ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 プラトン著 久保勉訳 「ソクラテスの弁明」、「クリトン」(岩波文庫 1927年)

2015年05月21日 | 書評
スパルタに破れた後のアテナイの混乱期、「焚書坑儒」の犠牲者ソクラテスの裁判記録 第3回

序(3)
「ソクラテスの弁明」、「クリトン」の著者プラトンについて見てゆこう。プラトンは師ソクラテスの公開裁判を傍聴し、ソクラテスの言葉を記録した。牢獄でクリトンとともに師に対し脱獄を勧めてその時の対論を記録したのもプラトンであった。正確に記したかどうかは不明であるが、極めて芸術的に高い文章になっているのはプラトンの能力のなせる業である。プラトン(紀元前427年 - 紀元前347年)は、古代ギリシアの哲学者である。ソクラテスの弟子にして、アリストテレスの師に当たる。プラトンの思想は西洋哲学の主要な源流であり、哲学者ホワイトヘッドは「西洋哲学の歴史とはプラトンへの膨大な注釈である」という趣旨のことを述べた。現存する著作の大半は対話篇という形式を取っており、一部の例外を除けば、プラトンの師であるソクラテスを主要な語り手とする。プラトンは、師ソクラテスから問答法(弁証法)と、「無知の知」を経ながら正義・徳・善を理知的かつ執拗に追求していく哲学者(愛知者)としての主知主義的な姿勢を学び、国家公共に携わる政治家を目指していたが、三十人政権やその後の民主派政権の惨状を目の当たりにして、現実政治に関わるのを避け、ソクラテス死後の30代からは、対話篇を執筆しつつ、哲学の追求と政治との統合を模索していくようになる。ピュタゴラス学派と交流を持ったことで、数学・幾何学と、輪廻転生する不滅の霊魂の概念を重視するようになり、感覚を超えた真実在としての「イデア」概念を醸成していく。紀元前387年、40歳頃、プラトンはシケリア旅行からの帰国後まもなく、アテナイ郊外の北西、アカデメイアの地の近傍に学園を設立した。アカデメイアでは天文学、生物学、数学、政治学、哲学等が教えられた。そこでは対話が重んじられ、教師と生徒の問答によって教育が行われた。紀元前367年、プラトン60歳頃には、アリストテレスが17歳の時にアカデメイアに入門し、以後、プラトンが亡くなるまでの20年間学業生活を送った。プラトンの哲学はイデア論を中心に展開されると言われる。生成変化する物質界の背後には、永遠不変のイデアという理想的な範型があり、イデアこそが真の実在であり、この世界は不完全な仮象の世界にすぎないという。プラトンは、最高のイデアは「善のイデア」であり、存在と知識を超える最高原理であるとした。哲学者は知を愛するが、その愛の対象は「あるもの」である。こうした発想は、『国家』『パイドロス』で典型的に描かれている。プラトンは、師ソクラテスから問答法(弁証法)を受け継いだ。『プロタゴラス』『ゴルギアス』『エウテュデモス』といった初期対話篇では、専らソフィスト達の弁論術や論争術と対比され、妥当性追求のための手段とされるに留まっていたそれは、中期の頃から対象を自然本性にしたがって「多から一へ」と特定するための推論技術として洗練されていき、数学・幾何学と並んで、「イデア」に近付くための不可欠な手段となる。『メノン』以降、数学・幾何学を重視して、これらは感覚を超えた真実在としての「イデア」概念を支える重要な根拠ともなった。中期・後期にかけての対話篇においては、「イデア」論をこの世界・宇宙全体に適用する形で、自然学的考察がはかられていった。このように、プラトンにとっては、自然・世界・宇宙と神々は、不可分一体的なものであり、そしてその背後には、善やイデアがひかえている。こうした発想は、アリストテレスにも継承され、『形而上学』『自然学』『天体論』などとして発展された。プラトンは、師ソクラテスから、「徳は知識である」という主知主義的な発想と、問答を通してそれを執拗に追求していく愛智者(哲学者)としての姿勢を学んだ。こうしてプラトンは、人間が「自然」(ピュシス)も「社会法習」(ノモス)も貫く「善のイデア」を目指していくべきであるとする倫理観をまとめ上げた。そしてこの倫理観は、『国家』『法律』においてプラトンの政治学・法学の基礎となっている。アリストテレスもまた、『形而上学』から『倫理学』を、『倫理学』から『政治学』を導くという形で、そして、「最高の共同体」たる国家の目的は「最高善」であるとして、プラトンのこうした構図をそのまま継承・踏襲している。プラトンは経験主義のような、人間の感覚や経験を基盤に据えた思想を否定した。感覚は不完全であるため、正しい認識に至ることができないと考えたためである。プラトンの西洋哲学に対する影響は弟子のアリストテレスと並んで絶大である。

(つづく)

文芸散歩 プラトン著 久保勉訳 「ソクラテスの弁明」、「クリトン」(岩波文庫 1927年)

2015年05月20日 | 書評
スパルタに破れた後のアテナイの混乱期、「焚書坑儒」の犠牲者ソクラテスの裁判記録 第2回

序(2)
 このため、ソクラテスは「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」などの罪状で公開裁判にかけられることになった。アテナイの500人の市民がソクラテスの罪は死刑に値すると断じた。原告は詩人のメレトスで、政界の有力者アニュトスらがその後ろ楯となった。しかし、ソクラテスの刑死の後、(ソクラテス自身が最後に予言した通り)アテナイの人々は不当な裁判によってあまりにも偉大な人を殺してしまったと後悔し、告訴人たちを裁判抜きで処刑したという。ソクラテスは自身の弁明(ソクラテスの弁明)を行い、自説を曲げたり自身の行為を謝罪することを決してせず、また追放の手も拒否し結果的に死刑を言い渡される。票決は2回行われ、1回目は比較的小差で有罪。刑量の申し出では常識に反する態度がかえって陪審員らの反感を招き大多数で死刑が可決された。神事の忌みによる猶予の間にクリトン、プラトンらによって逃亡・亡命も勧められ、またソクラテスに同情する者の多かった牢番も彼がいつでも逃げられるよう鉄格子の鍵を開けていたが、ソクラテスはこれを拒否した。当時は死刑を命じられても牢番にわずかな額を握らせるだけで脱獄可能だったが、自身の知への愛(フィロソフィア)と「単に生きるのではなく、善く生きる」意志を貫き、票決に反して亡命するという不正をおこなうよりも、死と共に殉ずる道を選んだとされる。ソクラテスの思想は、内容的にはミレトス学派(イオニア学派)の自然哲学者たちに見られるような、唯物論的な革新なものではなく、「神のみぞ知る」という彼の決まり文句からもわかるように、むしろ神々への崇敬と人間の知性の限界(不可知論)を前提とする、極めて伝統的・保守的な部類のものだと言える。それにも拘らず、彼が特筆される理由は、むしろその保守性を過激に推し進めた結果としての、「無知の知」を背景とした、「知っていることと知らないこと」「知り得ることと知り得ないこと」の境界を巡る、当時としては異常なまでの探究心・執着心 、節制した態度 にある。半端な独断論に陥っている人々よりは思慮深く、卓越した人物であるとみなされる要因となり、哲学者の祖の一人としての地位に彼を押し上げることとなった。彼の言説は弟子プラトンによって後世に伝わり、そのプラトンが自身の著作の中心的な登場人物として、師であるソクラテスを用いたこと事が大きく貢献した。ソクラテスに先行する哲学者やソフィスト達は、ほとんどがアナトリア半島(小アジア半島)沿岸や黒海周辺、あるいはイタリア半島の出身であり、ギリシャ世界における知的活動は、こういった植民市・辺境地によって先導されてきたものであり、アテナイを含むギリシャ中心地域は、それと比べると、古くからの神話や伝統に依存した保守的な土地柄であった。ソクラテスの思想は、こういった引き裂かれた知的混乱状況の中、アテナイ人としての保守性と知的好奇心・合理的思考の狭間で揺れ動いたという。ソクラテスの哲学のキーワードには、無知の知、アレテー(徳/卓越性/有能性/優秀性)、社会契約論(クリトンで展開)、自立(自律)、ダイモニオン(キリスト教の聖霊論に非常に類似)などである。ソクラテスは自説を著作として残さなかったため、今日ではその生涯・思想共に他の著作家の作品を通してうかがい知ることができるのみである。これは「ソクラテス問題」として知られる。ソクラテスには、カイレフォン、クリトン、プラトン、アリスティッポス、アンティステネス、エウクレイデス、クセノポン、アルキビアデス、クリティアス等々、「弟子」とみなされている人々が数多くいる。プラトンがその筆頭であること間違いない。ソクラテス、プラトン、アリストテレスという系譜が西洋哲学の正当な流れであろう。

(つづく)

文芸散歩 プラトン著 久保勉訳 「ソクラテスの弁明」、「クリトン」(岩波文庫 1927年)

2015年05月19日 | 書評
スパルタに破れた後のアテナイの混乱期、「焚書坑儒」の犠牲者ソクラテスの裁判記録 第1回

序(1)

 紀元前399年ソクラテスは、「不信心にして新しき神を導入し、かつ青年を腐敗せしめた」として、市民代表の3名の告発者から訴えられ、裁判の投票の結果死刑を宣告された。この事件は哲学的にというより、社会的・政治的な事件であって、訴状は言いがかりみたいなものです。事の原因は古代ギリシャのアテネとスパルタの都市国家同士の戦争であるプロポネス戦争に始まります。この戦争は俗にいう民主政のアテネと軍事政のスパルタという構図では説明しきれない。プロポネス戦争(紀元前431年 - 紀元前404年)とは、アテナイを中心とするデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟との間に発生した、古代ギリシア世界全域を巻き込んだ戦争である。この頃、アテナイはデロス同盟の覇者としてエーゲ海に覇権を確立し、隷属市や軍事力を積極的に拡大していた。これに対し、自治独立を重んじるペロポネソス同盟は、アテナイの好戦的な拡張政策が全ギリシア世界に及ぶ事態を懸念していた。つまり覇権主義のアテナイが自主独立のスパルタを挑発して起した覇権戦争だったのです。戦いは10年戦争と第2次プロポネス戦争に続くが、アイゴスポタモイの海戦でペロポネソス同盟軍が急襲し勝利を収めた。この勝利により黒海方面の制海権を完全にペロポネソス同盟が掌握、翌紀元前404年にはアテナイ市が包囲され、アテナイの降伏を以って戦争は終結した。戦争の結果、デロス同盟は解放され、アテナイでは共和制が崩壊してスパルタ人指導の下に寡頭派政権(三十人政権)が発足し、恐怖政治によって粛正を行なった。だが、9ヶ月でトラシュブロス率いる共和制派勢力が三十人政権を打倒し政権を奪取する。共和制政権のもとでは、ペロポネソス戦争敗戦の原因となったアルキビアデスや、三十人政権の指導者のクリティアスらが弟子であったことから、ソクラテスがアリストパネスらによって糾弾され、公開裁判にかけられて刑死したのである。その背景と歴史的事実で本書「ソクラテスの弁明」、「クリトン」を読まないと、哲学道徳論では本書の意義は分からない。ソクラテス(紀元前469年頃 - 紀元前399年)は、古代ギリシアの哲学者である。ソクラテス自身は著述を行っていないので、その思想は弟子の哲学者プラトンやクセノポン、アリストテレスなどの著作を通じ知られる。プラトンの『ソクラテスの弁明』においてソクラテスが語ったところによると、彼独特の思想・スタイルが形成されるに至った直接のきっかけは、ちょっと信じがたい話でよく貴人譚に出てくる神託や夢判断の話であるが、彼の弟子のカイレフォンが、デルポイにあるアポロンの神託所において、巫女に「ソクラテス以上の賢者はあるか」と尋ねてみたところ、「ソクラテス以上の賢者は一人もない」と答えられたことにある。これを聞いて、自分が賢明ではない者であると自覚していたソクラテスは驚き、それが何を意味するのか自問した。さんざん悩んだ挙句、彼はその神託の反証を試みようと考えた。彼は世間で評判の賢者たちに会って問答することで、その人々が自分より賢明であることを明らかにして神託を反証するつもりであった。しかし、実際に賢者と世評のある政治家や詩人などに会って話してみると、彼らは自ら語っていることをよく理解しておらず、そのことを彼らに説明するはめになってしまった。こうしてソクラテスの思想が形成されていったという。かなり脚色の入った芸術的な神話的な話であるが、これらの説明をそのまま鵜呑みにするならば、知恵の探求者、愛知者としての彼の営みそのものは、その旺盛な知識欲や合理的な思考・態度とは裏腹に、「神々(神託)への素朴な畏敬・信仰」と「人智の空虚さの暴露」(悔い改めの奨励、謙虚・節度の回復)を根本動機としつつ、「自他の知見・霊魂を可能な限り善くしていく[ことを目指すという、ある面ではナザレのイエスを先取りするかのようである。この胡散臭さに無知を指摘された人々やその関係者からは憎まれ、数多くの敵を作ることとなり、誹謗も起こるようになった。

(つづく)

山本光雄著 「アリストテレスー自然学、政治学」 (岩波新書 1977年)

2015年05月18日 | 書評
万学の祖アリストテレスの神羅万象の知識学  第8回 最終回

第2部 政治学 (その3)
弁論術:

 ソクラテス・プラトンはソフィストの弁論術を激しく攻撃して「何も知らないものが弁論の術をたくましくしても無意味である」と言いましたが、アリストテレスは学問の術として評価しています。弁論術はギリシャ人の自由な弁論を愛好する素質にマッチし、民主主義の発展に応じて発達した経緯があります。裁判、民会で自己の主張を、大衆に納得させることは政治の術として有効な手段となり、「修辞学」とも呼ばれています。弁論のそれぞれの類には別の言語表現が必要であり、文字的言語表現と討論的言語表現は異なり、裁判的表現と民会的表現は同一ではない。弁論術には討論的に適した表現に加えて演技的なものも付け加わる。アリストテレスは弁論術を定義して「弁論術とはそれぞれに対象に関して可能な説得の手段を観察する能力である」という。用途に応じて説得の手法は異なるのである。弁論による説得の手段は立証である。弁論には問題・事件の提起と、証明・立証の2つの部分からなる。弁論によって弁論者が信頼に足る人物であると聴衆に思われることが必要で、聴衆を一時的にもある感情の内に誘導しなければならない。そして証明することによって得られる立証である。三段論法がその最たる手段であろう。しかし弁論家としては専門的知識で述べるわけではなく、人々に共通の言葉で、共通な常識を心得ていればいい。弁論家は専門家である必要性はない。弁論術で使用される論理的証明には、論理学の帰納と推論に相当する、有利な例とそこから結論導き出す弁論術的推論である。弁論術的推論とは多くの場合前提は「たいていの場合そうである」式の蓋然的前提である。格言、例、比較、寓話などの手法が用いられる。言葉巧みに小道具を引き出しから持ち出して、例というものから結論を引き出すのである。弁論要素は①語り手、②語られる対象、③語りかける相手(大衆)の3つからなる。法廷的弁論では正と不正、民会的弁論では利益と損害、演技的弁論では美と醜が語られ、聴衆がそれを真理と思い込ませることである。例えば正と不正に付いt語るとき、それぞれの特殊な命題トポスを心得ておかなければならない。いわゆるTPO的な命題でアリストテレスは「共通なトポス」として4つを、エンテュ-メ―マーのトポスを28、ただそう見えるだけのトポスを9つ類別してあげている。アリストテレスらしい徹底したカテゴリー癖である。弁論者は信用にたると信じ込ませるには、証明以外に思慮と徳と好意の3つがある。聴衆が最終的に判定するわけであるが、その判定は聴衆が陥り易い感情によって左右される。弁論者は聴衆の怒り、恐れ、情け、義憤、妬みなどの感情をコントロールしなければならない。聴衆の性格を心得てその心に火をつけなければならない。

(完)

山本光雄著 「アリストテレスー自然学、政治学」 (岩波新書 1977年)

2015年05月17日 | 書評
万学の祖アリストテレスの神羅万象の知識学 第7回

第2部 政治学 (その2)
国制:
 アリストテレスにとって、人間の幸福とは徳、とりわけ最高の徳としての知恵に即した現実活動であった。限られた優れた人、恵まれた環境と習慣・教育をすべての人が享受できるには、強制力を備えて彼らの生活を規制する法がなくてはならない。このような法律を定め、それを実施することができるのは、人間共同体の最高のものとしての国である。「ニコマコス倫理学」の最期に「法律」を設け、政治学に橋渡しをしている。倫理学は人間学として人間の幸福を実施する仕方も考えなければならない。アリストテレスの国に対する考え方は今日の考えとはかなり違る。ソフィストやロックの人間契約説ではなく、生まれつき能力が各段の差がある人間本性に基づいて国が成立するという。奴隷関係や主従関係は当然という、それが自然であるという認識である。ポリスは人間生活の必要性からうまれたとしても、国の存在の目的は単に生存することではなく善く生活することである。この目的は国の本質であり、このような国を理想国という。従って最善の国制(憲法、政体)を持った国とはどんな国であろうかという考察は「政治学」では未完で終わった。理想国アリストクラシーでは国民は有徳な者でなくてはならない。国制も法律も制定されなければならないし、国民は有徳となるように養育され教育する必要がある。またアリストテレスの理想国の政府側の構成や任務など重要な問題に考察は行われていない。おそらくプラトンに「法律」におけるものに近かったと想定される。彼が理想とした君主制は、万人に傑出した一人の完璧な徳を備えた人物の出現は理論的にありえないことから、理想国として挙げられていない。国は国民権(市民権)に与る国民が有徳であることが前提である。それは生まれつき(素質)、慣習(しつけ)、理による教育に拠らなければならない。子供の養育に関して詳細な法律が定められる。結婚適齢(男子37歳、女子18歳)などアリストテレスは7歳以上21歳までの教育について立法した。その詳細は省く。「政治学」では国制の種類と批判が述べられる。国を構成する人々は異なり、生活や歴史風土も異なりので多くの国制が生まれてくるのは当然であるとして、「国制とは国の諸々の役と権力を秩序付けるものである。国の志向の権力を有する者は国民団であるが、これにより国制も異なる。民主制では人民大衆であるが、寡頭制では一部の人間である」という。アリストテレスの国民の定義とは「国民とは裁判官と国民会員に与る権利を持つ者」である。プラトンに倣って、国民共通の利益を目指す正しい国制として①君主制、②貴族政、③多数の理想国制、支配者の利益だけを目指す間違った国制として④僭主制、⑤寡頭制、⑥民主制だという。今日の考えとはずいぶん異なった国制の理解である。その利害得失を論じて、よりましな政体として、正しい国制のなかで③多数の理想国制と、間違った国制の中で⑥民主制を取り出して考察している。③多数の理想国制とは一つの徳(たとえば戦争に適した人々)に秀でた人々が国民権を持つ国制である。一定以上の財産のある多数の人が参加できる国制で、最大多数の幸福を判断基準とすると最善の形であるとアリストテレスは推奨する。実際は中間層が希薄である場合が多く、国制はスパルタとアテネのように寡頭制と民主制との適度な混合になる中間的な国制である。アリストテレスの民衆とは貧乏で愚民のニューアンスが強い。ポリス的人間とは一定の財産を持ち公的な役に無償で応じることができる人間である。お金目当てで腐敗する者は政治に参画してはならないというようだ。すると今の政治はまさに貨幣経済至上主義をとっているので、金で動いているから腐敗する必然性を持つことになる。つまり志が低いということである。アリストテレスのいう民主制はさまざまな形をとるが、貧者も冨者も平等、財産の多寡で役が決まる、一定の家で長男が正当性を引き継ぐ、出生を問わない、民会の議決された政令が定めるといった政体がある。民主制の特徴は自由を根拠にして国民権を定めるのである。民主制は人の値打ち(能力)ではなく、人の数に応じて等しいものを持つことである。(数がすべてという普通選挙法による) 民主制における行政関係部門、裁判関係部門、審議関係部門と言った三権の機構の大まかな特徴を挙げている。アリストテレスによると民主制は間違った国制であるがその内では一番ましな国制で、③多数の理想国制に次ぐ国制であるという。民主制の擁護論としては、一人一人として見れば大した人間でなくとも、寄り集まれば少数の優れた人間よりも優れているという論である。(三人寄れば文殊の知恵) 役人や裁判官罷免の権利を与えるのは、少数の専門家や権威者による判断よりも、それに与る大衆の判断の方が大事だという見解を取る。アリストテレスは「政治学」で国制はどんな原因で変化するかを考察している。民主制の変質につて考えると、民衆の権利が等しいという間違った考えが、あらゆる国制変化の原因であるという。内なる民衆の平等な権利を主張する一方で、他者にたいしては不平等な取り扱いを当然とする。それが内乱の原因である。さらにアリストテレスは過去の民衆指導者が将軍であった場合民主制から僭主制へ移行しやすく、極端な民主制の場合、野心家の民衆煽動によって最悪な政体に変わるという。18世紀トクヴィルの「アメリカンデモクラシー」で言われた民主制が専制政体に取って代られる心配がそれである。アリストテスは158国の歴史の資料を集めて、政体の変化や滅亡の原因を探究したが、民主制の保全策として、①国制の存続を望む人を多数派とする、②中庸を尊重する、③国制保全の教育を国民に施すことを挙げている。

(つづく)