『美男城』には、主馬之介を慕う三人の女が登場する。美尾姫、千草、朝路である。映画では、この三人の女に東映城の三人娘、大川恵子、桜町弘子、丘さとみを振り当てていた。が、惜しむらくは、主馬之介をめぐる女たちの描き方が不十分で、問題だった。原作ではこの三人は、それぞれ悲劇のヒロインなのだが、映画ではほとんどその悲劇性が描き切れておらず、単なる飾り物にすぎなくしてしまった。脚本を書いたのは成沢昌茂だったが、あれほど男女の濃密な関係をリアルに描けるライターが、どういうわけか、安易な妥協をしてしまい、脚本を東映娯楽調に合わせてしまったとしか思えない。監督佐々木康の演出も、この三人のヒロインに関しては、中途半端だったと思う。
まず、大川恵子の美尾姫は、役柄が不向きで、セリフに違和感を覚えた。美尾姫は、小早川秀秋の妹なのだが、秀秋が家康に忠誠を誓うため、家康のもとに側女(そばめ)として送られるという設定になっている。美尾姫は美女でも高慢で気が強く男勝りなところがあり、だから戦場で鎧を身に着けているわけである。映画の最初に出て来る大川恵子の鎧姿は、可愛らしい桃太郎さんみたいで良かったが、大阪方の落ち武者に襲われ、危いところを主馬之介に救われ、一目惚れしてしまう。原作では、輿入れの途中、美尾姫は逃走し、主馬之介を追いかける。そして、須藤頼之助(主馬之介の幼友達で、初恋の人・千草の兄)に犯され、純潔を失って、泣く泣く主馬之介を諦めることになっている。
この辺の経緯を映画ではすべて省略していた。まさか大川恵子にそんな役をさせるわけにもいかず、適当に筋立てを変え、彼女が出番の場面では、出来るだけ引き立てていた。美尾姫が、お付きの女中と風呂場へ行く場面があった。浴室で着物を一枚脱いで、さあ次は、と思ったら、ふところに入れておいた主馬之介の印籠(救われた時に拾ったもの)を落としてしまう。それを拾い上げ、思い入れがあって、ハイ終わり。多分ファンサービスのつもりだったのだろうが、これではどうも物足りない。頼之助の屋敷の牢屋に閉じ込められた主馬之介を美尾姫が逃がしてやる場面も、ちょっとお粗末だった。「毒を盛ったのは千草です」と千草への嫉妬心からウソをつくのだが、主馬之介が美尾姫に毒の一件を尋ねること自体もおかしいが、それより、美尾姫が「わたしといっしょに逃げて!」と泣きながら懇願するくらいのことがなければ、納得がいかない。そのほか、まだ家康の側女になってもいないのに、美尾姫がそれを盾にいろいろ指示を出すのも変だった。
桜町弘子の千草は、三人の中ではいちばん良い役であった。錦之助とのラブシーンも彼女がお相手をしていた。ラブシーンといっても着物を着たままでただ抱き合うだけだが、観ていると、錦之助と差し向かえに坐っていた桜町弘子の方が、感極まりすごい勢いで錦之助の胸元に身を投げ込んだのには驚いた。1メートル以上空間移動したのではあるまいか。千草は主馬之介の初恋の人であり、また許嫁同然の間柄だったが、主馬之介が八年前出奔してから、二人はずっと会えなかった。主馬之介は千草の兄・頼之助(徳大寺伸)に誘われて、千草に会いに行ったのである。しかし、頼之助は自分の栄達に目がくらみ、邪魔者の主馬之介を殺そうとする。千草は兄の策略にはまり、久しぶりに会った主馬之介に毒入りの酒を飲ませてしまう。
千草は、原作では、兄の言いなりになる小心者の乙女として描かれているが、原作でも性格描写があいまいだったと思う。結局、朝路を愛し始めた主馬之介に見捨てられてしまうのだが、映画での千草は、主馬之介とのラブシーンもあり、桜町弘子の熱演もあって、主馬之介との相思相愛状態を崩さないまま、ずっと保っていた。それが、ラストで、主馬之介が兄を斬ったことで、破局を迎えてしまう。千草は、兄の菩提を弔うために寺に入ると言い、主馬之介は、千草の兄を殺してしまったことを後悔し、千草と別れる決心をする。最後は、千草に見送られながら、主馬之介は宗太郎と従者(多次郎)を連れて、廃墟の城を去っていく。ここで、映画はエンドマーク。が、第三の女性・朝路を登場させなければ、こうした終わり方も良かっただろうし、主馬之介と千草との恋愛と別離を本筋に据えて、ストーリーの構成上、矛盾もなかったと思う。問題は、丘さとみの演じた朝路の扱い方がまったく中途半端だったことである。朝路を思い切ってもっと軽い役にするか、原作のように重要な役として扱うなら、場面を増やし、もっと忠実に描かなければならなかったと思う。
原作を読むとわかるのだが、『美男城』の重要なテーマの一つは、主馬之介と朝路の主従関係を越えた異性愛だった。朝路は、身寄りのない孤児で、幼い頃に日坂の城に雇われ、一所懸命に働いてきた下女である。城以外に棲家のない猫のような美しい娘であり、純真で一途、城中の雑用に日夜専念することしか知らない哀れな娘なのである。城主・伊能盛政(主馬之介の父)が、家臣に背かれ、乱心して城に火を放った後も、朝路は一人だけ城にとどまり、焼けただれて無残な姿に変わり果てた盛政を守り、その世話をしていた。廃墟のあちこちに罠を仕掛け、敵の侵入を防いでいたが、盛政は遺言を残し、死んでしまう。(映画では、主馬之介と会うまで生きていた。)主馬之介は、城に帰って来て、朝路に出会う。その時、朝路から父の遺言を聞き、自分の出生の秘密と父の裏切りの理由を知るのである。(それについては映画を観るか、原作を読んでいただきたい。)ここまでは、映画もそれほど原作と変わりない。
しかし、原作では、終章に、主馬之介と朝路との廃墟の城での同棲生活が描かれている。そして、朝路の献身的な世話に、主馬之介は心を打たれ、彼女をいたわり、彼女が好きになっていく。この過程が、泣けるほど感動的なのだが、映画はこの部分とそれ以下を省いてしまった。ある夜、主馬之介は朝路と関係を持ち、妻にしようと心に誓う。主馬之介は、父の汚名を晴らすため家康に会いに行く。留守中、孤児の宗太郎が訪ねて来て、彼も城に住み着く。しかし、主馬之介が帰って来るというその当日、城が頼之助の一派に襲われ、朝路は頼之助が投げ放った槍を背中に受け、崖から落ちて死んでしまう。主馬之介は、頼之助を斬り殺す。そして、朝路の遺骸を渓流で発見し、城の地中に埋葬する。その後、主馬之介と宗太郎は城を去っていく。これが原作のラストである。
すでに出来上がっている映画、それも48年前に公開された映画の荒さがしをしても意味はないが、原作が優れていて、しかも錦之助の御堂主馬之介が素晴らしいだけに、残念でならない。丘さとみも可哀相だった。
ここから先はお読みにならなくても結構だが、私ならこの映画を以下のように作り直したいと思っている。
千草と主馬之介のラブシーンはカット。ラブシーンは、最後の方に回し、朝路と主馬之介のシーンに代える。
主馬之介たちが父の亡骸を菩提寺に運ぶシーン、坊主(三島雅夫)が登場するシーン、主馬之介たちを取り囲む群集シーンはカット。その代わりに、主馬之介と朝路との廃墟での生活のシーンをいくつか入れる。ラブシーンもここに挿入する。途中で宗太郎を加えてもよい。
ラストで千草は登場させない。多次郎も出さない。父の日記を焼くシーンもカット。
主馬之介と宗太郎が朝路の墓を掘って、埋葬し、二人で城を去っていく。これは夕日の中が良いだろう。そこでエンドマーク。(2019年2月4日一部改稿)
まず、大川恵子の美尾姫は、役柄が不向きで、セリフに違和感を覚えた。美尾姫は、小早川秀秋の妹なのだが、秀秋が家康に忠誠を誓うため、家康のもとに側女(そばめ)として送られるという設定になっている。美尾姫は美女でも高慢で気が強く男勝りなところがあり、だから戦場で鎧を身に着けているわけである。映画の最初に出て来る大川恵子の鎧姿は、可愛らしい桃太郎さんみたいで良かったが、大阪方の落ち武者に襲われ、危いところを主馬之介に救われ、一目惚れしてしまう。原作では、輿入れの途中、美尾姫は逃走し、主馬之介を追いかける。そして、須藤頼之助(主馬之介の幼友達で、初恋の人・千草の兄)に犯され、純潔を失って、泣く泣く主馬之介を諦めることになっている。
この辺の経緯を映画ではすべて省略していた。まさか大川恵子にそんな役をさせるわけにもいかず、適当に筋立てを変え、彼女が出番の場面では、出来るだけ引き立てていた。美尾姫が、お付きの女中と風呂場へ行く場面があった。浴室で着物を一枚脱いで、さあ次は、と思ったら、ふところに入れておいた主馬之介の印籠(救われた時に拾ったもの)を落としてしまう。それを拾い上げ、思い入れがあって、ハイ終わり。多分ファンサービスのつもりだったのだろうが、これではどうも物足りない。頼之助の屋敷の牢屋に閉じ込められた主馬之介を美尾姫が逃がしてやる場面も、ちょっとお粗末だった。「毒を盛ったのは千草です」と千草への嫉妬心からウソをつくのだが、主馬之介が美尾姫に毒の一件を尋ねること自体もおかしいが、それより、美尾姫が「わたしといっしょに逃げて!」と泣きながら懇願するくらいのことがなければ、納得がいかない。そのほか、まだ家康の側女になってもいないのに、美尾姫がそれを盾にいろいろ指示を出すのも変だった。
桜町弘子の千草は、三人の中ではいちばん良い役であった。錦之助とのラブシーンも彼女がお相手をしていた。ラブシーンといっても着物を着たままでただ抱き合うだけだが、観ていると、錦之助と差し向かえに坐っていた桜町弘子の方が、感極まりすごい勢いで錦之助の胸元に身を投げ込んだのには驚いた。1メートル以上空間移動したのではあるまいか。千草は主馬之介の初恋の人であり、また許嫁同然の間柄だったが、主馬之介が八年前出奔してから、二人はずっと会えなかった。主馬之介は千草の兄・頼之助(徳大寺伸)に誘われて、千草に会いに行ったのである。しかし、頼之助は自分の栄達に目がくらみ、邪魔者の主馬之介を殺そうとする。千草は兄の策略にはまり、久しぶりに会った主馬之介に毒入りの酒を飲ませてしまう。
千草は、原作では、兄の言いなりになる小心者の乙女として描かれているが、原作でも性格描写があいまいだったと思う。結局、朝路を愛し始めた主馬之介に見捨てられてしまうのだが、映画での千草は、主馬之介とのラブシーンもあり、桜町弘子の熱演もあって、主馬之介との相思相愛状態を崩さないまま、ずっと保っていた。それが、ラストで、主馬之介が兄を斬ったことで、破局を迎えてしまう。千草は、兄の菩提を弔うために寺に入ると言い、主馬之介は、千草の兄を殺してしまったことを後悔し、千草と別れる決心をする。最後は、千草に見送られながら、主馬之介は宗太郎と従者(多次郎)を連れて、廃墟の城を去っていく。ここで、映画はエンドマーク。が、第三の女性・朝路を登場させなければ、こうした終わり方も良かっただろうし、主馬之介と千草との恋愛と別離を本筋に据えて、ストーリーの構成上、矛盾もなかったと思う。問題は、丘さとみの演じた朝路の扱い方がまったく中途半端だったことである。朝路を思い切ってもっと軽い役にするか、原作のように重要な役として扱うなら、場面を増やし、もっと忠実に描かなければならなかったと思う。
原作を読むとわかるのだが、『美男城』の重要なテーマの一つは、主馬之介と朝路の主従関係を越えた異性愛だった。朝路は、身寄りのない孤児で、幼い頃に日坂の城に雇われ、一所懸命に働いてきた下女である。城以外に棲家のない猫のような美しい娘であり、純真で一途、城中の雑用に日夜専念することしか知らない哀れな娘なのである。城主・伊能盛政(主馬之介の父)が、家臣に背かれ、乱心して城に火を放った後も、朝路は一人だけ城にとどまり、焼けただれて無残な姿に変わり果てた盛政を守り、その世話をしていた。廃墟のあちこちに罠を仕掛け、敵の侵入を防いでいたが、盛政は遺言を残し、死んでしまう。(映画では、主馬之介と会うまで生きていた。)主馬之介は、城に帰って来て、朝路に出会う。その時、朝路から父の遺言を聞き、自分の出生の秘密と父の裏切りの理由を知るのである。(それについては映画を観るか、原作を読んでいただきたい。)ここまでは、映画もそれほど原作と変わりない。
しかし、原作では、終章に、主馬之介と朝路との廃墟の城での同棲生活が描かれている。そして、朝路の献身的な世話に、主馬之介は心を打たれ、彼女をいたわり、彼女が好きになっていく。この過程が、泣けるほど感動的なのだが、映画はこの部分とそれ以下を省いてしまった。ある夜、主馬之介は朝路と関係を持ち、妻にしようと心に誓う。主馬之介は、父の汚名を晴らすため家康に会いに行く。留守中、孤児の宗太郎が訪ねて来て、彼も城に住み着く。しかし、主馬之介が帰って来るというその当日、城が頼之助の一派に襲われ、朝路は頼之助が投げ放った槍を背中に受け、崖から落ちて死んでしまう。主馬之介は、頼之助を斬り殺す。そして、朝路の遺骸を渓流で発見し、城の地中に埋葬する。その後、主馬之介と宗太郎は城を去っていく。これが原作のラストである。
すでに出来上がっている映画、それも48年前に公開された映画の荒さがしをしても意味はないが、原作が優れていて、しかも錦之助の御堂主馬之介が素晴らしいだけに、残念でならない。丘さとみも可哀相だった。
ここから先はお読みにならなくても結構だが、私ならこの映画を以下のように作り直したいと思っている。
千草と主馬之介のラブシーンはカット。ラブシーンは、最後の方に回し、朝路と主馬之介のシーンに代える。
主馬之介たちが父の亡骸を菩提寺に運ぶシーン、坊主(三島雅夫)が登場するシーン、主馬之介たちを取り囲む群集シーンはカット。その代わりに、主馬之介と朝路との廃墟での生活のシーンをいくつか入れる。ラブシーンもここに挿入する。途中で宗太郎を加えてもよい。
ラストで千草は登場させない。多次郎も出さない。父の日記を焼くシーンもカット。
主馬之介と宗太郎が朝路の墓を掘って、埋葬し、二人で城を去っていく。これは夕日の中が良いだろう。そこでエンドマーク。(2019年2月4日一部改稿)