錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~転機(その2)

2012-11-05 00:01:23 | 【錦之助伝】~若手歌舞伎役者時代
 錦之助は叔父の勘三郎を大変慕っていた。勘三郎も錦之助のことを「錦ちゃん、錦ちゃん」と呼んで可愛がった。
 伯父の吉右衛門には神経質で気難しいところがあり、人を寄せ付けない威厳と頑固さがあった。吉右衛門は自由奔放で茶目っ気のある錦之助を子供の頃から可愛がり、彼のいたずらっぽさを楽しんでいるふしがあった。が、錦之助の方から見ると、尊敬する名優といった気持ちが抜けず、歌舞伎のことを気軽に尋ね、また教えてもらう相手ではなかった。錦之助は吉右衛門を敬して遠ざけているところがあった。
 父の時蔵は、吉右衛門と違って、新しいもの好きで、大変なせっかち、気さくで愛嬌もあったが、昔気質で頑固なところもあった。また、意識的に子供を突き放すところがあり、自分から進んで子供に手取り足取り教えようとはしなかった。吉右衛門と同じで、普段から人の芝居をよく観て、自分で芸を覚えろという伝統的な教授法を信奉していた。興行中何日か経ってから、錦之助の演技について気に入らない点があればチクッと一言、釘を刺す人だった。錦之助も直接父親に教わるのは気が向かなかったのであろう。
 それに対し、勘三郎はやんちゃ坊主がそのまま大人になったような人柄でざっくばらんだった。才気煥発で芸幅も広く、また、菊五郎や源之助といった今は亡き名優たちの演技を身体に記憶していて、教え上手でもあった。錦之助は勘三郎の家へよく教わりに行った。「紅葉狩」の山神や従者左源太をはじめ、若手歌舞伎や昭和28年の後半「子供かぶき教室」で錦之助がやった主要な役のほとんどは、勘三郎に教えてもらった。「勧進帳」の義経と富樫、「菊畑」の虎蔵実は牛若丸、「お祭」の鳶の頭、みなそうだった。また、これはずっと後年のことだが、映画『瞼の母』で錦之助が熱演した番場の忠太郎は、最初は勘三郎から教わったものだった。勘三郎は、錦之助を見込んで、「おれの役どころは錦ちゃんにやらせる」とまで口にしていたほどだった。

 昭和28年3月の大阪歌舞伎座でのことである。実川延若追善の東西合同歌舞伎で、東京からは時蔵一座に勘三郎が加わり、錦之助も随行した。種太郎、梅枝は襲名のこともあり、東京に残った。関西側は、寿海、寿三郎、鴈治郎、仁左衛門、延二郎、雷蔵など関西歌舞伎界のほぼ全員が揃った。錦之助は「土蜘」で巫女かつみ、「島鵆(しまちどり)」で鳥蔵の娘おはま、「先代萩」で局松島の三役、すべて女形だったが、どれもなかなか良い役であった。
 興行が始まって間もなく、勘三郎から、来月4月の歌舞伎座公演で錦之助に願ってもない大役の話が持ち出された。それは、山本有三作の「同志の人々」を自分の出し物としてやろうと思っているのだが、田中瑳磨介(さまのすけ)という役をやってみないかという話だった。4月の歌舞伎座は、種太郎改め歌昇、梅枝改め芝雀の襲名披露がある大事な公演である。兄二人には良い役がつくはずなので、錦之助にも良い役をやらせてやろうという勘三郎の好意だった。錦之助は勘三郎からその役柄について聞き、目を輝かせてオーケーした。
 「同志の人々」という芝居は、大正の末にに山本有三が書いた幕末物の新作歌舞伎で、是枝萬介田中河内介の二人の主役を菊五郎と吉右衛門が初演し、評判を得た名作だった。その後、昭和14年に勘三郎はもしほ時代に大阪で「同志の人々」を上演し、菊五郎の演じた是枝萬介をやっている。その時河内介は簑助だった。
 4月の公演では、これを勘三郎と幸四郎で再演しようというもので、錦之助に与えられた瑳磨介という役はこの二人に次ぐ重要な役だった。
 錦之助は勘三郎から台本をもらい、目の色を変えて読み耽った。
 薩摩藩の勤皇派の志士たちが、罪を着せられた同志の田中河内介・瑳磨介親子を護送船の中で処刑するように上から命じられ、志を果たすためには仕方がないという結論に達する。そこで、河内介を尊敬する是枝萬介がやむなく介錯役を買って出て、田中親子に対峙する。瑳磨介は憤り、父をかばって是枝萬介に立ち向かい、斬られてしまう。が、是枝萬介は河内介に討たれる覚悟だった。河内介はそれに気づき、潔く切腹する。いわば同志の内ゲバを描いたストーリーである。
 錦之助は感動した。そして、瑳磨介という役は自分にうってつけの役だと思った。叔父の勘三郎に体当たりする気迫で臨もう。錦之助は台本を何度も読んで研究した。勘三郎にもいろいろ教えてもらった。毎夜、芝居が引けると、遊びにも行かず、役づくりに励んだ。

 そして、大阪での興行が終わり、錦之助は勇んで東京へ帰った。
 本読み開始の前日のことである。勘三郎から思わぬ連絡が入った。「同志の人々」の瑳磨介役が急遽変更になったという知らせだった。勘三郎は、自分の出し物なのだからぜひ錦之助にやらせてくれ、さもなければ自分も降りるとまで言って頑張ったのだが、力及ばなかった。勘三郎は錦之助に何度も謝った。錦之助は軽い別の役に変わっていた。先輩役者との役のバランスからという理由だったが、松竹演劇部の幹部が決めたことで、錦之助は、軽く扱われたのだった。
 戦前のことだが、勘三郎はもしほ時代、一時東宝に移籍し、泣く泣く松竹に戻って、大阪に島流しになったことがあった。もしほから勘三郎を襲名したのも松竹の大谷社長の推挙によるもので、松竹に対しては恩義もあり、反逆できない弱みもあった。松竹の幹部が決めたことを覆すことはできなかったのだろう。
 錦之助は落胆すると同時に悔しさで歯ぎしりする思いだった。自分に対する評価はその程度なのか。兄二人の襲名披露公演で自分にチャンスもくれない松竹のお偉方たちの度量の狭さに腹が立ってたまらなかった。
 
 錦之助が歌舞伎界に見切りをつけて、映画界に入った最大の原因はこの事件だったと言う人がいる。歌舞伎界の裏事情をよく知っている劇評家の佐貫百合人は、「別冊近代映画 中村錦之助特集号」(昭和34年4月発行)に「錦之助の歌舞伎時代」という長文を寄せているが、その中で、この事件を紹介し、こう結んでいる。

 錦之助が、松竹から、これに気兼ねした父から、ともに「映画にでるなら二度と舞台を踏ませない」とまで、過酷な縁切状をつきつけられてなおひるまず、未知の世界にとびこんだのも、生来の負けず嫌いとともに、この時の無念さが貫いていたとみてよかろう。

 これは錦之助の本心を言い当てた言葉だと思う。叔父の勘三郎もずっと後々まで、錦之助が歌舞伎を辞めて映画界に入ったのは「同志の人々」のこの一件が原因だったと思い、錦之助に会うと必ず、「あの時はすまなかったね」と謝っていたという。
 しかし、錦之助はその著書の中で、これをきっぱり否定し、「ただ映画が好きだったから、誘われて映画界に入った」と言い、松竹を批判する発言は、一切漏らさずにいた。錦之助が頑ななまでに守ったポリシーは、絶対に人の悪口を言わないことだったが、世話になった会社の批判も公には一切言わなかった。漠然と一般論にぼかして、批判することはあったが、決して特定の名を挙げることはなかった。




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3 コメント

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「同志の人々」について質問です (歌舞伎ファン)
2015-07-05 21:50:02
ぶしつけな質問ですいません。
【昭和14年に勘三郎はもしほ時代に大阪で「同志の人々」を上演し、菊五郎の演じた是枝萬介をやっている。その時河内介は簑助だった。】という記述ですが、これは何月に大阪のどの劇場だったか、記録が残っているのでしたらその出典とともに教えていただけないでしょうか?
雑誌「演劇界」8月号で、演劇評論家の山田庄一先生が、戦前の大阪でもしほ・簑助の「同志の人々」を見た記憶があるが、「近代歌舞伎年表」に見当たらない、読者で知っている人があれば教えてほしいとおっしゃっています。具体的な記述があるのでしたら貴重な資料だと思います。
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ご質問の件 (背寒)
2015-07-06 21:25:20
十七世勘三郎の著書「自伝 やっぱり役者」の巻末にある舞台出演リストに「昭和14年5月、有楽座『同志の人々』是枝万介」とあります。また、小宮麒一編「配役総覧」にも記載があり、他の役、河内介=簑助も加えてあります。
しかし、有楽座は東京の劇場なので、大阪のどこで上演したかは不明です。勘三郎はこの頃、東宝劇団(第一次)に所属していたので、東宝系の劇場であることは間違いありません。たぶん、昭和14年4月か6月、大阪北野劇場ではないかと思いますが、不確かです。
実は、昭和14年頃もしほ時代の勘三郎が大阪で「同志の人々」をやったというのも、この2冊のほかに私が何を見て書いたのか記憶が定かではありません。この時は、いろいろな資料を読んで、それを総合して書いたのですが、ずいぶん前なので思い出せません。錦之助関係の本か雑誌だと思いますが…。ちょっと探してみましたが見当たりません。
ところで、「演劇界」には知り合いの編集者がいるので、今日連絡を取って、山田庄一氏の文章のことを尋ね、ご本人にお伝えするようにお願いしておきました。
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ありがとうございました (歌舞伎ファン)
2015-07-12 17:26:06
早速教えていただきましてどうもありがとうございました。「演劇界」の方に連絡まで取っていただいたとは驚いております。
その後私も調べてみました。近代歌舞伎年表大阪篇第九巻(八木書店)によりますと、昭和14年4月1日~23日の北野劇場は演目が不破数右衛門、勧進帳、官員小僧で出演は簑助、高麗蔵、駒之助、宗之助、芦燕、もしほ、一の宮敦子です。5月は歌舞伎の上演はありません。6月1日~25日は春秋座・東宝劇団合同公演ですが、簑助・もしほは出演していなかったようです。日本現代演劇史昭和戦中篇3(大笹吉雄著)によりますと、昭和14年5月の東京の有楽座での簑助、もしほらによる「同志の人々」は評判がよかったようです。
山田庄一先生がおっしゃっているように、大阪での歌舞伎としての「同志の人々」の上演記録はありません。自分で資料を調べてみてびっくりしたのですが、上演記録というのは結構きちっと残っているのものですね。大阪での上演記録が残っていないというのは、若手中心で1日だけ上演したとか、あるいは東京での上演を控えて予演会のようなかたちで演じられたものということはないのでしょうかね。
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