ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 デカルト著 井上庄七・森啓・野田又夫訳 「省察 情念論」 (中公クラシック 2002年)

2019年01月26日 | 書評
デカルト著 省察・情念論(中公クラシック)
 
近代哲学・科学思想の祖 デカルトの道徳論 第2回

序(その2)

「デカルトの哲学体系」

哲学の根に相当する形而上学であるが、方法論的懐疑から「コギト・エルゴ・スム」という命題を見出し、神の存在証明に及んだ。そしてデカルト主義の二元論である心身合一の問題に一つの矛盾に突き当たるのである。方法的懐疑についてであるが、幼児の時から無批判に受け入れてきた先入観を排除し、真理に至るために、一旦全てのものをデカルトは疑う。この方法的懐疑の特徴として、2点挙げられる。1つ目は懐疑を抱くことに本人が意識的・仮定的であること、2つ目は一度でも惑いが生じたものならば、すなわち少しでも疑わしければ、それを完全に排除することである。つまり、方法的懐疑とは、積極的懐疑のことである。この強力な方法的懐疑は、もう何も確実であるといえるものはないと思えるところまで続けられる。まず、肉体の与える感覚(外部感覚)は、しばしば間違うので偽とされる。また、「痛い」「甘い」といった内部感覚や「自分が目覚めている」といった自覚すら、覚醒と睡眠を判断する指標は何もないことから偽とされる。この方法的懐疑の特徴は、当時の哲学者としてはほとんど初めて、「表象」と「外在」の不一致を疑ったことにある。方法的懐疑を経て、肉体を含む全ての外的事物が懐疑にかけられ、純化された精神だけが残り、デカルトは、「私がこのように“全ては偽である”と考えている間、その私自身はなにものかでなければならない」、これだけは真であるといえる絶対確実なことを発見する。これが「私は考える、ゆえに私はある」である。ラテン語ではコギト・エルゴ・スム と呼ばれる。コギト・エルゴ・スムは、方法的懐疑を経て「考える」たびに成立する。そして、「我思う、故に我あり」という命題が明晰かつ判明に知られるものであることから、その条件を真理を判定する一般規則として立てて、「自己の精神に明晰かつ判明に認知されるところのものは真である」と設定する(明晰判明の規則)。神の存在証明では、欺く神 ・ 悪い霊を否定し、誠実な神を見出すために、デカルトは神の存在証明を行う。
第一証明 - 意識の中における神の観念の無限な表現的実在性(観念の表現する実在性)は、対応する形相的実在性(現実的実在性)を必然的に導く。我々の知は常に有限であって間違いを犯すが、この「有限」であるということを知るためには、まさに「無限」の観念があらかじめ与えられていなければならない。
第二証明 - 継続して存在するためには、その存在を保持する力が必要であり、それは神をおいて他にない。
第三証明 - 完全な神の観念は、そのうちに存在を含む。(アンセルムス以来の証明)
このような「神」は、デカルトの思想にとってとりわけ都合のよいものである。ブレーズ・パスカルはこの事実を指摘し、『パンセ』の中で「デカルトの神は単に科学上の条件の一部であって、主体的に出会う信仰対象ではないと批判した。
物体の本質と存在の説明も、デカルト的な自然観を適用するための準備として不可欠である。三次元の空間の中で確保される性質(幅・奥行き・高さ)、すなわち「延長」こそ物体の本質であり、これは解析幾何学的手法によって把捉される。一方、物体に関わる感覚的条件(熱い、甘いetc.)は物体が感覚器官を触発することによって与えられる。なにものかが与えられるためには、与えるものがまずもって存在しなければならないから、物体は存在することが確認される。しかし、存在するからといって、方法的懐疑によって一旦退けられた感覚によってその本質を理解することはできない。純粋な数学・幾何学的な知のみが外在としての物体と対応する。このことから、後述する機械論的世界観が生まれる。1643年5月の公女エリーザベトからの書簡において、デカルトは、自身の哲学において実在的に区別される心(精神)と体(延長)が、どのようにして相互作用を起こしうるのか、という質問を受ける。この質問は、心身の厳格な区別を説くデカルトに対する、本質的な、核心をついた質問で「心身合一の問題」と呼ばれる。デカルトは情念はどのように生じ、どうすれば統御できるのか、というエリーザベトの問いに答える著作に取り組んだ。それは1649年の『情念論』として結実することになる。『情念論』において、デカルトは人間を精神と身体とが分かち難く結びついている存在として捉えた。心(精神)と身体を結ぶのは現医学では神経系であるが、デカルトは古い医学を採用し結び目は脳の奥の松果腺において顕著であり、その腺を精神が動かす(能動)、もしくは動物精気によって動かされる(受動)ことによって、精神と身体が相互作用を起こす、と考えた。デカルトが(能動としての)精神と(受動としての)身体との間に相互作用を認めたことと、一方で精神と身体の区別を立てていることは、論理の上で、矛盾を犯している。後の合理主義哲学者(スピノザ、ライプニッツ)らはこの二元論の難点を理論的に克服することを試みた。哲学の幹に相当するのが自然学である。デカルトは、物体の基本的な運動は、直線運動であること、動いている物体は、抵抗がない限り動き続けること(慣性の法則)、一定の運動量が宇宙全体で保存されること(運動量保存則)など、(神によって保持される)法則によって粒子の運動が確定されるとした。この考えは、精神に物体的な風や光を、宇宙に生命を見たルネサンス期の哲学者の感覚的・物活論的世界観とは全く違っており、力学的な法則の支配する客観的世界観を見出した点で重要である。更にデカルトは、見出した物理法則を『世界論』(宇宙論)において宇宙全体にも適用し、粒子の渦状の運動として宇宙の創生を説く渦動説を唱えた。ニュートンの万有引力にはまだ気が付いていないので、デカルトはガリレオとニュートmmを結ぶ科学史上の位置に置かれる。数学の分野では、2つの実数によって平面上の点の位置(座標)を表すという方法は、デカルトによって発明され、『方法序説』の中で初めて用いられた。この座標はデカルト座標と呼ばれ、デカルト座標の入った平面をデカルト平面という。デカルト座標、デカルト平面によって、後の解析幾何学の発展の基礎が築かれた。

(つづく)

文芸散歩 デカルト著 井上庄七・森啓・野田又夫訳 「省察 情念論」 (中公クラシック 2002年)

2019年01月25日 | 書評
ルネ・デカルト

近代哲学・科学思想の祖 デカルトの道徳論  第1回



今更言うまでもないことであるが、ルネ・デカルト(1596年3月31日 - 1650年2月11日)は、フランス生まれの哲学者、数学者である。合理主義哲学の祖であり、近世哲学の祖として知られる。本書「省察、情念論」に入る前に、デカルトの概要をおさらいしておこう。考える主体としての自己(精神)とその存在を定式化した「我思う、ゆえに我あり」は哲学史上でもっとも有名な命題の1つである。そしてこの命題は、当時の保守的思想であったスコラ哲学の教えであるところの「信仰」による真理の獲得ではなく、人間の持つ「理性」を用いて真理を探求していこうとする近代哲学の出発点を簡潔に表現している。デカルトが「近代哲学の父」と称される所以である。初めて哲学書として出版した著作『方法序説』(1637年)において、冒頭が「良識はこの世で最も公平に配分されているものである」という文で始まるため、思想の領域における人権宣言にも比される。また、当時学術的な論文はラテン語で書かれるのが通例であった中で、デカルトは『方法序説』を母語であるフランス語で書いた。その後のフランス文学が「明晰かつ判明」を指標とするようになったのは、デカルトの影響が大きいともいわれる。レナトゥス・カルテシウスというラテン語名から、デカルト主義者はカルテジアンと呼ばれる。デカルトを代表する著作を以下に列記する。
① 1628年 『精神指導の規則』 未完の著作。デカルトの死後(1651年)公刊される。
② 1633年 『世界論』 ガリレオと同じく地動説を事実上認める内容を含んでいたため、実際には公刊取り止めとなる。デカルトの死後(1664年)公刊される。
③ 1637年 『方法論序説および3つの試論(屈折光学・気象学・幾何学)』 「みずからの理性を正しく導き、もろもろの学問において真理を探究するための方法」で、序説単独で読むときは「方法論序説」と呼ばれる。
④ 1641年 『省察』
⑤ 1644年 『哲学の原理』
⑥ 1648年 『人間論』 公刊はデカルトの死後(1664年)である。
⑦ 1649年 『情念論』
デカルトの思想の概要を述べよう。まず最初は哲学の体系である。『哲学の原理』の仏語訳者へあてた手紙の中に示されるように、哲学全体は一本の木に例えられ、根に形而上学、幹に自然学、枝に諸々のその他の学問が当てられ、そこには医学、機械学、道徳という果実が実り、哲学の成果は、枝に実る諸学問から得られる、と考えた。デカルトの哲学体系は人文学系の学問を含まない。これは、『方法序説』第一部にも明らかなように、デカルトが歴史学・文献学に興味を持たず、もっぱら数学・幾何学の研究によって得られた明晰判明さの概念の上にその体系を考えたことが原因として挙げられる。次に哲学の方法であるが、ものを学ぶためというよりも、教えることに向いていると思われた当時の論理学に替わる方法を求めた。そこで、もっとも単純な要素から始めてそれを演繹していけば最も複雑なものに達しうるという、還元主義的・数学的な考えを規範にして、以下の4つの規則を定めた。
① 明証的に真であると認めたもの以外、決して受け入れないこと。(明証)
② 考える問題を出来るだけ小さい部分にわけること。(分析)
③ 最も単純なものから始めて複雑なものに達すること。(総合)
④ 何も見落とさなかったか、全てを見直すこと。(枚挙 / 吟味)

(つづく)

読書ノート サイモン・シン著 青木薫訳 「フェルマーの最終定理」 (新潮文庫2006年6月)

2019年01月24日 | 書評
アイゼンシュタイン E関数

17世紀フェルマーによって提示された数学界最大の難問 第12回 最終回

6) ワイルズ7年の秘密裡の研究 (その2)

1991年以来、ワイルズはボストンで開かれた楕円方程式の専門家会議に出かけ、コーツとの会話でコリヴァキアン=フラッハ法という楕円方程式の分析法に注目して、その拡張に没頭する日々を送った。ある特定の楕円方程式ではコリヴァキアン=フラッハ法は帰納法ができたが、どの方程式にも当てはまるわけではなかった。楕円方程式はいくつかの族に分類され、一つ一つの族にたいする適応を試みてゆき、楕円方程式の族がモジュラーであることが証明されていった。しかしコリヴァキアン=フラッハ法の厳密性を検証するため、1993年ワイルズはその幾何学的性質について専門家に意見を聞くことにした。その相談相手はプリンストン大学のニック・カッツ教授であった。検討すべきワイルズの内容が膨大であったため、ニック・カッツ教授は大学院生を対象とした講義形式を採用した。講義名は「楕円曲線の計算」とした。こうしてニック・カッツ教授はコリヴァキアン=フラッハ法の適用には誤りはないことを保証した。1993年5月バリー・メーザーの論文を読んでいて19世紀の構成法が楕円方程式の族に適用できそうだと分かった。これがフェルマーの最終定理を説くことの最終的決め手になったという。こうして7年の秘密研究の結果、谷山・志村予想の証明が完成した。1993年6月末ケンブリッジ大学ニュートン研究所において専門会議を開催し、そこで発表する手はずが整った。フェルマーの最終定理のことは伏せて「L関数と数論」というワークショップであった。この会議には主催者側にコーツ教授、招待者にはバリー・メーザー、ケン・リベット、コリヴァキアンらが続々集まってきた。彼の証明を支える理論を生み出した人々は全員そろっていた。ワイルズが何を話すか、噂は噂を読んで聴講者が集り会場はあふれて廊下で立ち聞きの状態であったという。ワイルズの講演は「モジュラー形式、楕円曲線、ガロア表現」という題目であった。公演は3回にわたって行われたが、第1回の講演後から研究者間のメールが飛び始め、興奮が沸き起こった。第3回の講演が終わった翌日ニューヨークタイムズ、ガーデアン、ル・モンドそしてテレビが一斉に「フェルマーの最終定理解決される」を報じた。メディアのお祭り騒ぎに一報で証明のチェックという重要な作業が進められた。ニュートン研究所でのワイルズの講演は証明の概略を示したにすぎず、専門家によって正式に認められたわけではない。ワイルズは論文を「インウエンチオネス・マスマチカエ」に提出し、編集人のバリー・メーザーはさっそく6人のレフリーの選出に取り掛かった。200頁の論文をを6つに分け、各レフリーが1章づつ担当した。小さな問題は著者とのメールでやりとりし解決していったが、コリヴァキアン=フラッハ法に関する問題指摘は簡単にはゆかなかった。ワイルズは9月になって問題が根本的な欠点であることに気が付いた。もっと証明を強化する必要があるというものであった。オイラー系コリヴァキアン=フラッハ法の共同研究者であったニック・カッツ教授も大いに悩み反省をした。メディアや数学研究者の間には「ワイルズの研究に欠陥か」という噂が出回っていた。この3章のレフリーを担当したのはリチャード・テイラーである。ワイルズは1993年12月4日メールでこの欠陥を認めた。「谷山・志村予想のセルマー群の計算に還元する基本的な部分は正しいのですが、モジュラー形式に付随する対称平方表現に関する半安定の場合でセルマー群の元の正確な上限を計算する最終段階が完全ではありません。2月に始まるプリンストン大学での講義でこの研究に関する完全な説明をするつもりです」と。ここからワイルズの証明は窮地に立たされた。1994年の冬はワイルズにとって絶望の淵にいた。論文を公開すると、アイデアを出した人に名誉を持ってゆかれるので、ワイルズは苦慮の末、この問題の専門家ケンブリッジ大学の講師リチャード・テイラーをプリンストンに招き共同研究することにした。ニュートン研究所での講演から14か月経過して、1994年9月19日、コリヴァキアン=フラッハ法に岩澤理論のアプローチが使えることに気が付いた。1994年10月25日二つの論文が発表された。
① 「モジュラー楕円関数とフェルマーの最終定理」 アンドリュ・ワイズ著  こちらの論文が主論文でフエルマーの最終定理の証明である
② 「ある種のヘッケ環の環論的性質」 リチャード・テイラー、アンドリュ・ワイズ著 この論文はオイラー系の構成に関するギャップ補完である。ヘッケ環が局所完全交差であるという仮定の下で完成された。オイラー系を削除したことで大分簡素になった。

(完)

読書ノート サイモン・シン著 青木薫訳 「フェルマーの最終定理」 (新潮文庫2006年6月)

2019年01月23日 | 書評
デデキントイーターη関数

17世紀フェルマーによって提示された数学界最大の難問 第11回

6) ワイルズ7年の秘密裡の研究 (その1)

5章をまとめると以下になる。谷山・志村予想は、1955年9月に日光の国際シンポジウムで谷山豊が提出した2つの「問題」(問題12と問題13)を原型とする。これらの問題が互いに関連しているらしいことは谷山も気付いていたが、実は同じ命題の言い換えであることが後に判明した。谷山自身は若くして自殺したため、1960年代に谷山の盟友である志村五郎によって、代数幾何学的な解釈によって正確に定式化された。その後、1967年のヴェイユによる研究によって広く知られるようになった。内容的に「ゼータの統一」というテーマを扱う豪快な予想であり、数論の中心に位置するものの一つと目されるまでにいたったが、攻略自体は絶望視されていた。1984年秋、この予想からフェルマーの最終定理が出るというアイディアがゲルハルト・フライにより提示され、セールによる定式化を経て(フライ・セールのイプシロン予想)、1986年夏にケン・リベットによって証明されたことにより俄然注目を集めたが、アンドリュー・ワイルズを除いては、まともに挑もうとする数学者は依然として現れなかった。アンドリュー・ワイルズ(プリンストン大学教授)により、この予想はまず半安定な場合について解決された(1993~1995年)。ワイルズが1993年に発表した証明には一箇所致命的なギャップが存在したため、その修正に当ってはリチャード・テイラーも貢献した。1994年9月、ワイルズはギャップを回避することに成功し、修正された証明は翌1995年に2編の論文として出版された 。このことにより、ワイルズは谷山・志村予想の系であるフェルマー予想をも解決した。アンドリュー・ワイルズ は、半安定楕円曲線の谷山・志村予想を証明し、それによってフェルマーの最終定理を証明した。20世紀の偉大な数理論理学者ヒルベルトや、ワイルズの恩師コーツ教授らはフェルマーの最終定理には取り組まなかった。誰も谷山・志村予想を証明できるとは思っていなかったからである。労多くして功なしとして敬遠したのである。この第6章に至って初めてワイルズの研究の詳細に入る。30代になってワイルズは冒険をする気になった。楕円方程式とモジュラー形式に関するあらゆる数学を1年半かけてマスターした。フェルマーの最終定理に関係ない研究からは一切手を引き、学会にもあまり顔を出さなくなった。そして自宅に引きこもり集中した。ワイルズはこの証明を完全な秘密のうちに一人で仕事を進める決心をした。しかもコンピューターを使わず、鉛筆と紙と自分の頭脳だけで証明に挑んだ。その証明の出発点は「帰納法」という方法で、たった一つの証明だけで無限問題に向かう方法である。帰納法は高校時代に習ったように、次の二つの手順からなる。①最初の場合に命題が真であることを証明する。n=1 ②命題がある場合に真ならば、すぐ次の場合にも真であることを証明する。n'=n+1 ワイルズは無限に存在する楕円方程式の一つ一つが、無限に存在するモジュラー形式の一つ一つに対応することを帰納法によって証明することであった。そしてそのために19世紀フランスの天才エヴァリスト・ガロアに注目した。エヴァリスト・ガロア(1811-1832年)は数学への情熱以上に共和派革命に命を捧げ21歳にして銃弾に倒れた。ガロアは代数方程式の解を求める事であったが、2次方程式の解、3次方程式の解、4次方程式の解は19世紀以前に得られていた。ガロアは5次方程式の解を求める難問に挑戦した。ガロアの論文2通はフランス学士院のオーギュスト・コーシ―に送られガロアの才能が認められる機会になるはずであったが、論文の手直し中に行方不明になり、再度ジョゼフ・フーリエに提出したが受理さえされなかった。そして1832年5月30日銃弾に倒れた。ガロアの計算の中心にあったのは、群論と呼ばれる概念である。群の重要な性質に「群に含まれる二つの要素を演算によって結び付けた結果は、やはりその群の要素となる」という者がある。例えば整数は加法については群をなすが、除法については群をなさない。しかし「有理数は除法について閉じている」ということができる。ガロアが5次方程式に関する結果はその少数の解を要素とする群を構成したからである。谷山・志村予想を証明するためワイルズは楕円方程式の一つ一つがモジュラー形式とペアになることを示すためには、すべてのE系列とM系列の一つの要素が一致することを確かめ、それから次の要素の確認を行う方法を取った。無限に存在するE系列とM系列の順序として帰納法によって次々と関連づけが保証されていった。ガロア群を利用するというワイルズの戦略は谷山・志村予想を証明するための第1歩であったが、発表はせずコツコツと作業を続けた。1988年3月東京都立大学の宮岡洋一が微分幾何学からアプローチし、フェルマーの最終定理を証明したという報が駆け巡った。1983年数論的代数幾何学者のプリンストン高等研究所のフィールズ賞受賞者ゲルト・ファルティングスはさまざまなベキ数nに対するx^n+y^n=1の図形を調べて、複数個の穴が開いていることから、フェルマー方程式は有限個の整数解しか持たないという。ファルティングスは宮岡の論理の破たんを見抜いた。こうしてフェルマーの最終定理の証明はまた闇の中に消えた。1991年ワイルズは孤独な研究のなかで、楕円方程式の岩澤理論の修正によって打開を試みたが失敗した。フェルマーの最終定理の証明の研究ももう5年になった。

つづく)


読書ノート サイモン・シン著 青木薫訳 「フェルマーの最終定理」 (新潮文庫2006年6月)

2019年01月22日 | 書評
ラムダλ関数 

17世紀フェルマーによって提示された数学界最大の難問 第10回

5) 背理法 谷山・志村予測 (その2)

1960年代のころ、プリンストン高等研究所のロバート・ラングランスは、谷山・志村予想に込められた内容に衝撃を受け、数学の統一に向けた数多くの予想問題を一つ一つ証明してゆくラングランス・プログラムを提唱し世界中の数学者の参加を呼び掛けた。1970年代にはこのプログラムは数学の未来像の青写真となったが、残念ながら現実的アイデアを持つ数学者がいなくて立ち消えになった。1984年ドイツシュワルツヴァルトで数論研究者のシンポジウムが開かれた。楕円方程式がテーマであった。そこでゲルハルト・フライが何の確証もなかったが、谷山・志村予想を証明することがそのままフェルマーの最終定理の証明につながるという驚くべき主張をしたのである。フライはフェルマーの解A,B,Cがあるなら、並べ替えられた方程式はy^2=x^3+(A^N-B^N)x^2-A^NB^Nという形をとるはずだという。そしてこの方程式は楕円方程式であることを示した。もしもフェルマーの方程式に解があるなら、フェルマーの最終定理は成り立たたず、並べ替えられた方程式が存在するはずだという、背理法を提言した。こうしてフライはフェルマー方程式を楕円方程式に変形することによって、フェルマーの最終定理を谷山・志村予想に結び付けたのである。もしあるとすればフライの楕円方程式が余りに異常な方程式でモジュラー形式に結び付きそうにない。フライの論理をまとめると次のような仕組みになる。
① もしもフェルマーの定理が成り立たたないならば、その場合はフライの楕円方程式が存在する。
② フライの楕円方程式は極めて異常な性質を持つので、モジュラーではありえない。
③ 谷山・志村予想によると、すべての楕円方程式はモジュラーでなければならない。
④ ゆえに、谷山・志村予想は成立しない。
さらに重要なことは、この論理を逆転させられることである。すると次に様な論理展開となり、フェルマーの最終定理の真偽が、谷山・志村予想が証明できるかどうかにかかっているというドラマティックな結論を導いた。
1') もし谷山・志村予想が証明できれば、すべての楕円方程式はモジュラーでなければならない。
2') もしもすべての楕円方程式がモジュラーなら、フライの楕円方程式は存在しえない。
3') フライの楕円方程式が存在しないなら、フェルマーの方程式は解を持たない。
4') ゆえに、フェルマーの最終定理は成り立つ。
フライの楕円方程式はモジュラーでないと証明することに、世界中の数学者は頭を抱えた。この線で動いている数学者の一人にカルフォニア大学バークレー校のケン・リベット教授がいた。1986年バリー・メーザーとリベットが討議して、「M構造のγゼロを加えるアイデアで、谷山・志村予想が成り立てばフルマ―の定理も成立する(すべての楕円方程式がモジュラーになれば、フェルマー方程式には解がない)ことにつながった。こうして数学者たちは、背理法を使ってフェルマーの最終定理に挑戦できるようになった。これまで30年以上も谷山・志村予想に挑戦して失敗してきた歴史を乗り越えたのがワイルズだったのである。楕円モジュラー複素関数の、クライン関数、ラムダ関数、世面体関数、イーター関数、アイゼンシュタイン関数の画像が面白いので参考のために示す。とにかく楕円関数論は面白く今なおホットな領域である。

(つづく)