錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~昭和29年ゴールデンウィークの映画界(2)

2013-02-09 21:01:31 | 【錦之助伝】~『笛吹童子』前後
 上映されたある一本の映画が、映画界の枠を越えて、社会現象と呼ばれるまでの反響を呼ぶことがある。昭和29年のゴールデンウィークに上映された映画で言えば、『ローマの休日』と『笛吹童子』がそうだった。
ローマの休日』は、四月下旬日本各地の主要都市で続々と公開され、驚異的な大ヒットとなった。東京の日比谷映画劇場のデータによると、初日(4月27日)の観客数は8,934人、2週間の観客総動員数は、なんと13万7千人。3週間のロードショー予定が、38日間のロングランとなり、その総動員数は約33万人に上った。日本国内にオードリー旋風が巻き起こり、とくに若い女性の間では主役のオードリー・ヘップバーンが一躍ファンション・リーダー的存在になった。その年の夏にはヘップバーンカットが大流行し、次作の『麗しのサブリナ』ではサブリナパンツが有名になり、その後も、オードリー・ヘップバーンは、ファッション・ブランドの広告塔のような役割を果たしていく。映画の中のヒロインが、大衆の社会行動を促し、大きな経済効果を生んだのである。

笛吹童子 第一部』は、『悪魔来りて笛を吹く』の添え物として上映されたが、4月27日に封切られると、子供連れの親たちが列を作った。子供にせがまれ、『笛吹童子』を見に来たのだった。渋谷東映では初日の朝から長蛇の列ができ、地下のニュース映画専門館も開放して、やっとお客をさばいたという(東映企画担当・坪井与の話)。渋谷東映は、昭和28年11月に新築開館した大型直営館で、本館は1,500名、地下は500名収容だった。当時、東映の本拠地とも言える封切上映館だったが、平日の初日の朝から超満員になったのはこの時が初めてだった。
 浅草でも大入りだった。常盤座(浅草東映の開館は昭和31年10月)の初日の観客数は6,281人。予想をはるかに上回る数だった。映画の興行は、初日の入りで当たりはずれが分かる。映画会社のスタッフも映画館の従業員も初日の客入りを大変気にし、一喜一憂する。
「初日一回目、大入り!」の速報が各地から東映本社に届き、社内では次々に歓声が上がった。
 マキノ光雄は、企画担当の宮城文夫の部屋へ飛び込んできて、顔を真っ赤にして叫んだ。
「おい、入ったぞ! どうや、おれの言ったとおりやろ!」
 速報は、すぐに京都撮影所にも伝わり、錦之助の耳にも届いた。『笛吹童子 完結篇』の撮影途中だった。昼休み、錦之助と千代之介は手を取り合って、喜んだ。その時はまだ二人とも、錦・千代ブームが訪れようとは想像もせず、兄弟役で一緒に出演した映画がヒットしたことを素直に喜び合っただけであった。
 天皇誕生日が過ぎ、ゴールデンウィークの半ばになった。
 浅草常盤座での『笛吹童子 第一部』と『悪魔来りて笛を吹く』の楽日(5月2日)まで6日間の観客総動員数は30,984人、収容率は126.8パーセント。新宿東映(新築前の旧館)の6日間の総動員数は23,892人、収容率149.3パーセントであった。つまり、浅草、新宿の各館とも連日立ち見がでるほどの超満員だったわけである。一週間の観客総動員数は、浅草常盤座で2万人、新宿東映で1万5千人を超せばヒット作だった。不発の映画(東映東京作品が多い)だと、浅草でも新宿でも8千人程度である。(現在の映画興行とは比較にならないほど観客が多かった)

 3日から子供の日をはさんで9日までの第二週は、『笛吹童子 第二部』と『唄しぐれ おしどり若衆』の二本立て。錦之助の出演作が二本同時上映されたが、どういう結果になったのだろうか。
 シリーズ物の中篇の場合、第一部に客が入っても第二部からがぐっと客が減ることがある。それは、第一部が続きを見たくなるほど面白くなかったからだ。『笛吹童子 第一部』の評判は良く、終わり方も最高だったが、それでも東映関係者は心配だった。千恵蔵主演の『悪魔が来りて笛を吹く』が目当てで来た客も多かったにちがいない。第二週の本篇は、美空ひばりの東映初の主演作である。ひばりの時代劇は現代劇ほど人気がない。錦之助もまだスターではなく、有名ではない。そういった不安材料もあった。が、それが杞憂だったことがすぐに判明した。初日の蓋を開けてみると、やはり超満員だった。子供日が終わり、平日には客足が落ちたが、土・日でまた盛り返した。7日間の観客総動員数は、浅草常盤座が26,378人、新宿東映が23,483人だった。
 第三週は、5月10日から17日までの8日間。『笛吹童子 完結篇』と『鳴門秘帖 前篇』(渡辺邦男監督、市川右太衛門主演)の二本立て。この週も同じように超満員だった。8日間の観客総動員数は、浅草常盤座が31,215人、新宿東映が21,273人だった。
 
 こうして、毎週、子供たちが映画館に足を運び、小さな胸を高鳴らせて見た『笛吹童子』三部作の封切上映期間が終ったのだった。その後、『笛吹童子』は、二番館、三番館にかけられ、封切時にも増して、子供たちの間で大人気を博した。
東映十年史」に『笛吹童子』三部作の配給収入額が載っている。東映のように本篇と娯楽版の二本立ての場合、収入の比率配分をどうしているかは不明である。どうやら本篇と娯楽版の比率を2:1にしているように思われるが、いずれにしてもかなりアバウトな計算のようだ。が、それによると、『笛吹童子』三部作の封切配給総収入は、1,390万7,000円、総配給収入は、8,500万円とある。製作費約2,400万円、プリント代・宣伝費を含めた総費用約3,000万円の三部作の収益は、5,500万円に上ったことになる。
「東映十年史」には昭和29年度のヒット作のベストテンが載っているが、第一位の正月映画『曲馬団の魔王』(千恵蔵主演)の総配給収入が約9,000万円なので、『笛吹童子』は、三部作を一本と考えれば、第二位である。実際には第一位だったと思われるが、この映画の影響力、波及効果、貢献度は、金額に表すことができないほど大きかった。
『笛吹童子』は、まさに新たなお子様時代劇の誕生であった。そして、この映画で若きアイドルスターが生まれ、さらにブームをあおった。それが、中村錦之助であり、東千代之介だった。この二人主演スターによって、東映時代劇は若返り、活気づいたのである。その後、東映映画は子供たちにとって大きな娯楽となり、錦ちゃん・千代ちゃんは女学生ファンの追っかけの対象にもなった。盛り場の映画館に幼児や小中学生の少年少女が押し寄せるのは、『笛吹童子』以降である。東映京都撮影所やロケ現場にファンが集り始めるのも『笛吹童子』以降である。
 東映娯楽版は「ジャリすくい」と言われ、他の映画会社からやっかみ半分で非難され、多くの映画評論家からも通俗的で低級で幼稚な映画ばかり作っていると批判されながら、東映は観客第一主義に徹し、お子様映画を一つの目玉商品にしながら、「御家族揃って楽しめる映画」の量産体制に突入していく。いわばデパートの食堂ようなメニューで、おじいちゃん、おばあちゃんから子供たちまでが楽しめる映画を製作し、昭和29年から昭和30年代前半にかけて大躍進を続ける。




中村錦之助伝~昭和29年ゴールデンウィークの映画界(1)

2013-02-06 19:06:10 | 【錦之助伝】~『笛吹童子』前後
 戦後の映画界が活況だった頃、映画会社の書き入れ時は、まず正月、次がゴールデンウィークだった。各社ともここでヒット作を放ち、大きな収益を上げようと激戦を繰り広げた。
 昭和29年のゴールデンウィークはとくに熾烈だった。前評判では、松竹対東宝の大決戦と言われた。
 松竹は、柳の下に三匹目のドジョウを狙い、『君の名は 第三部』をこの週にぶつけた。前年9月に公開された第一部は配給総収入2億7千万円、12月に公開された第二部は3億円を越える空前の大ヒットだった。第三部はその完結篇である。しかも、ゴールデンウィークの公開となれば、前二作を上回る大ヒットになることは間違いない、と松竹は踏んだ。『君の名は 第三部』は上映時間2時間4分、これに短篇の「スタヂオは大騒ぎ」を添えて、一日五回上映で、荒稼ぎをもくろんだ。
 かたや、東宝は、『七人の侍』で勝負に出た。黒澤明が1年半ぶりに放つこの大作時代劇は、完成が遅れに遅れ、満を持しての公開となった。撮影日数315日、製作費は2億円を越え、上映時間3時間17分である。一本立てで途中休憩を入れると、一日三回上映が限度なので、観客の回転率は悪いが、東宝は『七人の侍』で配給総収入3億円を狙った。
 この二社に比べれば、大映、新東宝、東映はどんぐりの背比べだった。
 大映は、長谷川一夫主演の股旅物『花の長脇差』と前週から続映の『愛染かつら』(鶴田浩二と京マチ子の初共演)。新東宝は、雪村いづみ主演のミュージカル喜劇『東京シンデレラ娘』と続映の文芸作『大阪の宿』(五所平之助監督、乙羽信子主演)。二社とも長編二本立てで、一日三回上映だった。
 そして、東映は、横溝正史原作、千恵蔵が金田一耕助役を演じる定番の探偵ミステリー『悪魔が来りて笛を吹く』とお子様向けの娯楽版『笛吹童子』である。上映時間は二本で計2時間20分、一日五回上映で、観客の回転率は良い。フル回転で観客動員数を上げようとしたのだ。


 昭和29年4月26日(月)の新聞の夕刊広告。東宝と新東宝は封切り日を一日早め、すでに全国公開中、松竹と東映は翌日の27日(火)に全国一斉公開。


 同年4月27日(火)の新聞夕刊広告。大映は封切り日を一日遅らせた。
 
 邦画五社の上映作品を見れば分かるが、そこには各社の特色と、呼び込もうとする観客層の違いがはっきり表れている。松竹は相変わらずのメロドラマで若い女性向き、東宝は一般男性向き、大映は中年婦人、新東宝は大学生相手といったところだが、東映だけは子供中心の家族向けである。東映が、「ご家族揃って楽しめる東映映画」という標語を大々的に使い出すのは昭和30年からだが、本篇と娯楽版の二本立て路線が、完全に軌道に乗ったのはこの年のゴールデンウィークからだった。
 さらに言えば、映画の製作費は五社の中で東映が最低だった。昭和29年当時の東映の製作予算は、本篇1本が約1,800万円娯楽版は三部作で本篇1本とほぼ同額なので、1本が600万円だった。ゴールデンウィーク上映の『悪魔が来りて笛を吹く』は、千恵蔵主演映画なので少し高く(と言っても約2,000万円)、『笛吹童子』は原作の映画化権と特撮で費用がかかったとはいえ、1本700万円程度であろう。つまり、この2本で多く見積もっても、約3,000万円。他社なら普通の長篇1本分の製作費である。東宝の『七人の侍』の約2億円と比べれば、東映作品は桁違いの安さだった。製作費のほかに、宣伝費、フィルムのプリント代などがかかるが、たとえば松竹は、『君の名は 第三部』で、宣伝費1,000万円、プリント代(封切用に110本焼いた)に約3,000万円を費やした。東宝の『七人の侍』はその倍はかかっている。
 それに対し、東映は宣伝費もプリント代も松竹の半分以下だった。東映は、ゴールデンウィークの宣伝として、両上映作品の「笛吹き」にちなみ、縁日で売っている紙製の縦笛(息を吹き込むと先っぽが伸びてピューと音を出す笛)を大量に仕入れ、子供たちにばら撒いたそうだ。『悪魔が来りて笛を吹く』は原作の知名度に(昭和26年11月から2年間、雑誌「宝石」に連載され、昭和29年1月単行本化)、『笛吹童子』もNHKのラジオドラマの人気度に頼るといった調子で、宣伝費を極力かけずに済ませたのだった。


「キネマ旬報」の掲載広告。『笛吹童子』の方は添え物だった。

 前年度(昭和28年)の邦画五社の年間配給総収入で、東映は19パーセントのシェアを占め、東宝を抜いて第三位に躍進していた。松竹37億円、大映30億円、東映は26億円だった。(東宝24億円、新東宝22億円)。これは東映が昭和28年正月に『ひめゆりの塔』で大当たりをとり、配給総収入1億5千万円を上げ、勢いづいたことが大きかった。しかし、東映の封切上映館は、松竹、大映、東宝に比べ、数の上では三社に近づいていたが、その多くは立地条件が悪く、収容人員も少なかった。昭和29年3月時点で、東映の直営館は7館(新築の渋谷東映が拠点で、ほかに五反田、新宿、新橋、横浜にあった)、東映専門館は全国で95館だった。他社作品と併映する二番館、三番館といった契約館はすでに全国で1000館を越えていたが、これらの映画館は、ヒット作のみを上映し、プリント賃貸料も安く、配給収入も不安定だった。東映がまず安定収入を得られる専門館を、続いて直営館を増やしていくのは、二本立て路線が軌道に乗った昭和29年ゴールデンウィーク以降である。(ちなみに昭和30年8月末時点で、東映の専門館はなんと245館になって他社を圧倒する)
 
 話を戻そう。さて、昭和29年のゴールデンウィークにおける映画界の興行結果は一体どうだったのだろうか。
 松竹の『君の名は 第三部』と東宝の『七人の侍』は、どちらも予想通りの大ヒットだった。しかし、期待を上回るほどではなかった。全国での封切総収入は東宝に凱歌が上ったが、『七人の侍』の厖大な製作費を勘定に入れるなら、収益は、『君の名は 第三部』に比べて、はるかに及ばなかった。大映と新東宝は不発で惨敗だった。それに対し、東映の『悪魔来りて笛を吹く』と『笛吹童子』は、予想を数倍上回る大ヒットになった。『笛吹童子』の集客力は大きかった。東映は、安く作って、大きく儲けたのだった。
 松竹には大きな誤算があった。それは、東京を始め主要都市部で女性の観客層の多くを、同じ週に封切られた洋画の『ローマの休日』にさらわれてしまったのである。(つづく)


中村錦之助伝~『唄しぐれ おしどり若衆』(その3)

2013-01-25 19:25:24 | 【錦之助伝】~『笛吹童子』前後
 龍之丞という役は剣の使い手だった。錦之助は脚本を読んで、チャンバラシーンがたくさんあることを知り、喜んだ。『笛吹童子』の菊丸は、侍を辞めたため、笛を吹いたり、面を彫ったりしているだけで、刀を持っていない。立ち回りは、ラストにほんのわずかにある程度である。錦之助は『ひよどり草紙』と『花吹雪御存じ七人男』で立ち回りをやったが、殺陣師(たてし)がその場で振り付け、それをすぐに覚えて行なわなければならないことに戸惑った。前もって教えてもらえば、練習してもっとうまくできるのにと感じた。映画の立ち回りは、型にはまった歌舞伎のそれとは違って、迫力と凄味が欠かせない。しかも素早く動いて、次々に相手を斬り倒していかなければならない。錦之助は運動神経には自信があった。が、前二作の自分の立ち回りは、腰高で刀を手で振り回しているところばかりが目立ち、迫力も凄味もなく不満だった。錦之助は今度こそは、と思った。

『唄しぐれ おしどり若衆』の撮影は、太秦の東映京都撮影所ではなく、京都映画の下加茂撮影所を借りて行なわれた。東映の4つしかないステージが、松田組の千恵蔵主演作『悪魔来りて笛を吹く』と萩原組の『笛吹童子』の撮影で埋まっていたからだ。下加茂撮影所は錦之助が映画デビューして2本撮った馴染みの深いスタジオだった。美空ひばりと大友柳太朗はあとから加わることになっていた。そこで錦之助の登場シーンから撮ることになった。
 錦之助は脚本をじっくり読んで、龍之丞という役柄をイメージした。彼は能楽師から剣士になった異色の人物である。変幻自在で、女の扮装もすれば、粋な着流し姿で吉原の茶屋にも出入りする。最後は御前で能楽を舞い、兄の仇討を遂げる。三上於菟吉の原作だけあって、「雪之丞変化」に通じるところがある。そこで錦之助は、セリフ回しをいっそのこと歌舞伎調にしてみたらどうかと考えた。セリフは何度か練習して、全部覚えてしまった。現場でセリフが変わらなければいいが、と錦之助は思った。映画の撮影では当日セリフが急に変わることがあり、錦之助はそれが苦手だった。覚えてきたセリフが頭から抜けずに、混乱してしまうのだ。
 撮影初日になった。吉原の茶屋で、看板娘のお澪が龍之丞のいる座敷に助けを求めて飛び込んでくる場面である。
「女相手の狼藉とは、悪旗本め、許せませぬ」
 錦之助は歌舞伎調でセリフを言った。
「ダミ、ダミ、つがうよ。もっとスゼンに!」と、監督の佐々木康の叱声が飛んだ。

 
 佐々木康

 錦之助は自分の演技プランを監督からいっぺんに否定されてしまった。歌舞伎調とは違い、もっと自然にやらないとダメだということだ。それで、監督の指示通り、普通の話し言葉のようにもう一度セリフを言った。
「ヨス。そんでエー」
 佐々木監督は人の良さそうな笑いを浮かべて言った。噂には聞いていたが、監督の東北弁の訛りはかなりひどいなと錦之助は思った。が、錦之助は監督の言っていることがはっきり解った。監督の東北弁に親しみを感じさえした。佐々木康の言葉は、かえって関西人の方が分かりにくかった。東映京都のスタッフは関西人が多く、ズーさんの言うことが意味不明でまごつくことが多かった。東京人は東北弁には慣れている。錦之助が俳優たちの間で佐々木監督の通訳を務めるようになるのは後年のことである。
 佐々木康は早撮りで有名だったが、演出は丁寧で柔軟だった。臨機応変なところもあった。

 最初の立ち回りは、花嫁に化けた龍之丞が振袖姿でやるものだった。これには錦之助も苦労した。刀を振り回すと振袖が腕にからんで、思うようにいかなかった。振袖を脱ぎ捨てたあとは、大暴れすることができた。錦之助は迫力ある立ち回りを撮ってもらおうと思い、遠慮せずに何度もテストをしてもらった。スピードがあって、流れるように相手をバッタバッタと斬り倒す立ち回りが錦之助の目指すところだった。が、この頃の錦之助は、機敏さと若さゆえの体力に任せ、がむしゃらに動き回って刀を振り回したので、斬られ役も大変だった。錦之助は、思いきり相手の足を払ったり、腕を叩きつけたり、肩を切りつけたりして、手加減を知らなかった。
 東映の殺陣師は足立伶二郎だった。そして、斬られ役たちは、東映剣会(つるぎかい)の面々だった。この映画以降ずっと、足立は、錦之助に殺陣をつけ、剣会の面々は数え切れないほど錦之助に斬られ続けた。もちろん、錦之助だけでなく東映のチャンバラスターはみな、彼らに支えられていたのだった。


 足立伶二郎

 錦之助はこの最初の立ち回りで、斬られ役に怪我をさせてしまった。藤川弘という役者で、立ち回りのカラミとしてはベテランだった。もちろん、替身(かえみ、カシの木で作った刀身に銀紙を貼ったもの)を使っての立ち回りだったが、錦之助は刀の先で彼の左手を突き刺してしまったのだ。血が噴き出してきた。錦之助は真っ青になった。彼は「大丈夫です」と言いながら手を押さえていたが、血は止まらなかった。錦之助はどうして良いか分からず、心配でそれ以上立ち回りができなくなった。それで休憩となった。
 この時のショックはなかなか消えなかった。そして、立ち回りが恐くなり、どうしても加減して刀の先が伸びなくなった。足立伶二郎がそんな錦之助を見て言葉をかけた。
「みんな覚悟してやってるんやから、そんなに気に病まんでもええよ」
 それでも錦之助は藤川に会うたびごとにあやまって、怪我の様子を尋ねた。
「錦之助さん、そんなにあやまらんでいいですよ。仕事なんだから。怪我を恐がってたら、立ち回りなんかやってられませんよ」
「だけど、ぼくのせいで……」
「いやあ、あの迫力、すごかったじゃないですか。これからも頑張ってくださいよ」
 錦之助は逆に慰められ、立ち回りがもっとうまくなるように努力しようと決心した。その後、立ち回りの撮影が終ると、錦之助は斬り倒した相手の一人一人に頭を下げて、「ありがとう」と礼を言った。



中村錦之助伝~『唄しぐれ おしどり若衆』(その2)

2013-01-25 02:04:58 | 【錦之助伝】~『笛吹童子』前後
 佐々木康は、愛称ズーさんという。秋田県出身で、ズーズー弁をしゃべるので、そう呼ばれていた。明治41年(1908年)生まれなので、この頃40代半ばだった。マキノ光雄に誘われて東映へ移り、主に時代劇中心に現代劇のメガフォンも取っていた。松竹大船時代に万城目正とコンビを組んで歌謡映画を数々手がけたヒットメーカーであり、松竹現代劇のメロドラマも得意の監督だったが、時代劇は東映に来て初めて撮った。佐々木康は少年の頃は大のチャンバラファンで、とくに阪妻ファンだったので、チャンバラ時代劇は好きだった。が、もともと松竹キネマ育ちなので、東映京都で彼が撮った作品は独特な時代劇になった。歌あり、レビューまがいの舞踊あり、メロドラマもあって、しかもチャンバラもふんだんに取り入れた娯楽時代劇であった。
 彼は、松竹時代、美空ひばりの出演映画をすでに撮っていた。『踊る龍宮城』(昭和24年)と『陽気な渡り鳥』(昭和27年)である。東映に来て、『唄しぐれ おしどり若衆』で、ひばりと錦之助の共演作を撮ることになったが、佐々木康はこの二人のどちらからも好かれる監督になった。とくにひばりの出演する東映作品はこのあと十数本撮っている。錦之助の出演作はオールスター映画を含め、9本ある。
『唄しぐれ おしどり若衆』の音楽担当は、やはり万城目正だった。美空ひばりの初期のヒット曲「悲しき口笛」「東京キッド」「越後獅子の唄」「あの丘越えて」などの作曲も手がけ、『ひよどり草紙』の主題歌も彼の作曲だった。
 ひばりの映画といえば、歌が付きものである。『唄しぐれ おしどり若衆』でも、「母恋い扇」と「花のオランダ船」の2曲をひばりが歌う。どちらも作詞は石本美由起、作曲は万城目正だった。
 さて、映画の内容であるが、私はこの映画を見ていない。見たことのあるという錦之助ファンに話を聞いても、今はほとんど何も覚えていない。58年前に見た映画を覚えていないのは当然である。覚えているのは見たという事実と、錦之助の前髪若衆姿が美しかったということだけ。しかも、この映画は錦之助の出演作の中で現在見ることができない幻の一本でもある。
 仕方がない。データをもとに、どんな映画だったか書いておくことにしよう。

『唄しぐれ おしどり若衆』 
昭和29年5月3日封切 白黒スタンダード 94分
監督:佐々木康
原作:三上於菟吉「落花剣光録」(昭和4年)
脚本:西條照太郎、加藤泰
撮影:吉田貞次
美術:鈴木孝俊
音楽:万城目正
主題歌:「母恋い扇」 / 歌い出し「母の形見の帯しめて 踊る舞台に散る桜……」
挿入歌:「花のオランダ船」 / 歌詞一番「花の港の日暮れにともる オランダ船の吊りランプ 風に洩れくるカピタン唄は アムステルダム偲ばせる ああ偲ばせる」

配役:美空ひばり(山田雪路)、中村錦之助(指方龍之丞)、大友柳太朗(藤沢青鬼)、長谷川菊子(お澪)、西条鮎子(引手茶屋の女将お遊女)、星十郎(指方春之丞)、加賀邦男(山田主税)、原健策(柳沢主水守)、朝雲照代(お銀)、山茶花究(加賀爪甚内)、澤村國太郎(水野越前守)、堺駿二(源六)、六条奈美子(お澪の母)、高松錦之助(風笙斎)、鈴木弘子(娘あやめ)、浅野光男(将軍家慶)、香川良介(玄蔵坊)、団徳麿(藤井三助)、飯田覚三(木村喜八郎)、遠山恭二(青木平馬)


ポスター
コピー「唄と剣と人情 絢爛たる花のような魅力顔合せ」
出演者並び順 美空ひばり 中村錦之助 / 西条鮎子 長谷川菊子 朝雲照代 / 堺駿二 加賀邦男 山茶花究 原健策 沢村国太郎 / 大友柳太朗


中村錦之助伝~『唄しぐれ おしどり若衆』(その1)

2013-01-24 23:15:02 | 【錦之助伝】~『笛吹童子』前後
『笛吹童子』の第一部と第二部の出演シーンを撮り上げると、錦之助は、今度は『唄しぐれ おしどり若衆』の撮影に入った。『笛吹童子』の第三部完結篇の錦之助のシーンは、4月下旬にその合間を縫ってまたを撮影することになっている。錦之助は急に忙しくなった。4月はほぼ毎日、撮影が続きそうだ。これでやっと映画の世界にどっぷりと漬かって充実した仕事ができる。そう思うと、錦之助は嬉しくなって、よしやってやろうと意欲が湧いた。
『唄しぐれ おしどり若衆』は、美空ひばりと錦之助の共演第二作である。三上於菟吉の「落花剣光録」(昭和4年)が原作の仇討物だった。脚本は、同じ三上原作の東映作品『雪之丞変化』と同じくベテランの西條照太郎が、加藤泰と共同執筆した。企画は新芸術プロの福島通人と旗一兵で、『ひよどり草紙』と同じだったが、製作費は東映が持ち、配給も東映だった。5月のゴールデンウィークの本篇として娯楽版『笛吹童子』第二部と併映する予定になっていた。
 この映画は、美空ひばりの東映出演第一作でもあった。マキノ光雄が福島通人と会談して、新芸術プロから錦之助を借り受けると同時に、美空ひばりの東映出演の確約を取ったのだった。
 当時ひばりの他社出演料は映画1本につき250万円という高額だった。錦之助は恐らく50万円だったので、その5倍である。千代之介は月給(10万円)を別にして1本5万円だったので、ひばりはその50倍だった。この年(昭和29年)、美空ひばりは東映と年間3本の本数契約を結んだが、総額1千万円だったと言われている。マキノ光雄が「よっしゃ」と言って請合ったのだが、この金額を聞いて大川博社長は目玉をひんむいて驚いたという。そこをマキノがうまくまるめこんで、契約を取り交わしたのだが、結果的には次の年も含めて、錦之助、千代之介、橋蔵を売り出す上では、ひばりの貢献度は高く、十分採算が取れたと言えるだろう。新芸術プロにとっても専属の堺駿二、星十郎、山茶花究、そして昭和30年には大川橋蔵を東映に送り込むことができたのは大きかった。
 いちばんの誤算は錦之助だけだった。これは、『笛吹童子』と『おしどり若衆』が公開され、錦之助が一躍人気スターになった直後のことで、錦之助は新芸術プロと東映の両者から専属になってくれと話を持ちかけられ、綱引きされるように引っ張られたのである。錦之助を専属にしないで個人預かりにしていた福島通人はしまったと思ったが、後の祭りだった。結局、錦之助は絶好の条件で東映と専属契約を結んだ。錦之助自身も後年、新芸術プロが専属にしてくれなかったことが幸いしたと語っている。割を食ったのは、千代之介だった。彼は初めから東映と専属契約を結んだため、翌年になって出演料が1本10万円の倍額になったが、それでも安かった。千代之介は、ずっと東映に安い給料で酷使された。
『唄しぐれ おしどり若衆』の監督は、昭和27年夏に松竹大船から東映に移籍した佐々木康だった。