錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~『青年』

2013-06-06 18:33:42 | 成吉思汗・青年
 昭和29年の秋、東映は芸術祭参加作品として林房雄原作の「青年」の映画化を予定していた。
 「青年」(昭和9年 中央公論社)は、幕末に長州藩の青年たちが世界に目を向け、尊王攘夷派から開国論者に転じて国政改革のために活躍する長編小説である。主役は若き日の伊藤俊輔(にちの博文)と井上聞多(馨)で、この二人を錦之助と千代之介が演じることになっていた。東映京都と東映東京の若手俳優たちが総出演する作品で、企画はマキノ光雄(ほかに大森康正と田口直也)、脚本は八木保太郎、監督は松田定次であった。共演は、波島進、船山汎(ひろし)、石井一雄、田代百合子、高千穂ひづる、千原しのぶ、星美智子ほか。
 しかし、この映画は公式に製作発表をして間もなく、お流れになった。理由は不明である。マキノ光雄と八木保太郎は戦前の日活多摩川時代の同僚で、戦後もいっしょに仕事を続けていた。東横映画では『きけ、わだつみの声』『レ・ミゼラブル』、東映になってからは『人生劇場』『悲劇の将軍 山下奉文』などの大作のプロデューサーと脚本家の関係である。『青年』も大作になることは間違いなかったが、なかなか監督が決まらなかったようだ。伊藤大輔、ないしは、中国からすでに帰還した内田吐夢が撮れば良い映画になっていたに違いない。最終的には松田定次が撮ることになったようだが、松田の体調不良で中止になったのではなかろうか。
 錦之助は、若き日の伊藤博文を演じるという話を聞いて、期待する半面、不安になった。忙しい合間を縫って、原作も読み始めたのだが、読みながら、幕末の動乱期に生きた青年たちの憂国の念と志の高さに感動したものの、伊藤博文という実在した歴史上の偉人をはたして自分が本当に演じることができるのだろうかと感じた。錦之助は、俳優としての自分に非常に空疎なものを感じた。その頃自分と同年齢だった伊藤博文に比べ、自分の人間的な小ささに思いが及んで、憂鬱になったのである。

私はもし『青年』の映画脚本を渡された場合、その学徒伊藤博文のセリフをそら暗じて、それらしく演じたでありましょう。演技とはそれだけでよいものか、今の私には疑問なのです。勿論、学徒伊藤博文程度にまで勉強してから演技しなければ本当の演技でないなどと極論を吐くわけではないのですが。それともあくまでも、手、足、眼などの肉体を駆使することによって、即ち演技と云う技術の鍛錬だけで求める人間像を描きだしたらよろしいのでしょうか。それはどちらも必要なことに違いないと思います。それではその調和点をどこに求めればよいのか、今の私には判らないことの連続です」(錦之助著「ただひとすじに」)

 錦之助は、演じる人物の人格と演じる自分の人格とのギャップを痛感して、悩んだ。フィクション上の人物ならば、原作や脚本を熟読し、その人物を納得がいくまで理解して演技プランを練ればそれほど悩むことはなかった。が、実在した人物、それも偉大な人物になると、錦之助は技術的な演技を越えて、その人物に成りきってさらに思想的人格的な深みまで表現しようとすると自分の未熟さを感じずにはいられなかった。後年、錦之助は親鸞を演じる時、この悩みに突き当たって、親鸞に関する書物を読みあさってノイローゼ寸前になった。そして、監督の田坂具隆に、一ヶ月やそこらの勉強で偉い坊さんになれはずもないから、吉川英治の「親鸞」だけをよく読んで演じるようにと言われ、急に目の前が開け、すっきりした気持ちになったと述懐している。
 結局、『青年』の映画化は中止になり、錦之助は若き日の伊藤博文を演じることはなかった。その代わり、東映の芸術祭参加作品は、子母澤寛の「新選組始末記」を原作とした『新選組鬼隊長』となり、錦之助は悲運の隊士沖田総司を演じることになったのだった。



『成吉思汗』

2010-04-24 22:03:25 | 成吉思汗・青年
 『成吉思汗』(ジンギスカン)は、錦之助の「幻の映画」である。1957年(昭和32年)の秋に製作が開始され、撮影途中で急遽中止になった、いわくつきの映画だった。東映時代、錦之助主演で企画された映画の中で、実現寸前で実際に映画化されなかった作品はいくつかある。たとえば、『青年』(林房雄原作の現代劇)、『女殺油地獄』(近松門左衛門原作)、ほかにも何本かあったと思う。が、『成吉思汗』は、特例だった。脚本が完成し、監督、スタッフ、キャスティングまで決め、ロケ地(確か長野だった)でクランク・インしてから、製作中止になったのだ。だから、宣伝用のスチール写真も何枚かあり、公表されている。もちろん、主役の錦之助が、モンゴルの衣裳をまとい、撮った写真もある。ご覧になった方もいるだろう。(私が持っている錦之助資料の何かでその写真を見た記憶がある。今度探しておきたい。)
 『成吉思汗』は、東映の製作部長・マキノ光雄が企画を立てた大作だった。監督は兄のマキノ雅弘で、主役の若き日のジンギスカン(テムジンという)は錦之助、その恋人役には有馬稲子が内定していたという。(この映画が錦ちゃんと有馬さんの初共演作になるはずだった。次にもう一本企画があって、これも流れ、『浪花の恋の物語』は三度目の正直だった。私の察するところ、二人は1955年11月「近代映画」の対談で初めて出会い、仲良くなって以来、ずっと共演を望んでいたようだ。結局、共演が実現するのは3年半後だった。初めは錦ちゃんの方が燃え上がったようだ。有馬さん曰く。)閑話休題。『成吉思汗』の出演者は、ほかに中村賀津雄、堀雄二、宇佐美淳、故里やよい、夏川静江、大河内伝次郎で、高倉健も出ることになっていた。東映東京の大泉撮影所を拠点に、オールロケに近い撮影スケジュールだったらしい。
 製作中止になった経緯に関しては、監督のマキノ雅弘が次のように語っている。ちょっと長いが、「映画渡世・地の巻」(マキノ雅弘自伝)から引用しよう。

 ――これは依田義賢がNHKのラジオドラマ用に書いた脚本をもとにしてやることになったが、連続ラジオドラマだから、何十時間もかかる。こんな長いもん撮れるかいと云ったら、光雄が、「じゃ、兄貴、オリジナルでやろう」(中略)ということになって、やって来たホンヤが笠原和夫であった。依田義賢の脚本はほとんど無視して、笠原和夫に自由に書かせた。これは非常に良いホンになった。
 私は東宝で『次郎長三国志』の八部の夕顔の役で使わせてもらえなかった有馬稲子をここでぜひ使いたいと思って交渉してもらったが、結局出ずじまいになった。
 (背寒注:『次郎長三国志』第八部は、サブタイトルが「石松開眼」から「海道一の暴れん坊」に変更された。石松は森繁久弥で、金毘羅の遊女・夕顔には新人の川合玉江が抜擢された。この第八部のリメイクが錦之助主演の『清水港の名物男・遠州森の石松』で、夕顔役は丘さとみ。この時は、美空ひばりが夕顔役を望んだという話が伝わっている。)

 ――十月の初めに、軽井沢にロケーションに行って、二日間撮影した。(中略)乗馬のシーンはすべて私が錦之助の吹替えをやった。二日間撮影したところで、片岡千恵蔵主演のオールスター映画(『任侠東海道』)に錦之助が欠けては困るというので、東映から急遽、錦之助が呼び返された。脚本が比佐芳武、監督は松田定次で、このコンビは当時東映で最も強く、この作品も大作だった。
 そんなわけで、光雄にしてみれば、『成吉思汗』というのは、松田定次、比佐芳武のコンビに対抗する気もあって立てた企画だったようだ。もともと大川博社長があまり乗り気ではなかった『成吉思汗』を光雄が強引にやったということもあるのだが、その時は光雄もさすがに怒った。(中略)オールスター映画『任侠東海道』が上がったあと、『成吉思汗』をまたやるのかと思っていたら、光雄が病気で倒れてしまった。

 マキノ光雄が倒れたのは、この年(1957年)の10月(終わり頃か?)で、11月に東大病院に入院し、さらに清水外科に転院した。病名は脳腫瘍で、手遅れだったのだろう。12月9日に死去した。(マキノ光雄に関しては、私もいろいろ調べているので、その人物と功績に関しては稿を改めて、いつか論及したい。)
 『成吉思汗』の陣頭指揮を取っていたマキノ光雄が倒れ、それがきかっけとなってこの映画が製作中止になったことは明らかなようだ。ロケが多く、馬の費用もかかり、製作費がかさむことも、ケチで有名な大川博社長の中止命令につながったのだろう。そこで、『成吉思汗』の代わりに、病床のマキノ光雄が遺言のように兄・雅弘に頼んだ企画が『おしどり駕篭』だった。これは戦前マキノ映画で作った『弥次喜多・名君初上り』のリメイクで、目玉は錦之助と美空ひばりの久しぶりの共演だった。京都でこの映画を撮影中のマキノ雅弘が、東京で闘病していた弟・光雄の死に目にも会えず、葬式をクランクアップまで延期したことは有名な話である。

 ところで、雑誌「時代映画」(1958年6月号)に依田義賢が『成吉思汗』のシナリオを掲載している。このシナリオは、前年に「キネマ旬報」に掲載したシナリオをさらに改訂したものだという。映画化が頓挫して、もはや陽の目を見ないことが分かった時点での再発表であり、依田義賢もよほど悔しかったのだろう。(私はまだこのシナリオを読んでいないが、近いうちに読んでみようと思っている。)シナリオに添えて、依田自身のコメントが載っているので、その一部を紹介しよう。
 ――故マキノ光雄氏はこれの映画化に当って、そういった歴史的な意味(注:遊牧民と農耕民の対立)を度外視して、興味のある草原の王者・大成吉思汗の英姿を書くように希望されたのですが、王生という人物(注:漢人で農耕民)が棄て難く、光雄氏の意に添えぬまま本を書きあげました。監督に当るマキノ雅弘氏は、これの製作に際して、光雄氏の意を介されて、結束信二君の協力を得て改訂され、それがキネマ旬報にも掲載されました。
 偶々、製作条件の都合から一時中断されていた時に、光雄氏逝去のことがあり、今度再び王生の出ているもとのシナリオの特色を生かして書き改めてほしいと依頼されて来ましたが、製作条件の困難さは少しも変わらないので、それも勘案し旬報に載った稿の興味ある所も取り入れて改訂してみました。
 
 依田義賢の言によると、彼のシナリオを直したのは結束信二で、マキノ雅弘の話に出てくる笠原和夫ではない。マキノの「映画渡世」は面白い本だが、どうもあちこちが眉唾もので、大言壮語が多く、記憶違いも目立つ。この本を読むときには注意が必要である。私は、依田義賢の方を信用するが、依田は依田で真面目すぎるきらいがあり、マキノ兄弟とは気質が合わなかったのだろう。依田義賢は、溝口健二に嫌というほどシナリオの書き直しを命じられているから、マキノ兄弟の書き直しの注文は平気に感じたはずだ。ただ、シナリオの改訂を他人に委ねられたことがどうしても許せなかったのだろう。
 『成吉思汗』の製作中止は、脚本家の依田とマキノ兄弟との間のいさかいにも原因があったようで、マキノ雅弘が途中で製作を投げ出したようなところもある、と私は思っている。