加藤泰監督の映画『瞼の母』を見ていつも感服することは、ラストまでの持って行き方がなんてうまいんだろうということだ。それと、もちろん、あのラストがなんとも言えず素晴らしい。ラストまでの持って行き方、つまり、ドラマの運び方と映像的な構成がうまいからこそラストが引き立ち、これほどまで感動的な終わり方になったのだとも言える。しかし、その辺のことを述べると長くなるので、今回はラストに絞って書いてみたい。
『瞼の母』のラストシーン。夜明け前。跳ね橋につながる川沿いの道。
長谷川伸の原作戯曲では、戸田の渡しの近くになっているが、この映画では、お登世の許婚(伊勢屋の長二郎といい、河原崎長一郎が演じているが、原作にはない登場人物)のセリフにもあるように、三ノ輪から少し行ったところにしている。戸田の渡しというのは、荒川にあり、中仙道の板橋宿の先だから、料理茶屋「水熊」のある柳橋(神田川の下流で、隅田川と合流する手前)からは相当遠い。三ノ輪は下谷の先なので、隅田川に沿って数キロ北上したところだから、忠太郎の母おはまと妹お登世が駕篭でここまで追いかけてきたとしても、不自然ではない。
また、ラストを橋のある場所にしたのは加藤泰の創意である。彼は橋が好きで、彼の映画には橋がよく出て来る。そして、あの跳ね橋(可動開閉式の橋)は、江戸時代に隅田川にかかっていたのではなく、架空のものだと思うが、あの橋がすごく良い雰囲気を出している。スタジオに作ったセットであるが、美術デザイナーの稲野実さんの労作だ。錦ちゃんも大変気に入っていたという(稲野さんから聞いた話)。
さて、忠太郎が、橋の前後で待ち伏せしていた連中を斬り倒したあと、追いかけて来た母と妹(その許婚もいる)を見て、木陰に身を潜める。ここから、エンドマークが出るまでの約5分間が見どころである。
提灯を持って先頭を行く許婚(河原崎長一郎)が「忠太郎さん!」と呼ぶ。妹のお登世(大川恵子)も「にいさん!にいさん!」と声を上げる。
駕籠から降りた母おはま(木暮実千代)が、「縁がないってものは、こんなものなのかね。わたしが悪かったよ。わたしが悪かった」
お登世「なんだかこのあたりに忠太郎にいさんが居るような気がする」
おはま「忠太郎!忠太郎!」。
そう呼ぶのを聞いて、忠太郎は感極まり、合羽で顔を覆い、「おっかさん……、妹……」とつぶやき、涙を流す(錦ちゃんのバストショット)。これは嬉し涙である。冷たくあしらわれ追い返されとき、自分を愛していないと思った母親が今、心を込めて自分の名を呼んでいる。初めて会った妹も可憐で、なんと思いやりのある娘なのか。妹の許婚も気の優しい男のようだ。
だが、忠太郎は飛び出していきたい気持ちを抑え、ぐっと堪える。暖かい家族の輪に加わりたいが、やくざで人殺しの自分にはできない。今の忠太郎はこれをはっきり自覚している。忠太郎はまた涙を流す(錦ちゃんのアップ)。これは悔しさと悲しみの涙である。
母と妹と許婚があきらめて去っていく。
木陰から飛び出そうと立ち上がる忠太郎。が、踏みとどまって、三人を見送る。
ここで忠太郎の特大アップ。やや仰角で錦之助の左顔方向の眉から口元までが映し出される。頭も顎も切れている。加藤泰はここそとばかり、忠太郎の万感胸に迫る思いをこのクロースショットで表わし、見る者を引っ張り込む。忠太郎は母たちをじっと見送ると目を上げ、瞼を固く閉じる。頬に伝わる涙。錦之助最高の感情表現の演技(いや、演技を越えた迫真の表情と言うべきか)であり、加藤泰監督の会心のカットである。この特大アップに、この映画のすべてが凝縮されている、と私は思う。
忠太郎の見た目で三人が去っていくショットをはさみ、最後にロングショットで橋を渡って行く忠太郎の姿をシルエットで映す。木下忠司のテーマ曲が高鳴り、左下にエンドマーク。
蛇足だが、忠太郎はこのあと、どのように生きていくのか?
忠太郎に橋を渡らせたということは、別世界への旅立ちを暗示している。ただ、この別世界がどういうものなのかは不明である。旅人やくざを続けるのか、どこかに腰を落ち着けて真人間になるのか。この映画は、何も示唆せずに終わっている。人生そんなもので、将来何が起こるかは神のみぞ知る、誰にもわからない。そういう終わり方もまた良いのだと思う。
『瞼の母』のラストシーン。夜明け前。跳ね橋につながる川沿いの道。
長谷川伸の原作戯曲では、戸田の渡しの近くになっているが、この映画では、お登世の許婚(伊勢屋の長二郎といい、河原崎長一郎が演じているが、原作にはない登場人物)のセリフにもあるように、三ノ輪から少し行ったところにしている。戸田の渡しというのは、荒川にあり、中仙道の板橋宿の先だから、料理茶屋「水熊」のある柳橋(神田川の下流で、隅田川と合流する手前)からは相当遠い。三ノ輪は下谷の先なので、隅田川に沿って数キロ北上したところだから、忠太郎の母おはまと妹お登世が駕篭でここまで追いかけてきたとしても、不自然ではない。
また、ラストを橋のある場所にしたのは加藤泰の創意である。彼は橋が好きで、彼の映画には橋がよく出て来る。そして、あの跳ね橋(可動開閉式の橋)は、江戸時代に隅田川にかかっていたのではなく、架空のものだと思うが、あの橋がすごく良い雰囲気を出している。スタジオに作ったセットであるが、美術デザイナーの稲野実さんの労作だ。錦ちゃんも大変気に入っていたという(稲野さんから聞いた話)。
さて、忠太郎が、橋の前後で待ち伏せしていた連中を斬り倒したあと、追いかけて来た母と妹(その許婚もいる)を見て、木陰に身を潜める。ここから、エンドマークが出るまでの約5分間が見どころである。
提灯を持って先頭を行く許婚(河原崎長一郎)が「忠太郎さん!」と呼ぶ。妹のお登世(大川恵子)も「にいさん!にいさん!」と声を上げる。
駕籠から降りた母おはま(木暮実千代)が、「縁がないってものは、こんなものなのかね。わたしが悪かったよ。わたしが悪かった」
お登世「なんだかこのあたりに忠太郎にいさんが居るような気がする」
おはま「忠太郎!忠太郎!」。
そう呼ぶのを聞いて、忠太郎は感極まり、合羽で顔を覆い、「おっかさん……、妹……」とつぶやき、涙を流す(錦ちゃんのバストショット)。これは嬉し涙である。冷たくあしらわれ追い返されとき、自分を愛していないと思った母親が今、心を込めて自分の名を呼んでいる。初めて会った妹も可憐で、なんと思いやりのある娘なのか。妹の許婚も気の優しい男のようだ。
だが、忠太郎は飛び出していきたい気持ちを抑え、ぐっと堪える。暖かい家族の輪に加わりたいが、やくざで人殺しの自分にはできない。今の忠太郎はこれをはっきり自覚している。忠太郎はまた涙を流す(錦ちゃんのアップ)。これは悔しさと悲しみの涙である。
母と妹と許婚があきらめて去っていく。
木陰から飛び出そうと立ち上がる忠太郎。が、踏みとどまって、三人を見送る。
ここで忠太郎の特大アップ。やや仰角で錦之助の左顔方向の眉から口元までが映し出される。頭も顎も切れている。加藤泰はここそとばかり、忠太郎の万感胸に迫る思いをこのクロースショットで表わし、見る者を引っ張り込む。忠太郎は母たちをじっと見送ると目を上げ、瞼を固く閉じる。頬に伝わる涙。錦之助最高の感情表現の演技(いや、演技を越えた迫真の表情と言うべきか)であり、加藤泰監督の会心のカットである。この特大アップに、この映画のすべてが凝縮されている、と私は思う。
忠太郎の見た目で三人が去っていくショットをはさみ、最後にロングショットで橋を渡って行く忠太郎の姿をシルエットで映す。木下忠司のテーマ曲が高鳴り、左下にエンドマーク。
蛇足だが、忠太郎はこのあと、どのように生きていくのか?
忠太郎に橋を渡らせたということは、別世界への旅立ちを暗示している。ただ、この別世界がどういうものなのかは不明である。旅人やくざを続けるのか、どこかに腰を落ち着けて真人間になるのか。この映画は、何も示唆せずに終わっている。人生そんなもので、将来何が起こるかは神のみぞ知る、誰にもわからない。そういう終わり方もまた良いのだと思う。