錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『宮本武蔵』(その六)

2007-03-30 19:28:28 | 宮本武蔵

 ところで、宮本武蔵は、プラトニック・ラブを貫いた男だったと私は思っている。これは無論、吉川英治の描いた宮本武蔵について言っているのだが、この小説は、武蔵とお通の相思相愛にしてすれ違いの物語でもある。前にも述べたように、タケゾウの初恋の相手はお通さんだったことは明らかである。お通さんも本当はタケゾウが好きだったのかもしれない。ただ、又八の許婚となって、無意識のうちにその気持ちを押さえていたようにも思われる。お甲と又八から手紙をもらい、お通さんは部屋にこもって悔し泣きをするが、沢庵和尚に慰められて、気持ちが固まる。杉の大木にくくりつけられたタケゾウを見ているうちに、憐れみと同情が強い恋心に変わっていく。原作では、お通さんが杉の大木に抱きついているうちに、タケゾウを頼る気持ちが募って、タケゾウを好きになり、タケゾウを逃がしてやろうと思うと同時に、自分もタケゾウに付いていこうと決意を固めることが書いてある。タケゾウはもともとお通さんが好きだったから、二人が寄り添いあって村を逃げ出すのも当然だった。お通さんはこの逃避行からタケゾウを一途に思う強い女に成長していく。
 峰の頂でタケゾウとお通さんはいったん別れて、姫路城下の花田橋で再会を約束し合うが、その時のお通の言葉はぐっと胸に迫るものがあった。「待っています、たとえ百日でも千日でも!」
 花田橋の場面は、『宮本武蔵』第一部と第二部に出て来るが、なんとも切なくて、私が目頭を熱くする場面である。お通さんは花田橋のたもとの店で働きながら、タケゾウを三年近くも待っているのだ。本当に心の強い女である。花田橋は二人の心の架け橋だったはずだった。それなのに……タケゾウは武蔵になってとりあえず再会する約束だけは守るが、勝手なものだ。武者修行を決意したために、すがり付くお通を振り切って一人旅立ってしまう。「ゆるしてたもれ」と橋の欄干に書き残して黙って去って行くとは、ひどい男だ。だが、そうしなければ剣豪宮本武蔵は生まれないし、物語もドラマも成り立たないのだから仕方がない。
 『宮本武蔵』を観ていると(原作を読んでも同じである)、武蔵がなぜあんなに好きなお通さんを袖にするのか歯がゆい思いを感じる。お通さんは、武蔵のことをあんなに慕い、たとえ地の果てまで追いかけていこうとするのに、である。確かに、武蔵は剣の修業のため、そして同時に人間を磨くため、女への恋心を抑えに抑えている。時々、お通に会うと、その気持ちがあふれ出て、抑えきれず、お通を抱きしめたりするのだが、すぐに「許せ」と言って、お通を振り切ってしまう。「お通さんが好きだ」と愛の告白を武蔵がする場面があるが、好きなのにどうにもできない苦しさに武蔵はいつも付きまとわれている。
 その点、又八のほうが、素直である。又八は武蔵にとって反面教師なのである。又八は、お甲の誘惑に負け、お甲と駆け落ちしたがために人生の道を踏み外し、お甲のヒモになってしまう。結局お甲に捨てられ、又八は武蔵に負けず自分も出世しようとするが、うまく行かない。最後は朱美と再会し、夫婦になって、子供を作る。彼は、剣の道に入ることもなく、出世もしないが、幸福を得る。
 第五部完結篇の終わりで、又八と武蔵を見ると、武蔵の方が不幸になっている。ラスト・シーンで、佐々木小次郎と対決する前に、武蔵はお通さんが自分の妻であることを認めるが、あくまでも心の妻にすぎない。本当の夫婦になれたのか、なれなかったのかは分からないままの結末になっている。きっと武蔵は小次郎に勝っても、お通さんを伴わず、一人で放浪の旅を続けていくにちがいない。やはり『宮本武蔵』は、永遠のプラトニックラブ・ストーリーだったのだろう。(つづく)



『宮本武蔵』(その五)

2007-03-30 19:24:34 | 宮本武蔵
 沢庵和尚がタケゾウを縛って村へ連れて行き、寺の境内で衆議にはかりタケゾウを千年杉の幹に吊り下げるまでのシーンは、まるで法廷ドラマのようだった。タケゾウが犯人で、沢庵和尚が裁判官、お通さんが犯人に同情的な弁護人か陪審員とでも言ったらよいか。この三者に加え、お杉ばあさんが死刑判決を望む検察官、青木丹左衛門が警察署長、村人達が傍聴人みたいにも思えた。
 タケゾウが千年杉に吊り下げることに決まったあとの画面展開が速かった。急にスピード感が増し、伊福部昭の音楽もそれをあおるかのように威勢が良くなった。彼の音楽は、『反逆児』も『ちいさこべ』もなんだかいつも似たような悲壮なメロディーで、悲劇的なストーリーには良いが、『宮本武蔵』のような作品にはマッチしなかったと思う。第二部「般若坂の決斗」からは音楽が小杉太一郎(男優小杉勇の息子で、伊福部昭の音楽上の弟子)に変わるが、彼の音楽の方が勇ましくて良かったと私は感じている。
 千年杉に吊り下げられてからの錦之助のタケゾウがすさまじかった。わめいたり、毒づいたり、弁明したり、錦之助、迫真の演技である。なにしろ錦之助は高所恐怖症なのに、太い綱でぐるぐる巻きにされた上にあんな高い所にぶら下げられたのだから、たまったものではない。高さ15メートルくらいあったであろうか。その上、大雨まで降ってきてびしょ濡れである。裏話によると、オープンセットに、寺の一部を建設し、あの杉の木はコンクリートの柱を立てて、樹皮や枝を接合して作ったとのことだ。雨はホースか何かで水をばら撒いたのであろう。それにしても、ひどい拷問である。「役者はつらいよ」だ。きっと錦之助は、沢庵和尚や村人ではなく、内田吐夢監督や映画のスタッフを罵っていたのであろう。後年錦之助は本当に恐かったと述懐している。
 タケゾウと沢庵和尚のやり取りが、実に面白かった。錦之助と三国連太郎という世紀の二大役者の見せ場である。この二人は、映画では『宮本武蔵』のほかに『風と女と旅鴉』と『真剣勝負』で共演しているが、両者とも役に成りきってしまう徹底ぶりなので、最高のコラボレーションを繰り広げる。杉の幹にぶら下げられたタケゾウは、高い所から沢庵和尚を見下ろしているのだが、縛られているので手も足も出ない。いや、足だけは出してバタつかせながら、罵倒したり、言い訳を言ったりするのだが、沢庵和尚はタケゾウの方を見上げながら、あざ笑う。軽くいなしたり、諭したり、反駁したり、憎憎しいほどなのだ。「オレは天に恥じることはない!」というタケゾウの言葉に、沢庵和尚が痛罵を浴びせる。「おまえのしたことは、すべてが誤りだらけではないか。おまえの性根が問題だ!」
 タケゾウは沢庵和尚に口では勝てない。傍で聞いていたお通さんが、「ひどすぎます。無慈悲です」と泣きながらタケゾウを憐れむのも当然である。お通さんは優しい人だ。雨が降っているのに、杉の木に抱きついて、タケゾウのことを思いやる。そしてとうとう寝込んでしまう。「タケゾウさん」とうわごとまで言うようになる。お通さんはもうタケゾウが好きになっている……。(つづく)



『宮本武蔵』(その四)

2007-03-30 11:10:58 | 宮本武蔵
 タケゾウが死線をくぐって故郷の村へ帰って来たのは、お通さんに一目会いたかったからだ。関が原は現在の岐阜県南西端にあり、故郷のある美作(みまさか)の国は岡山県北部であるから、落ち武者となって飢えをしのぎながら、かなりの距離をテクテク歩いて帰って来たのだろう。タケゾウは、村の近くの検問所を突破し、役人を撲殺したためお尋ね者になってしまうが、村に忍び込んでまず真っ先にお通さんの様子をうかがいに寺へ行く。お杉ばあさんに又八が無事であることを告げることも、心配しているたった一人の姉に会うことも、村に帰った目的ではあったが、タケゾウはどうしてもお通さんに会いたかったのだと思う。
 故郷の村では、青木丹左衛門(花沢徳衛)配下の取り締まりの役人たちに追われ、村人たちの冷たい仕打ちに会って、タケゾウの心は傷つき、猛り狂う。お杉ばあさんにも騙され、姉は捕縛されてどこかに幽閉されたことを知り、タケゾウは、凶暴な狼のように暴れ回り、はからずも罪に罪を重ねてしまう。
 山の中に逃げ込み、タケゾウは叫ぶ。「オレは獣(けだもの)じゃないぞー!」
村人はみな自分を厄介者扱いし、誰も自分のこと分かってくれない。そんな絶望的な叫び声である。そのやるせなさ、無念さで心をいっぱいにして、食べ物にも愛情にも飢えたタケゾウは山の中をさまよう。
 
 沢庵和尚(三国連太郎)とお通さん(入江若葉)がたった二人だけでタケゾウを捕らえるため山に登るところからが、『宮本武蔵』第一部後半の文字通りの「山場」であった。ここから、最後にお通さんが千年杉に縛られたタケゾウを救って、一緒に村を逃げ出すまでの40分あまりは、まさに息もつかせぬ面白さで、映画の醍醐味がたっぷり詰まっている。この部分は何度観てもスゴイと思う。
 まず、沢庵和尚とお通さんが山の中腹で焚き火をし、鍋で雑炊を作り、語り合いながらタケゾウが姿を現すのを待っているシーンがあるが、内田吐夢の演出は心憎いほどうまい。離れた向こうから二人の様子をうかがっているタケゾウのカットを時折入れているので、観客にはタケゾウが立ち聞きしているのが分かっている。が、観ているうちにわれわれ自身が徐々にタケゾウの身になって耳をそばだてるように仕向けられていく。カメラを固定し、沢庵和尚とお通さんの二人のショットをタケゾウの視点から長回しで撮っているから、観客もタケゾウと一体化したような気になって来るわけだ。
 「あなたはタケゾウさんを憎みますか」というお通さんの問いかけに対し、それに答える沢庵和尚の厳しい言葉が胸に響く。「憎むとも!生命を無価値に見なすような男を野に放っておけるものか!」と急に怒ったように語気を荒らげて言うので、観ているこっちも心臓が縮まる。この生臭坊主、どうするつもりでいるんだ、と思ってしまう。

 三国連太郎の沢庵和尚は憎たらしいほどうまく、完全に役に成りきっている。生臭坊主なのか、名僧なのか、ともかく一癖も二癖もある得体の知れぬ怪僧ぶりなのだ。三国の演技力は抜群である。
 入江若葉は当時新人で芳紀十七歳、ご存知のように大女優入江たか子の娘である。祖父は貴族院議員の東坊城(ひがしぼうじょう)子爵で、いわば血統書付きのお嬢様だった。内田吐夢に請われて映画デビューしたわけだが、期待にたがわぬ好演だった。もちろんセリフ回しにたどたどしさはあるものの、一生懸命演じているのに自然体な感じで、純粋さがにじみ出ていた。ういういしい魅力にも溢れ、心根も優しそうで、入江若葉のお通さんを好きにならない男はいないはずだと思う。

 戻って、さきほどのシーンの続きだが、思わず笑ってしまう箇所もある。沢庵和尚がすでにタケゾウがそばに来ていることを確信しているかのように、「今そこらあたりで、疑心暗鬼に惑うて、卑屈な目を輝かせているかもしれぬ」と言う。するとすぐにタケゾウのカットが入り、錦之助が本当に疑り深く卑屈な目を輝かせた表情をしているのが面白い。
 次にお通さんが笛を吹く。ここはたっぷり一曲演奏し終わるまで映し出す。斜め横から撮ったお通さんの笛を吹くアップが良い。入江若葉のなんと可憐なことか!観客もタケゾウと同じ気持ちになって笛の音に耳を澄ませ、お通さんの表情をうっとり見とれてしまわずにはいられない。タケゾウはだんだん近寄っていく。
 このあとの演出も細かい。「そこのお人!」という沢庵和尚の呼びかけに、呆然と突っ立っていたタケゾウは、あわてて草むらに首を引っ込める。この短い挿入カットがまた観客を笑わせる。タケゾウが逃げ出そうとすると、沢庵和尚が大声で「待て!」と一喝。するとタケゾウが動けずに固まってしまう。「こっちへおいで」という沢庵和尚の優しい誘いに、どうしようかと迷ったようなタケゾウの表情が映し出され、やっと焚き火のそばへやって来る。
 タケゾウはお通さんの側にちょっと離れて座り、両手を伸ばし火にかざして暖める。そして、お通さんがよそおってくれた雑炊をフーフー吹きながらかっ食らう。あっという間に一杯目を平らげ、もう一杯お代わりして食べると、タケゾウはやっと人心地がつく。横では沢庵和尚が「ん、うまい」と言って(コマーシャルにも使えそうなほど実感がこもっていた)、雑炊をゆっくり味わいながら食べ、食べ終わるとお椀をきれいに舌で舐めている。箸もしゃぶる。この場面は、錦之助と三国連太郎の雑炊の食べ方の競演なので、お見逃しなく!
 さて、ここまで錦之助のタケゾウのセリフはまったくなく、表情と動作だけの演技だったが、セリフがなくても錦之助は見せてくれる。ここで初めて言葉を発する。「お通さん、ここへ何しに来た?」お通さんはドキッとして黙ってしまう。沢庵和尚がきっぱりと言う。「実はのー、おぬしを召し捕りに来たのじゃ!」(つづく)



『宮本武蔵』(その三)

2007-03-26 16:03:17 | 宮本武蔵
 武蔵(タケゾウ)も又八も心の弱さを持つ人間である。この点はいみじくも沢庵和尚の言葉がずばりと言い当てている。「人間の心はよわーいものだ。決して孤独が本然のものではない」と。
 タケゾウは、闘争心によって内面的な心の弱さを克服しながら生きている。暴れん坊だが、本当は寂しがり屋で、愛情に飢えた孤独な若者である。こうしたタケゾウを錦之助は実に魅力たっぷりに演じている。野性的で荒々しいが、その半面、優しさとナイーヴさも備えているのが錦之助のタケゾウである。もちろん、人間的に成長した後年の宮本武蔵を演じた錦之助も素晴らしいが、タケゾウの中にも錦之助という役者の「剛と柔」をあわせ持つ優れた特質が十二分に発揮されていた。それを見逃してはならないと私は思う。
 一方、又八は、心の弱さに負け、年上の女の色情に溺れながら、転落していく。又八には、故郷の村に年老いた母親(お杉ばあさん=浪花千栄子)と可憐な許婚(お通=入江若葉)が居る。それなのに、後家のお甲の誘惑に負け、自らの性欲を衝動的に満たしたがために、人生の道を踏み外してしまう。ウジウジしたヤサ男の又八を演じた木村功がまた何とも言えず良く、悲哀さえ感じる好演だった。

 『宮本武蔵』第一部は、主要人物の登場のさせ方が手際よく、映像的に人物たちの性格と特徴を実にうまく描き出していく。最初の30分で、タケゾウ、又八のほかに、朱美、お甲、お通、お吟(タケゾウの姉)、お杉ばあさん、沢庵和尚らが一目瞭然、個性豊かに紹介される。第一部の脚本は、成沢昌茂と鈴木尚之の手によるものだが、この俊英と新鋭二人のシナリオライターの力を借りて、内田吐夢の演出は冴え渡っている。とくに、木暮実千代のお甲が又八の負傷した足に焼酎を吹きかけ、口で膿んだ血を吸う場面は、鮮烈極まりない。この部分は原作にはないのだが、映画独特の直截で見事な描写とでも言おうか。この映画で最もエロチックなシーンでもあった。色気たっぷりで欲求不満のお甲が、童貞の又八を犯すのである。若い男の足の血を吸っているうちに、お甲が発情していく様子がすさまじく、木暮実千代が私にはまるでカマキリの雌に思えたほどだった。その後、空に浮ぶ雲のカットがあり、それにお甲の満足したような高笑いがかぶって、野原にしどけなく寝そべっているお甲の姿が映し出される。カメラが右へパンすると、しょんぼり立膝をついて坐っている又八の姿がある。この一連のシークエンスは鮮やかで、内田吐夢の面目躍如といったところであろうか。
 次に続くシーンは、朱美(丘さとみ)とタケゾウの川辺での語らいの場面である。タケゾウは可愛い朱美と二人だけになるのだが、ここは青春純愛ドラマといった感じだ。錦之助と丘さとみの息の合ったやり取りがほほえましい。土手に寝ころんだタケゾウの横へ朱美が寄り添って、会話を交わし、最後に朱美がこんなカマをかける。「ねえ知ってる、私のオムコさん?」タケゾウは「知るもんか、そんなこと!」と無愛想に答える。「安心しなさい。タケゾウさんじゃないから!」このセリフを言うときの丘さとみの可愛らしさは、なんとも言えない。朱美に笑いながら皮肉を言われ、タケゾウは沈黙してしまう。女にウブなタケゾウとちょっとおマセな朱美のこのシーンは、お甲と又八のセクシャルなシーンとは対照的なだけに、ういういしく清新な印象を与える。

 タケゾウは、獣性と人間性が未分化で、それを自覚反省する心も持たずに生きている。だから、相手が敵と見れば、動物的な闘争本能をむき出しにして闘う。お甲の家が、野武士の一党に襲われた時に、木刀を振り回して野武士たちを叩き殺すタケゾウは闘争本能のかたまりである。最後は、野武士の頭領(辻風典馬=加賀邦男)を馬で追いかけ、後頭部に一撃を加え、馬から落ちたこの男を乱打して殺す。敵を打ち倒した時に、タケゾウは勝ち誇ったように、喜々として大声で笑う。ここらあたりの描写も強烈で、迫力満点だった。
 さて、これほど動物的な闘争本能を持っているタケゾウが、女にはオクテなのは一体どうしたわけなのだろうか。それは、タケゾウにとってお通さんが初恋の相手であり、永遠の恋人だったからにちがいない。この辺の事情は原作には書かれていないが、私の勝手な推測である。お通は、村のお寺に捨て子同然に預けられた可哀想な娘で、タケゾウはきっと幼い頃から、孤児のお通さんに、知らず知らずのうちに恋慕の情を寄せていたのだろう。彼女がどういう訳で本位田(ほんいでん)家のお杉ばあさんに見込まれ、息子又八の許婚になったかも不明であるが、タケゾウはお通への気持ちを抑え、叶わぬ恋と諦めていたはずである。それが、又八がお甲と朱美と一緒に姿をくらました時点で情況は一変する。
 タケゾウは大声で叫ぶ。「又八のアホー!お通さんをどうする気だ!お通さんをどうするんだ!」ここが第一部前半のドラマのクライマックスである。(つづく)



『宮本武蔵』(その二)

2007-03-24 21:30:02 | 宮本武蔵
 今回『宮本武蔵』五部作のDVDを二周り観てから、さらに第一部を二度観て、今私はこの記事を書こうとしている。つまり、3月に入ってから、第一部を合計四度観たことになってしまった。映画を観るとどうしても吉川英治の原作がまた読みたくなるものだ。そこで、書庫の奥にしまっておいた三巻本のこの原作を引っ張り出し、三十数年ぶりで読み始め、四分の一ほど読んだ。吉川英治の『宮本武蔵』を読むのは今度が三度目であるが、面白くてぐいぐい読んでしまう。今のところ、武蔵が柳生の里を訪れる所まで読んだわけで、映画で言うと、第三部の「二刀流開眼」の途中までに当たる。
 ついでにと言ってはなんだが、三船敏郎主演、稲垣浩監督の映画『宮本武蔵』三部作(昭和29、30、31年)もまた観たくなって、先日ビデオで久しぶりに再見した。さらに、片岡千恵蔵の戦前の『宮本武蔵』(昭和15年、同じく稲垣浩監督作品)もビデオを購入し、参考までに観てみた。その間、司馬遼太郎の『真説宮本武蔵』と津本陽の『宮本武蔵』や雑誌の「宮本武蔵特集」も読んでいるので、今もう頭の中は宮本武蔵だらけになっている。ブログの記事もずいぶん間が空いてしまったが、これだけ「武蔵漬け」になっていると、頭が混乱し何を書けばよいのか途方に暮れてしまうが、やはり語りたいと思うのは、内田吐夢監督、錦之助主演の『宮本武蔵』五部作のことである。まず、最近四度も観た第一部から書きたいと思う。
 ご存知のように、『宮本武蔵』第一部は、武蔵がまだ「タケゾウ」と名乗っていた頃の話で、剣の道を志し人間修養に励む武蔵の剣客時代の姿を描いたものではない。いわば、「その前の武蔵」を描いたプロローグである。が、私はタケゾウ時代の武蔵と彼を取り巻く人間模様に人一倍の興味を覚える。吉川英治の原作も、内田吐夢の映画も、作品的な素晴らしさの原点はここにあると思っている。武蔵が単に剣豪のヒーローとして、前に立ち現れる強敵を次々と斬り倒していくだけでも確かに痛快至極であるにはちがいない。が、それだけでは人間的なドラマも生まれなかっただろうし、文学的な感動も映画的な感動も味わえなかったと思う。吉川英治の『宮本武蔵』は、剣豪小説というより、青春ロマンであり、人間形成をテーマにした教養小説の傑作である。そう思って私は原作を愛読している。そして、内田吐夢が映画化した『宮本武蔵』五部作も、チャンバラ娯楽時代劇というより、人生の矛盾に立ち向かう青年の苦悩を描いた人間ドラマの大作として私は鑑賞している。だから、小説を読んでもこの映画を観ても、武蔵の生き方に、時には共鳴し、時には疑問を持ち、憧れを抱くと同時に、問題提起を与えられる。主人公の武蔵とともに、若き心躍らせ、そして悩むわけである。
 映画『宮本武蔵』第一部のファースト・シーンは、長回しのワンカットで、特に印象的である。夜の関が原の戦場をカメラがなめるように移動する。タケゾウは、戦友の又八の名を呼びながら、死屍累々のぬかるみの中を血と泥水にまみれたワニのように、這っていく。タケゾウは又八を見つけ、共に生きていることを確認し合う。二人とも体も心もずたずたに傷ついている。だが、生き延びていくために力を寄せ合って立ち上がる。ここがタケゾウと又八にとって「ゼロからの出発」である。タケゾウと、同じ村の幼友達の又八は、関が原の合戦に雑兵として加わったのだが、豊臣方に付いたため、敗残兵となって夢破れ、将来の望みを失ってしまう。若者らしい功名心を打ち砕かれ、挫折を味わい、先がまったく見えない境遇に陥る。この出発点からタケゾウと又八の人生はまったく異なった方向に進んでいく。二人とも村では、郷士の息子であり、跡継ぎだったが、関が原での敗戦を境に、人との奇縁、宿縁に結ばれそれぞれ違った人生を歩み出す。
 タケゾウと又八のコントラストを私はいつも興味深く観ている。錦之助のタケゾウと木村功の又八の取り合わせが最高に良いのだ。(この二人のコンビは『関の弥太ッペ』の弥太ッぺと箱田の森介も最高である。)正直言って、私は原作より映画の方が二人の違いが際立って秀逸だと思っている。この傷ついた二人が、野武士の後家のお甲(木暮実千代)と養女の朱美(丘さとみ)が住む家に匿われたことが、ドラマの始まりである。そして、その後の二人をめぐる男女入り乱れた人間模様が『宮本武蔵』という壮大なドラマの核になる。(つづく)