ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート サイモン・シン著 青木薫訳 「フェルマーの最終定理」 (新潮文庫2006年6月)

2019年01月16日 | 書評
17世紀フェルマーによって提示された数学界最大の難問 第4回

2) 数論 (その1)

ピエール・ド・フェルマーはフランスグランドセルブのフランシスコ会修道院からトゥールーズ大学に進んだ。役人の道を選び、1631年にはパリにいる王に請願をする時の地域の受付である「請願委員」に任命された。王と地方を結ぶ重要なパイプ役であった。そしてフェルマ―は裁判所の参事官も兼ねていた。フェルマーは社交界の名士となり、トゥールーズ議会の勅選議員に選ばれた。フェルマーはアマチュアの数学者であったが、余りにも優れていたのでプロの数学者として扱われた。その時代数学のアカデミックの地位は低く、生活は自己資金に頼った生活であった。だから17世紀の数学者はほとんどアマチュアであったといえる。欧州で数学を奨励していたのはオックスフォード大学のみで、1619年幾何学のサヴィル講座を創設した。パリではパスカル、ガッサンディ、ロヴェルヴァル、メルセンス神父らが参加する小さな数学者のサークルがあった。当時商人に雇われる計算のプロ職人(今でいう会計士か)がいたが、秘密主義的傾向が強かった。代数学の計算技術として、三次方程式を解くことを発見したタルターリアとジェラモ・カルダーノの喧嘩は有名である。パリにやって来たメルセンス神父はこうした秘密主義と戦い彼らのサークルは「フランス学士院」の中心メンバーとなっていった。メルセンヌがフランスを旅行してフェルマーと接し、フェルマーの目を大きく開かせた。しかしフェルマーが発見した数学上の多くの定理について、メルセンヌ神父が証明を示すように勧めたが、フェルマーは頑として定理を証明付きで開示することはなく、むしろ挑戦的にできるなら証明してみろと言わんばかりであったという。 問題は示すが解法は隠すというフェルマー流のやり方は数学者を困らせ、その定理の証明が難しければ難しいほど彼の名声を獲得するチャンスはなくなり、学界から忘れ去られる危険性の方が高かった。フェルマーとパスカルの文通によって「確率論」の定理が生まれた。またフェルマーは「微積分学」の創始者の一人であった。ニュートンは「フェルマーの接線の引き方」に基づいて微積分法を発明したのである。微積分学と確率論という実用性の高い数学の分野の創設にかかわっただけでなく、フェルマーは何の役にも立たない「数論」を最も愛したと言われる。 ピタゴラスの教団が滅んだあと、200年も経つと数学研究の中心はクロトンからアレクサンドリアに移った。アレクサンドリアに初めて図書館ができたのは、アレクサンドリア大王の将軍だったプトレマイオス1世がエジプト王になった時からのことである。世界中の学術書の写本をアレクサンドリアの図書館に集める使命を負ったのはデメトリオという人物であった。その数学部門の責任者が、ユークリッドであった。ユクリッド(紀元前330年生まれ)が著した「原論」13巻は史上最高のロングセラーとなり、ユークリッドの業績が3巻で、あとは冬至の数学的知識の集大成で会った。そのうち2巻はピタゴラス教団の業績である。ユークリッドが多用した論理のテクニックに「帰謬法」、「背理法」であった。背理法によるユークリッドの証明で一番有名なのは「無理数」の数存在を立証したことである。ピタゴラス教団は無理数(例えば√2や円周率π)を隠蔽して有理数までで考えを束縛した。しかし無理数を小数で表そうとすると、規則性もパターンもない数が無限に続いてしまう。ユークリッドは√2が分数では表記できないことを証明するために背理法を用いた。√2=1.414213562373・・・の少数はあくまで近似値で、永遠に記述することは終わらないのである。ユークリッドは数論に関心を持っていたことは確かであるが、彼の業績は「幾何学」にあった。原論全13巻のうち、第1巻から第5巻までは平面幾何学、第11巻から第13巻までが立体幾何学が扱われている。

(つづく)