ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 青山弘之 著 「シリア情勢ー終わらない人道危機」 (岩波新書 2017年3月)

2019年01月04日 | 書評
「独裁政権」、「反体制派」、イスラム国が入り乱れ、米国やロシアなど外国の介入によって泥沼化 第2回

1) 東アラブの中のシリアの地政学

シリア内戦は、「アラブの春」の延長戦上で、「独裁」対「民主化」という争点が本質的だとする単純な構図では推移せず、複雑な様相を呈している。シリア内戦は、争点や当事者を異にする複数の曲面が居り可算って展開している紛争である。著者は30年来のシリア情勢を見てきた経験から、シリア内戦を構成する主な要因を歴史的に5段階に分けて考えている。その局面とは、①「民主化」、②政治化 ③軍事化、④国際問題化、⑤アル・カイーダ化である。そこでこの5つの局面をたどってゆこう。
① 「民主化」 :民主化とは「アラブの春」の解釈に従った局面である。2011年3月体制打倒のデモ隊はバッシャ―?・アサド政権の暴力の前に挫折した。「体制転換」に成功した国(何がどう変わったのかは不明だが)と較べてシリアのデモは、1万人以下と規模が小さく、場所も地方で散発的に起きたにすぎない。デモへの呼びかけはインターネットでなされなかったため、情報がバラバラで虚偽のデモ情報も多かった。そして活動家が国内で直接指揮を執ったのではなく、海外に逃れたホテル活動家の煽動が中心であった。8月には弾圧に対する抗議活動は最高潮になったが、軍・治安当局とシャッビーハの弾圧で1000名の犠牲者を出しデモは収束した。シリアの「アラブの春」は失敗に終わった。デモ側に組織がなく、政権を倒した後の政権の受け皿に対する考えも存在しなかった。
② 「政治化」 :「民主化」がアサド政権と「反体制派」による従前的な権力闘争に転化することを「政治化」という。ここでいう「反体制派」とは、初期には政治的かつ非暴力的な手法で体制転換や政権掌握を目指す組織や活動家の事であったが、次第に武装化し軍閥化した数多くの諸派が発生したことが紛争の実態が歪曲され混乱が再生産されることにつながった。諸派が自分の権力の強化のために離合集散を繰り返し、対立はアサド政権対「反体制派」の2元対立ではなく、諸派間で対立が頻発した。現在活動している政治組織の数を把握することさえ困難であるが、顕著な組織として名が出るのは、シリア国民連合、民主的変革諸勢力国民調整委員会、民主統一党PYDの3つである。シリア国民連合はシリアムスリム同胞団を中心に2012年カタールにおいて米国の肝いりで結成され、欧米公認の「シリア国民の唯一正当な代表」と目されてきた。欧米の資金援助が豊富なため、在外活動家は国外で指揮を執り「ホテル活動家」と揶揄されている。民主的変革諸勢力国民調整委員会は2011首都ダマスカスで結成され、バアス党や、アラブ民族主義者、マルクス主義者からなる。しかし長年の活動の中で政治エリート化し国民から遊離していることはシリア国民連合と同じである。民主統一党PYDはトルコのクルド労働者党の流れを汲み2003年に結成された。シリア最大のクルド民族主義政党である。PYDは民主連合運動という社会運動組織をもちかつ人民防衛隊という民兵組織を持つ。5万人の隊員を持つ。これらの組織以外にも数えきれないほどの「反体制派」が活動しており、体制変換を目指して対立しながら離合集散を繰り返している。
③ 「軍事化」 :欧米の援助にもかかわらず、「アラブの春シリア版」が目立った成果も出さなかったため、「民主化」と「政治化」の次に来たのが各当事者が武力に訴える「軍事化」であった。これによりシリア政府及び治安当局の一方的弾圧に終わった騒乱は、シリア軍と「反体制派」諸勢力の軍事衝突を特徴とする「シリア内戦」という事態に発展した。「民主化」の時期からデモ隊の一部では武装化する事例が増えて来ていた。2011年9月離反士官のリヤード・アスアド大佐が自由シリア軍を結成したことで「軍事化」が顕在化したと言える。このことでシリア政府の崩壊は時間の問題と西側のメディアでは報じられたが、自由シリア軍には指揮命令系統もなく、小集団の抵抗に過ぎなかった。離反軍人のほとんどは国外に逃亡し指揮を執る軍人はいなかった。シリア国民連合との連携も画策されたがホテル活動家には軍事化のニーズにこたえる力量はなかった。にもかかわらずに「解放区」は徐々に増えて、2012年7月首都ダマスカスとアレッポ市に戦火が及んだ。アレッポ市東部は「反体制派」の最大拠点になった。
④ 「国際問題化」 :西側社会のメディアにおいては「アラブの春」の流れにおいて、シリアにおいても正義の革命闘争は勝利するはずでこれを疑問視する向きはなかった。しかしアサド政権が弱体化したのは、自由シリア軍の勝利や政府官僚や軍隊の離反にあるのではなく、内戦という言葉ではとらえきれない「国際問題化」と「アル・カイーダ化」が主因となっていた。「国際問題化」とは内戦であるはずの混乱より諸外国の利害が優先するということである。内戦の混乱を収めて統一政府の樹立を求めるのではなく、諸外国の利害による干渉が国を分裂させている状態である。第1の陣営は欧米諸国とその同盟国であるサウジアラビア、カタール、トルコからなる「シリアの友グループ」と称する国々である。この陣営は「人権」擁護をこんきょにしてアサド政権の弾圧を非難した。2011年8月NATOの軍事介入によってリビアを体制崩壊させたときと同じような構図でシリアに介入した。アサド政権の正統性を否定し、「反体制派」を支援し介入した。第2の陣営は、ロシア、イラン、中国と言った国々である。この国はシリア主権の尊重の立場から、シリアの友グループの干渉を非難した。内実はアサド現政権支持を意味していた。経済・財政・軍事面でアサド政権を全面支援した。IBSA諸国もこれに同調した。シリアの中東での地政学を考えると、シャームと呼ばれる東アラブ地方の安定維持に重要な役割を持っている。地政学ライバルであるイスラエルとの対峙を外交政策の基軸に据え、中東における反米・反イスラエル感情のの中心であった。シリアはイスラエル紛争において、ロシアやイランの支援を得て、イスラエルとの軍事バランスの軸であった。イスラエルと直接戦火を交えることは避け、合従連衡の要にいることで重きをなした。それはイスラエルにとっても微妙な均衡を期待するというカウンターメリットはあった。イスラエルを移植した英米自らが主として中東の安定に貢献すべきであるにも関わらず、シリアという安全弁は紛争を避けるという利用価値は大きかった。ソ連(ロシア)にとって、欧米諸国に敵対するシリアは積極支援を行うに十分な存在であった。1970年ハーフィーズ・アサド大統領が政権を掌握してからシリアとロシアは親密さを増した。1980年にはソ連・シリア友好条約を締結した。NATO軍事戦略上ロシアはシリアに対する軍事・技術部門における援助を拡大した。ソ連はロシア海軍の補給基地をタルトゥール市に持った。シリア内戦位おいてもアサド政権はロシアのファイミーム航空基地にロシア空軍部隊の配置を許可した。シリアを国家安全保障政策の第1防衛線に位置付けているのは、エジプトだけでなくイラン、そして「シリアの友グループ」のトルコ、サウジアラビアとて同じことである。シリア内戦における「国際問題化」は各国の安全保障政策に関わる実利的な動機に基づいている。諸外国の干渉は自己の「正義」によってカムフラージュされているが、「人権」、「主権」、「テロとの戦い」がそれである。こうしてシリア内戦は諸外国の主戦場と化すことで、悪化の一途をたどった。
⑤ 「アル・カイーダ化」 :最後の局面はイスラーム過激派はこの内戦をハイジャックし、「反体制派」のなかで存在感を強めている。「アル・カイーダ化」とは、ウサ―マ・ビン・ラーディンが創始し、ザワーヒリーが指導者を努めるアル・カイーダ〈総司令部)に忠誠を誓う組織と個人のことである。イスラム過激派の特徴は、既存の政治、経済、社会を全否定し、イスラム教の正しい教えを理解した前衛集団を自認しジハード武装闘争を手段とする。既存の組織を破壊した後は古代制度に基づくカリフ制を敷くという。時代錯誤も甚だしく、日本でいうと明治維新の王政復古である。従って「自由」、「民主」、「主権」、「人権」とは無関係である。シリアにおいてアル・カイーダと目されるのはヌスラ戦線と、さらに過激なイスラーム国ISである。彼らが「反体制派」のなかで重きをなしてきたのは、アラブ湾岸諸国などから信仰心に基づく義援金が多く寄せられたからである。アサド打倒を強く求めるサウジアラビア、カタール、トルコが外国人戦闘員を含むイスラーム過激派のシリア潜入を後援した。その数は算定できていないが外国人戦闘員は2015年で3万人以上と推定された。このことはシリア国内の当事者をわき役に追いやることになる「国際問題化」、「アル・カイーダ化」は、国内当事者による政治的権力争いうよりも、「反体制派」を暴力主義に追いやり、外国勢力の援助金や外国人戦闘員をあてにする功利主義に走らせた

(つづく)