ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート サイモン・シン著 青木薫訳 「フェルマーの最終定理」 (新潮文庫2006年6月)

2019年01月18日 | 書評
17世紀フェルマーによって提示された数学界最大の難問 第6回

3) フェルマーの最終予想

300年間解けなかったフェルマーの最終定理にワイルズ少年は夢中になった。偉大な数学者が挑んで失敗しているからこそ、この問題に取り組む価値があると考えた彼は、先人たちの方法を調べた。なかでも最も注目すべき数学者は18世紀のスイスバーゼル生まれのレオンハルト・オイラー(1707-1783年)である。この人こそフェルマーの最終定理の解明に向けて大きな一歩を踏み出した偉人なのである。オイラーは欧州では「解析学の権化」と呼ばれた。オイラーにとって幸運だったことは同じバーゼルにベルヌーイ一家が住んでいたことであった。ヨーロッパ中で最も優れた数学者一族の勧めでオイラーは数学者の道を歩み始めた。18世紀のヨーリッパで数学者の価値がようやく認められるようになったのは、アイザック・ニュートン(1642 - 1727年)の業績によるところが大である。17世紀はヨーロッパの科学革命の只中にあった。王侯諸国は科学に実用的な価値を認めて大いに奨励した。オイラーは最初帝政ロシア宮廷に招かれ、そしてプロイセンのベルリン学士院から最後はロシアの女帝エカテリーナの下で数学研究に励んだ。オイラーの業績の中でもっとも偉大なものの一つにアルゴリズムによる方法の開発がある。たとえば月、地球、太陽の3体問題は最初から解けないことは分かっているが、実用的に厳密解ではなく近似解を得るならば、大雑把な答えを設定しアルゴリズムに基づいて計算し、それをアルゴリズムにフィードバックしてより正確な近似解を得るという計算方法である。このプロセスを繰り返せば、軍事目的程度の精度で月の位置が分かるという方法である。今ならコンピューターで数百回の計算は瞬時にできる。漸近的数値解析法と言える。オイラーの興味を引いたケーニヒベルグの町の橋にちなむパズルがある。すべての橋を一度だけ渡るならば川の中島に架かる橋は偶数個あればよい。いわゆる一筆書きの問題をオイラーはネットワークの問題として考えた。ネットワークを点と線だけで表すと、頂点の数+面の数ー辺の数=1というオイラーン関係式を導いた。オイラーはフェルマーの最終定理の問題をネットワークの方法と同じように、n次のピタゴラス方程式のいずれかに解がないことを証明し(フェルマーはn=4で解がないことを証明したという)、背理法の一種である「無限降下法」をつかってn=3にたどり着こうとする方法である。ここでオイラーはおはこの虚数を使った。オイラーによって数の概念が飛躍的に拡大し、理論化された。複素数の数平面が定義された。しかし残念なことにn=3の時しかこの方法は使えなかったので、フェルマーの挑戦には敗北した。フェルマーはn=4次には解がないことを証明し、オイラーはn=3次には解がないことを証明した。それは大きな一歩であったがそれより大きなn次方程式にの前には遅々として進まなかった。n=3,6,9,12,15・・・やn=4,8,12,16,20・・・の場合にはオイラーやフェルマーに方法は成り立つ。n=3は素数である。素数の場合が証明できれば非素数の場合は素数に分解できるから証明できるので大多数の方程式は無視してもいいにもかかわらず、nが素数の方程式はやはり無限に存在する。カント―ルの「無限」の集合の概念に依れば、自然数は無限の大きさを持つように、偶数も自然数と1対1の対応が取れるから無限である。すなわち部分が全体と同じ集合の大きさになる。無限に無限を加えても無限である。有理数と無理数とは1対1に対応させることはできないので、無理数の無限集合は有理数の無限集合より大きいことが示される。無限集合の大小の比較はできるのである。素数理論は応用の少ない分野であるが、1970年頃からマーティン・ヘルマンらは軍隊や外交の暗号文作成と解読にはなくてはならない技術を提供している。フランスの女性数学者ソフィー・ジェルマン(1776-1831年)はフェルマーの最終定理の研究に革命を起こして貢献した。ソフィー・ジェルマンの定理とは、2p + 1 が素数であるような素数 p について、x^p + y^p = z^p が成り立つとき、x, y, z のいずれかが p で割り切らねばならない。たとえば x5 + y5 = z5 が成り立つとき、x, y, z のいずれかは 5 の倍数である。また、この定理に現れる 2p + 1 が素数であるような素数 p をソフィ・ジェルマン素数という。この定理を尊敬するカール・フリードリヒ・ガウスとの書簡の交換の形で発表した。いまnをジェルマンの素数とすると、x^n+y^n=z^nにはおそらく解がないことを証明したのである。その線に沿って1825年ディリクレとルジャンドルの二人は独立に、n=5の時解がないことを証明した。またガブリエル・ラメはn=7の場合を証明した。1847年フランス科学学士院はフェルマーの最終定理の解決にたいしてメダルと賞金を懸けた。ラメとルイ・コーシーが名乗りを上げ解決に近いことを宣言した。コーシーとラメの証明の根本的な問題は、どちらも素因数分解の一意性と呼ばれる性質に依存していた。素因数分解の一意性は紀元前4世紀のユークリッドが発見したものであった。コーシーとラメの方法には虚数が含まれており、虚数には一意性が成り立たたないことを、数論の研究者クンマーが発表した。クンマーはn=31以下のすべての素数については一意性の回避は可能であったが、n=37,59,67(100以下の範囲で)では回避は不可能であることを示した。このような素数を「非正則素数」という。完全な証明を阻む障害となっていた。クンマーが示したのは、当時の数学のテクニックではフェルマーの最終定理は完全には証明できないということであった。

(つづく)