ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート サイモン・シン著 青木薫訳 「フェルマーの最終定理」 (新潮文庫2006年6月)

2019年01月20日 | 書評
17世紀フェルマーによって提示された数学界最大の難問 第8回

4) 抽象性 (その2)

1963年スタンフォード大学のコーエンはヒルベルトの23の問題のうち、連続体仮説が決定不可能であることを証明した。これらのことでフェルマーの最終定理の証明に暗雲が垂れ込めた。ひょっとするとフェルマーの最終定理の証明が難しいのではなくて、証明不可能なのではないかという疑心暗鬼である。1930年頃までにフェルマーの最終定理の証明に使える数学手法が底をついていたことも悲観論の生まれる素地であった。戦後のコンピューターの数値計算によってn次方程式の解がないことを、n=1000まで証明していったところで、無限につづくすべてについて証明することはできない。こういうことで数学者はコンピューターの結果は証明とはみなさないのである。オイラーはフェルマーの方程式に似た4変数の4次方程式 x^4+y^4+zx^4=w^4には自然数の解がないと予想した。しかしハーバード大学のノーム・エルキースはその解を求めかつ無数の解があることを証明した。1791年15歳のカール・ガウスが出した「過大評価素数予想」(素数の出現頻度が減ってゆくことを予想したが、いつも結果は多い目の予想だった)を、1914年ケンブリッジ大学のJ・Eリトルウッドが十分大きな素数の領域ではガウス予想は過少になること、そして1933年にはS・スキュースが過少になる境界の素数の大きさを決定した。ということで偉大な数学者の予想が外れることもしばしばあるので、フェルマーの最終定理(予想)も外れかも知れない。1975年、さてここからケンブリッジ大学大学院生となったアンドリュー・ワイルズの数学研究者としての第1歩に入ろう。大学院の数学指導教官はジョン・コーツであった。フェルマーの最終定理に取り組むまえに、プロの数学者として実際的なテクニックを学ばなければならない。既存の方法は130年前から停滞したままであった。そこでワイルズはフェルマーの最終定理は棚上げにして、コーツ先生の指導により「楕円曲線論」をテーマとした。注意すべきは、それは楕円という幾何学的な曲線ではなく、y^2=x^3+ax^2+bx+c(a,b,cは任意の整数)の方程式の事である。こういった方程式はかって楕円の周や惑星軌道の長さの計算に用いられたことから命名された。楕円方程式に整数解があるかどうかの見極めは非常に難しい。簡単な例でa=0,b=0,c=2の場合、y^2=x^3-2の整数解は(y=5,x=3)だけである。この証明をフェルマーがやった。25(=5^2),26,27(=3^3)という有名な数列である。2乗と3乗に挟まれた唯一の数が26である。一般的な楕円方程式のa.b.cの値をかえるだけで、独自の性質を持つ方程式が生まれ、しかもそのすべてが解ける領域に属している。たとえばx^3-x^2=y^2+yを正攻法で行っても勝ち目はない。解(x,y)として(0,0)あるいは(1.0)は解であることは容易にわかる。それ以外の解では有限な数の中で解を求めるならば、剰余を法とする系列化がある。先の楕円方程式の解の個数はE5=4(5を法とする解は4個)と呼ぶ。楕円方程式から導出された系列をE系列と呼ぶ。こうしてワイルズとコーツは楕円方程式とE系列についての数論専門家としての地位を確立した。

(つづく)