錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~『新選組鬼隊長』

2013-06-08 22:53:47 | お坊主天狗・新選組鬼隊長
 『新選組鬼隊長』のデータは以下の通りである。
 東映京都撮影所 白黒スタンダード 115分 昭和29年11月22日公開
 製作:大川博 企画:マキノ光雄、山崎真一郎、玉木潤一郎
 監督:河野寿一 原作:子母澤寛 脚本:高岩肇、結束信二 
 撮影:三木滋人 美術:鈴木孝俊 音楽:深井史郎
 (配役は省略する)

 子母澤寛の「新選組始末記」(昭和3年)は、小説ではなく、新選組に関わる人々や隊士と血縁のある人々にからの聞書をもとに資料を整理した一種のルポルタージュである。新選組の「選」の字は、「撰」も使うが、子母澤によると、当時の文書では両用していたので、どちらも正しいそうだ。また、近藤勇は、「いさむ」ではなく「いさみ」と読むべきだという。
 新選組がブームになったのは、昭和40年代で、現在でも新選組マニアが多いが、私はそれほど詳しくない。新選組にあまり興味もない。司馬遼太郎の「新選組血風録」「燃えよ剣」(ともに昭和39年刊)はずっと以前に読んだことがあるが、内容はほとんど忘れてしまった。栗塚旭が土方歳三をやったテレビドラマも時々見ていた程度である。当時は気づかなかったが、テレビドラマの「新選組血風録」と「燃えよ剣」は脚本結束信二、演出河野寿一であるから、二人が新選組物でコンビを組むのは、この『新選組鬼隊長』が原点になっていたわけである。
 映画では、ほかに加藤泰監督の『幕末残酷物語』と沢島忠監督の『新撰組』を私は近年見直したが、草刈正雄が沖田総司をやった映画は昔、封切りで観たきりである。

 さて、映画『新選組鬼隊長』は、原作が小説ではないため、脚色の段階でかなりフィクションを加えている。女性の登場人物はみな架空である。新選組を離脱して療養中であった沖田総司は、実際には近藤勇が死んですぐあとに亡くなるのだが、映画では近藤が二度目に沖田を見舞いに行くと病死していたことにしている。これはちょっと問題がある改ざんだと思う。それと、そもそも近藤勇は三十代、沖田は近藤より十歳年下の二十代初めであるから、錦之助は良いにしても、千恵蔵はこの頃五十一歳で近藤を演じるには老けすぎである。千恵蔵の近藤勇はこれが初めてで、その後また二度、近藤勇を演じるが、オジン臭くて、私はどうしてもいいとは思えない。また、沖田総司は実は美青年でもなかったという話で、小説や映画やテレビドラマでは沖田総司が薄幸の美青年になっているが、これもフィクションである。
 原作の「新選組始末記」は新選組の前身の浪士組の徴集から書き始め、清河八郎、芹沢鴨といった結成当初の中心人物にも触れているが、映画はこうした前半部を省き、池田屋襲撃から戊辰戦争を経て、武州流山における新選組の壊滅と近藤勇の投降と死までを描いたものである。つまり、新選組の衰亡のほうに力点を置いた。
 映画の題名にもある通り、主役は近藤勇である。したがって、千恵蔵の登場するシーンばかりが目立つ。クレジットタイトルでは、千恵蔵がトップに一人で出たあとに、錦之助、月形、千代之介が三人並んで出る。月形は伊東甲子太郎(かしたろう)の役で、途中で登場してすぐに殺されてしまう。千代之介は『雪之丞変化』でデビューしてからなんと24本も娯楽版中篇に出演していたが、これが初めての本編出演だった。徳川慶喜の役であるが、出番は2シーンしかなく、坐ったまま話して終わりだった。沖田総司の錦之助は、千恵蔵につぐ役であった。それと重要なのはやはり土方歳三の原健策で、あと目立つ役としては、新選組隊士では永倉新八の島田照夫、藤堂平助の堀雄二、山南敬助の加賀邦男、山崎丞の清川荘司、原田左之助の永井智雄である。

 後援会誌「錦」第6号(昭和29年12月発行)の巻頭言で、錦之助は『新選組鬼隊長』で演じた沖田総司について、
沖田総司の役で肺病におかされた感じを出す為随分苦労した積りでしたが、さて試写をみてガッカリ! 余り感心しませんでした。口の悪い茂兄さんなど『ぜんそくかと思った』にはギャフンでした
 文中の茂兄さんとは、次兄の茂雄(中村芝雀)のことだ。錦之助がこれを書いたのは11月20日ごろかと思われる。
 沖田総司の肺病というのは、江戸時代には労咳と呼ばれた死病で、近代医学では結核と名づけられ、治療法が発達して現代ではほぼなくなった病気である。労咳を病んだ人物で、悲劇のヒーローとして時代劇に登場するのは、平手造酒(みき)と沖田総司であろうが、映画で沖田総司を演じることなった錦之助は、労咳患者の咳の仕方や血の吐き方を真面目に研究した。映画を観る人は、労咳患者の咳の仕方など誰も知らなかったにちがいない。だから、何もそれほどリアルに演じることもなかったのだが、いい加減にやるということがこの頃の錦之助にはできなかった。錦之助は、労咳の感じをリアルに出そうと懸命になった。その頃上映されていた松竹映画『忠臣蔵』で毛利小平太に扮した鶴田浩二の咳の仕方が参考になると人から聞いて、三回も映画館へ通って勉強したほどだった。また、以前、沖田総司の役を演じたことのある原健策からも教わったという。
 「血が出る時はキャンキャンというほど高い調子で、ヘドを吐くように、ふだんのセキは軽くといったコツで演じました」(「あげ羽の蝶」)と、錦之助は苦心談を語っているが、結果的にはうまく行かなかった。今『新選組鬼隊長』を見ると、錦之助の沖田総司は咳き込んだり、血を吐いたりする場面が多すぎるような気がしないでもない。それだけ錦之助の沖田が登場する場面が多いので、仕方がないとも言える。沖田総司はこの頃の錦之助には適役だったとはいえ、映画を観ると決して上々の出来ばえとは思えない。近藤勇を先生と慕いながら、恋人にも誠意を尽くすといった一本気で単純すぎる人物像なのである。また、斬り合いの途中で、血を吐くので、殺陣(たて)のほうが中途半端になり、天才剣士と言われる沖田総司の剣の凄さが発揮されないまま終ってしまった。
 そして、錦之助の立ち回りは、この頃はまだ上手とは感じられない。良くないと思う点がいくつかある。まず、刀を持った時の構えが決まっていない。刀を振るスピードが速すぎるので、刀の重みが伝わらない。体勢を低くした時に腰が引ける。一番良くないのは、人を斬るたびに口を開けて、「エイッ」というような声を発することである。この癖が直るのは、ずいぶんあとになってからのような気がするが、今度確かめたいと思っている。
 立ち回りの時に、錦之助は千恵蔵から注意を受けた。それは、沖田は剣が好きな男なんだから、自分で斬り込んでいく気迫がこもらなければいけない、ということであった。
 錦之助の相手役は田代百合子だった。あぐりという名の娘である。これは架空の人物で、京都の医者の娘という設定になっていた。田代が恋人役になるのは、『お坊主天狗』に続いて二度目であるが、決死の覚悟で旅立つ錦之助を強引に引き留めるという田代の役どころは『お坊主天狗』と同じである。『新選組鬼隊長』では床に就いた錦之助を看病するが、のちにオールスター映画『赤穂浪士』で田代が錦之助の小山田庄左衛門の恋人役を演じた時も、似たような役どころだった。怪我をした小山田を看病するのは良いが、討ち入りへ行く小山田を必死で引き留めて、男子の本懐を遂げさせない。おとなしそうで恥じらいのある娘なのだが、一途に思う気持ちから最後は頑として意志を貫くので、男にとっては振り切るのに苦労する女である。



中村錦之助伝~『お坊主天狗』(その3)

2013-06-02 23:47:10 | お坊主天狗・新選組鬼隊長
 片岡千恵蔵は、『お坊主天狗』で錦之助と初めて共演して、すっかり錦之助が気に入ってしまった。演技も素直で、人間的にも素直で好青年だと思った。演技が素直だというのは、錦之助が歌舞伎界から来たのに変に固まっていないという意味である。歌舞伎役者は、小器用に段取りだけ覚えて、型にはまった芝居をすることが多いが、映画の世界ではこうした芝居は通用しないというのが千恵蔵の持論だった。映画では、役者が役の人物に成りきって演じないとリアリティ(実在感)がなく、観客に感動も与えられない。演じる役者が、その役の人物と一体となって、全身で表現することが重要である。それは、千恵蔵自身、歌舞伎役者から映画俳優に転じ、これまで数多くの映画で主演して来た経験から得た確信であった。錦之助は、若いにもかかわらず、この演技の根本が分かっていて、それを実践しようとしている。そのうえ、意欲も向上心も旺盛で、監督だけでなくスタッフや先輩俳優に教えを乞い、それを取り入れようと常に心がけている。その点でも錦之助は非常に素直で、千恵蔵は好感を持った。人気が出て、ファンが急増したのは錦之助にスターの魅力があるからである。が、これからは人気に負けないだけの実力を備え、代表作といわれるほどの作品を生まなければならない。千恵蔵は錦之助に、大きな期待を込めて、こんな激励の言葉を送った。

今の錦之助君は、見事に花咲いたところです。ところが花が咲いても、実を結ばなくてはなんにもなりません。大いに勉強して、立派な実をみのらすことを願ってやみません」(「平凡スタアグラフ」昭和29年11月発行)

 千恵蔵は自分の後継者に最もふさわしい若手は錦之助であると感じた。錦之助を東映の看板俳優に育てるだけでなく、これからの時代劇映画をになう看板役者に育てよう。そのためには自分も惜しみなく力を貸し、長年の経験から得たノウハウを錦之助に伝えてやろうと思った。千恵蔵は、同じ文章の中で「私たちが三十年間いろいろ苦労したエキスを注入してやれば、きっと錦之助君はますますよくなると思います」と語り、錦之助の更なる成長を望んだ。



 『お坊主天狗』のあと、千恵蔵は、『新選組鬼隊長』ですぐにまた錦之助と共演し、自分とがっぷり組んで芝居をさせる。千恵蔵の近藤勇、錦之助の沖田総司であった。
 そして、その二年後、『曽我兄弟 富士の夜襲』(昭和31年10月公開)では、千恵蔵が逆に助演にまわって、源頼朝を演じ、ラストで錦之助の曽我五郎と対決して、がっぷり四つの芝居をした。この頃の錦之助は、千恵蔵の期待した以上の成長ぶりで、演技力では千恵蔵に勝るとも劣らぬレベルに達していた。そして、役者としての魅力とスター性では千恵蔵をすでに凌駕していた。


中村錦之助伝~『お坊主天狗』(その2)

2013-06-02 22:10:28 | お坊主天狗・新選組鬼隊長
 『お坊主天狗』は錦之助にとって、次のような点で特別な作品であった。
一 撮影開始後に伯父吉右衛門が亡くなり、悲しみに暮れながらも頑張って撮ったこと。
二 超早撮りの渡辺邦男監督と初めて仕事をしたこと。ただし、錦之助が渡辺邦男監督作品に出演したのはこの一本だけだが、職人芸のような映画作りに舌を巻いたにちがいない。錦之助は、渡辺邦男からいろいろと有益なことを教わったと語っているが、その一つに、「セリフは口先だけじゃだめだよ。いいかい、セリフは眼でいうものだよ」と言われたことが、心に残る金言になったという。
三 片岡千恵蔵と初共演であったこと。千恵蔵と二人で芝居をする場面が多く、この作品での共演で、千恵蔵に好感を持たれ、以後錦之助はいろいろ千恵蔵から教えを受けることが多くなった。また、千恵蔵の戦前の代表作を錦之助が次々と主演していくことになる。
 そして、千恵蔵と錦之助が共演する場合の二人の役どころは、この作品で一つのパターンができ、その後の映画も三、四本はこのパターンを踏襲していく。つまり、千恵蔵が師匠ないし親分で、錦之助が愛弟子ないしは可愛い子分という関係である。『新選組鬼隊長』では千恵蔵の近藤勇に錦之助の沖田総司、オールスター映画の『仁侠清水港』では千恵蔵の次郎長に錦之助の石松である。
四 田代百合子が初めて恋人役になったこと。ただし、錦之助と田代は前篇から後篇の途中まではずっとレズビアン的な関係であった。お坊吉三は阪東小染が男であることをすぐに見抜くが、妹のおしゅん(田代)は、ぞっこん惚れた女役者の小染が男だということに気づいていない。後篇の途中で、小染が元服(?)して月代(さかやき)もまぶしい若侍に変身するが、おしゅんは彼を見て、あっと驚く。そして、男になった小染にもう一度惚れなおすのである。
五 錦之助はこれまでの映画の中でも三度ほど女形になったり女装したりしたことがあった。『花吹雪ご存じ七人男』では劇中劇で女形になって「藤娘」を踊り、『唄しぐれ おしどり若衆』では、花嫁に女装して悪旗本の屋敷へ乗り込んで立ち回りをやり、『里見八犬傳 暁の勝鬨』では、侍女に変装して浜路(田代百合子)の護衛をした。が、『お坊主天狗』では、最初からずっと女役者で、『雪之丞変化』の雪之丞のようなのである。つまり、女装が前篇全部と後篇の半ばまで続くわけで、セリフも女言葉であった。女形が嫌いだった錦之助は我慢して演じ続けたのではないかと思う。



 踊りの場面は前篇一回、後篇二回ある。前篇では、女役者の小染が若衆になり、おしゅん(田代)が娘になって二人で踊るが、あれは錦之助が名古屋山三で、田代が出雲の阿国だったように思うが、確かではない。後篇では、錦之助が女形と若衆になって違う場面で一回ずつ踊る。若衆姿は前篇と同じだった。振付は、藤間勘五郎。
 なお、『お坊主天狗』以後、錦之助が映画で女装して登場するのは、『勢ぞろい喧嘩若衆』の弁天小僧と、『羅生門の妖鬼』の小百合である。

 ところで、『お坊主天狗』は、もう映画館では見られない作品であり、ビデオ(またはDVD)にもなっておらず、東映チャンネルでも決して放映されない作品である。というのも、多分、東映に原版が残っていないと思われるからだ。しかし、『お坊主天狗』は、総集篇が16ミリフィルムで残っていて、私の知人がそれを所有しているので、現在はそれを観ることができる。前篇92分、後篇101分だったものを全部で約100分に縮約したもので、前篇を30分ほど、後篇を60分ほどカットしたと思われる。千恵蔵、錦之助、大友の登場する場面はほとんどカットしていないようだが、前篇では八汐路恵子、中村時十郎の登場する場面、後篇では宇治みさ子の場面を全部削除し、仇敵の一人島田照夫が殺される場面もカット。また、原健策(小猿七之助)、石井一雄(和尚吉三)、高千穂ひづるの場面もかなり切ったと思われる。
 では、なぜ、総集篇しか現在残っていないかを説明しておこう。『源義経 前後篇』も『新吾十番勝負 第一部第二部』も同じで、総集篇しか観ることができないのは、昭和30年代の東映の会社事情によるものである。また、これは東映に限らないことであるが、当時の映画会社(社長はじめ重役)に、映画を文化財として保存する意識が欠如していたこと、それとビデオの録画機材がまだ完備していなかったことが大きな原因である。とくに東映は、二本立て路線を敷き、さらに第二東映(ニュー東映)を作って量産体制に入ったため、頻繁に上映作品の穴埋めをしなければならなくなり、以前ヒットした作品のリバイバル上映を行なった。その時、前後篇から成る長尺の作品は、総集篇として一本にまとめて上映したのだが、原版のネガフィルムを使って編集したために(カットした不要なフィルムは廃棄)、元の二部作をポジに再プリントできなくなってしまった。そして、倉庫に残っていた二部作の上映用ポジフィルムも後年廃棄してしまったので、元の映画を永久に観ることができなくなってしまったわけである。
 調べてみると『お坊主天狗』は、昭和33年12月22日からリバイバル上映(併映作品は『月光仮面 サタンの爪』)されている。この時、総集篇を作ったのだが、クレジットタイトルの部分は作り直している。現在観ることのできる16フィルムは、この時の総集編のネガからプリントしたものなので、作り直したクレジットタイトルが付いているが、それを見ると、なんともいい加減で、あきれるばかりである。
 製作は大川博で良いのだが、企画に坪井與(与)と玉木潤一郎の二人の名前が書いてある。これが解せない。元の本編は、企画はマキノ光雄、企画補佐が山崎真一郎と玉木潤一郎だったはずである。マキノ光雄は昭和33年には亡くなっていたが、山崎真一郎はこの頃は東映東京撮影所長だったはずである。二人の名前をはずして、坪井與に変更したのは、『お坊主天狗』の映画製作時点でも彼が企画に携わっていたからなのだろうか。それとも昭和33年当時、企画本部長の職にあった坪井が総集篇を作るよう指示を出したからなのだろうか。
 それと、作り直したクレジットタイトルでひどいと思うのは、出演者の名前を大幅に少なくしてしまったことである。編集でカットした俳優の名前はもちろん出ていない。宇治みさ子は、ラストシーンでちょっとだけ顔を出すのだが、名前がない。八汐路恵子、中村時十郎は総集篇ではまったく登場しないので名前がないのは仕方がないにしても、坊屋三郎、山室耕、草間実、勝見庸太郎、時田一男、東龍子、赤木春恵たちは登場するのに配役に名前がないのは、おかしい。
 ともかく、東映の総集篇というのは、『お坊主天狗』だけでなく、『源義経』も『新吾十番勝負』も適当につなぎ合わせただけのやっつけ仕事で、製作スタッフや出演俳優への軽視もはなはだしく、また観客をなめている点では言語道断といった代物である。そして、大変な費用をかけ、スタッフや出演者が一生懸命に作った映画をズタズタに切り刻んで元も子もなくしてしまった点では、あまりにも愚かな行為だったと言わざるを得ない。



中村錦之助伝~『お坊主天狗』

2013-06-02 19:57:34 | お坊主天狗・新選組鬼隊長
 「お坊主天狗」は、子母澤寛(しもざわかん)が昭和29年3月から9月まで毎日新聞の夕刊に連載し、ちょうどその頃、好評を博していた新聞小説であった。新聞雑誌に人気作家の連載が始まると、映画各社で原作権の争奪戦が行なわれたが、東映が子母澤寛から映画化権を得たのは連載が始まって間もなくのことだったと思われる。戦後しばらくは連載物でも現代小説に映画の企画が集中していたが、この頃は時代劇映画の製作も盛んになり、時代小説の人気作家も戦前の時代劇黄金期のように大いに持て囃されるようになっていた。子母澤寛のほかにも、長谷川伸、吉川英治、大佛次郎、川口松太郎、村上元三、山岡荘八、山手樹一郎といった作家たちである。
 子母澤作品の映画化では、戦後は「千石纏」「御存じお役者小僧」「すっ飛び駕」「飛びっちょ判官」などがあるが、昭和30年代では勝小吉・麟太郎親子を描いた「父子鷹」がベストセラーで、これは市川右太衛門と北大路欣也(デビュー作)親子で映画化された。監督松田定次、脚本依田義賢、共演は長谷川裕見子、月形龍之介。『父子鷹』(昭和31年5月公開)は名作である。が、何と言っても一世を風靡したのは、子母澤寛が小説のタネを書いた随筆集「ふところ手帖」からヒントを得て、犬塚稔が創作を加えて脚色し、三隅研次が監督して映画化した『座頭市物語』(昭和37年4月公開)とそのシリーズであろう。


子母澤寛(1892~1968)

 戦前の子母澤作品では「弥太郎笠」(昭和6年)と「国定忠治」(昭和7~8年)が代表作である。そして、戦後はそのリメイクも盛んに行なわれるようになっていく。
 錦之助が主演した『唄ごよみ いろは若衆』も、子母澤の初期の作品「投げ節彌之」のリメイクで、林長二郎(長谷川一夫)主演ですでに戦前(昭和5年)に映画化された作品であった。また、子母澤のデビュー作は「新選組始末記」(昭和3年)だが、その本格的な映画化は、『お坊主天狗』に続く千恵蔵と錦之助の共演作『新選組鬼隊長』(昭和29年11月22日公開)である。つまり、錦之助は、昭和29年後半に子母澤寛原作の映画に三本出演したことになる。

 ところで、戦後の時代劇映画は、昭和28年頃から約10年間に大量に作られるが、時代劇映画の企画製作には五つのパターンがあった。錦之助出演作もこの五つのパターンのどれかに当てはまるので、カッコ内に代表例を二、三書いておく。
一 新作の連載時代小説の映画化。(『お坊主天狗』『源義経』『源氏九郎颯爽紀』)
二 旧作、おもに戦前の時代小説の名作のリメイク。(『弥太郎笠』『宮本武蔵』『瞼の母』)
三 歌舞伎、浄瑠璃、講談などの古典の映画化。リメイクも含む。(『忠臣蔵』『浪花の恋の物語』『あばれ纏千両肌』『一心太助』)
四 ラジオの放送劇からの映画化。(『笛吹童子』『紅孔雀』)
五 オリジナル脚本の映画化。(『恋風道中』『風と女と旅鴉』)
 ただし、原作の時代小説そのものが、歌舞伎や講談をネタにしていることも多い。また、映画の企画が先で、製作と並行して雑誌に連載した小説もある。

 「お坊主天狗」は、歌舞伎狂言の「三人吉三」をモチーフにしたもので、お坊吉三、お嬢吉三、和尚吉三を登場させているが、この三人の人物設定も性格付けもまったく変え、子母澤が新たに創作した時代小説だった。歌舞伎のほうは黙阿弥の白浪物(盗人が主人公の話)で江戸末期の退廃的な風潮を描いたピカレスク・ロマン(悪漢物語)。一方、「お坊主天狗」は、時代と舞台は同じでも、勧善懲悪のストーリーで、江戸下町のあぶれ者や庶民が活躍する仇討物である。原作はずいぶん前に読んだので、私の記憶も定かでないので、映画について述べたいと思う。
 主役はタイトルの通り、お坊吉三こと番匠谷吉三郎という直参旗本くずれの無頼漢。といっても、悪者ではなく、庶民の味方で、江戸下町の与太者や夜鷹などを統率する頭領である。これを片岡千恵蔵が演じる。錦之助は、お嬢吉三にあたる役で、女歌舞伎の座員で阪東小染という花形女役者(男の女形役者ではなく、女の役者として育てられた男)、実の名は柳谷吉三郎。そして、この二人の吉三郎がそれぞれ親の仇を狙って、互いに協力し合い、次々に仇討を果していくというのがメインストーリーである。もう一人の和尚吉三(石井一雄)は、快天というニセ和尚で、婦女をだまして布施を集める悪党だが、のちに改心する。この三人に三様の色恋がからみ、二人の吉三郎が仇討を遂げ、最後は三人とも好きな女と結ばれて、めでたしという幕切れ。錦之助の阪東小染は、お坊吉三の妹おしゅん(田代百合子)と相思相愛の末、ハッピーエンドとなる。
 出演者は、準主役の大友柳太朗が敵側の重臣で、悪漢の首領は月形龍之介、ほかに男優は、加賀邦男、原健策。女優陣では、花柳小菊、田代百合子、高千穂ひづる、喜多川千鶴、宇治みさ子、それに戦前の新興キネマのスター女優高山裕子(廣子から改名)が出演している。

 *『お坊主天狗』は、この8年後の昭和37年にカラーシネスコ版でリメイクされている。主役の番匠谷吉三郎は同じく千恵蔵で、お嬢吉三の小染は美空ひばり、そして、刀研ぎ師秋葉の役を大きく変え(前作では団徳麿)、これを大川橋蔵が演じている。そのため、和尚吉三は登場しない。また、大友柳太朗は前と同じ役であった。脚色は結束信二、監督は佐々木康だったが、なにしろ主役の千恵蔵が年をとってしまい、魅力も半減。しかも、小染が芸者で女のひばりでは原作の趣向が生かされず、興味も薄れた。芸者のひばりと偏屈者の刀研ぎ師の橋蔵が惚れた腫れたの関係になって面白くしようと狙ったのだが、これが裏目で、ここまで原作を捻じ曲げて失敗したのでは、リメイクした甲斐もなく、原作者の子母澤寛に顔向けできないような作品になっていた。



中村錦之助伝~悲しみを乗り越えて

2013-05-25 01:10:53 | お坊主天狗・新選組鬼隊長
 9月5日の朝、錦之助は変な夢を見て、目を覚ました。胸騒ぎがして、四谷の伯父吉右衛門のうちへ電話をかけた。病床にあった伯父のことが心配になったからだった。
 吉右衛門は七月の歌舞伎座公演を終え、その後は休暇をとって静養していたが、八月半ばから肝臓炎が悪化して寝込んでいた。八月末に杏雲堂病院に一時入院して、四日の夜に四谷の自宅へ帰っていた。
 電話に出た伯母の話では、昨夜は家へ帰って安心したらしく、ぐっすり眠ったし、変わったことはないということだった。
 錦之助は良かったと思い、撮影所へ向かった。
 『お坊主天狗』がクランクインして、その撮影中だった。
 子母澤寛の小説の映画化で、主役のお坊吉三は片岡千恵蔵。錦之助は阪東小染という女役者で、千恵蔵とは初共演だった。早撮りで有名な渡辺邦男がメガフォンを取り、前後篇の二部作から成る大作であった。前篇の公開予定が9月21日に迫り、あと十日で前篇を撮り終えなければならないといった切羽詰った状況であった。
 朝から撮影を続け、夜も追い込み撮影があって、錦之助がスタジオで自分の出番を待っている時だった。ラジオ京都の局員が息を切らせて、錦之助のほうへ駆け寄ってきた。
「吉右衛門丈が今日お亡くなりになりました」と彼は言った。
 錦之助は血の気が引いた。今にも気を失うかのように目の前が真っ白になった。局員から何かひと言と、マイクを向けられても胸が詰まって声が出なかった。
 吉右衛門の訃報は撮影所の所内にも広まった。
 初代中村吉右衛門 昭和29年9月5日午後2時52分、心臓麻痺で死去。享年68歳。

 千恵蔵の計らいで、錦之助は撮影を一日休ませてもらい、その日の夜行ですぐに東京へ帰った。列車の中では、伯父の思い出と悲しみが交互に湧いてきて、涙が止まらなかった。一睡もできなかった。
 翌朝、東京駅に着くと、すぐに四谷の伯父の家を訪ねた。
 吉右衛門は薄化粧をして美しい顔で寝ていた。紋服を着て、胸には文化勲章が飾ってあった。
 最後の言葉は、娘の正子に言った「あたしは寝ますよ。ほんとうに寝ますよ」であった。父時蔵も臨終の際にいて、あっという間に亡くなったという話だった。
 その日、錦之助は通夜を途中で抜け、夜遅く、飛行機で京都へ帰った。
 葬儀は翌々日の8日であったが、親族では錦之助だけが参列できなかった。
 錦之助は『お坊主天狗』の撮影に追われていたが、控え室やセットで一人になると急に悲しみが襲って来て、涙が溢れてならなかった。
「仕事をおろそかにして何です。役者なら役者らしくしなさい」という吉右衛門の叱声が聞こえて来た。錦之助は心を引き締め、崩れたメーキャップを直すと、真剣に仕事に打ち込もうとキャメラの前に立った。