔雀』からである。ただ、七歳年上の私の兄が、『笛吹童子』からずっと東映映画のファンだったので、幼い頃の私は兄の影響をもろに受けて育った。
 赤ん坊時代が終わると私も両親と兄に連れられて、東映の映画館に行き始めたようだ。そのうち兄よりも熱心な東映ファンになってしまい、休日に父と二人だけで観に行くようになった。目黒駅のそばに多分東映の映画館があったのだろう。もしかすると五反田だったかもしれないが、映画館が大変混んでいて座席が取れないと、よく通路に坐って観ていた記憶と、映画を観た後、父と二人で目黒の権之助坂をてくてく歩いて中目黒の自宅へ帰って来た記憶が断片的に残っている。権之助坂の途中におもちゃ屋があって、そこで刀やメンコを買ってもらったこともよく覚えている。
 当時のガキたちは、チャンバラ映画を観ては、庭や空き地で刀を振り回して遊んでいた。アイドルの錦之助はたいてい柄のある派手な着物を着ていた。そこで、私も真似た。それには、押入れにあるお客用の布団を包んでいた大風呂敷が最適だった。濃い緑色の地に白い唐草模様があるヤツである。私はそれを引きはがし、肩からかぶって、チャンバラごっこをしていた。きっと私は『紅孔雀』の「那智の小天狗」に成りすましていたのだろう。この仮の衣装を泥だらけにしたり、破いたりして、母にこっぴどく叱られたこともあったと思う。

 『笛吹童子』の話に戻そう。この映画、封切りではなかったが、大昔にどこかで観たような気がする。映画館で再映された時だったかもしれないし、テレビで放映された時かもしれない。子供の私にとって『笛吹童子』は、先輩たちから語り継がれた伝説の映画で、観たい映画のナンバーワンだったはずである。だから、きっと観たのだと思う。実は、この間、それこそ50年ぶりに『笛吹童子』第一部のビデオを観て、見覚えのあるシーンが二、三あったのには驚いた。萩丸(東千代之介)が悪者にどくろの面をかぶされて、取れなくなってしまうシーンと、最後に霧の小次郎(大友柳太朗)が竜に乗って現れ、処刑寸前の娘(田代百合子)をさらって行くシーンである。小次郎が雲の上でワッハッハと大声で笑う場面がカッコ良く、記憶に鮮やかだった。
 そして、先週の月曜、池袋の新文芸座で『笛吹童子』三部作を一挙上映するというので、観に行った。昼からの二回目だったが、大入りとは行かぬまでも、百数十人の観客がいた。ほとんどは60歳以上のシニアで、男性と女性が半々だった。夜の部はもっと多くの観客が詰め掛けたと思う。多分若い男女も混じっていたことだろう。私は一回だけ観て、映画館で出会った知り合いの男性と飲みに行ってしまったのだが、彼(65歳)は、朝から二回観たとのことだった。近くに座っていた老婦人など、三回観てから帰ると言っていた。スクリーンで『笛吹童子』を観られる機会は死ぬまでないかもしれない---そんな悲壮な思いを抱いてここへ観に来た人たちも数多く居たようだった。(つづく)