ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 藤沢令夫著 「プラトンの哲学」 (岩波新書1998)

2015年05月04日 | 書評
西洋哲学の祖プラトンが説くイデア論の意義 第6回

第3章 「美しき邁進」 プラトン哲学の核心、イデア論と魂論(中期作品集より) (その2)

「国家」で初めてイデア論思想を提示し、それに基づいて哲学者の内容規定を詳しく述べている。「哲学者とは、つねに恒常不変のあり方を保つ存在(イデアの真実性)に触れることができる人である」つまりこういう人が「魂の中に明確な範型を持ち、美・正・善に関わる法を制定し保全する能力を持つ」ことができるからであるという。こういうのを哲学というのか、思い込みにすぎないというのか、一般論にとどまって内容希薄であり、そのういう人を養成する教育も課題として残る。「国家」に、哲学者が学ぶべき重要なことがかなり長い論述がある。しかも玄妙な例え話で、「太陽」、「線分」、「洞窟」という3大比喩がそれである。太陽は「思惟される善の世界と意味し、事象から超越した存在であることが示される。善は事象を根拠づけるイデアの存在自体を成立させるメタレベルの原因であるとされる。「線分」の比喩とは、「現物世界」(見られるもの、思わくされるもの)と「思惟世界」の2つの世界内において、現物世界での似像と実物(イデア)の関係が、思惟世界の悟性(数学や仮説の関係、ディアノイア)と理性(ノエーシス)の関係に似ており、しかもその配分関係が比例関係であるという。一種数学の「写像論」の比例関係を思わせる比喩である。こんな抽象的概念に比例関係もあったものではないが、プラトンは大まじめに比喩を展開している。自説に酔っているようだ。思惟される世界において2つの区分とは、魂(精神)のあり方あるいは探求の仕方がその比喩の眼目である。ディアノイアにおいて代表される数学の探究法は、①仮説(公理)から演繹して帰結に達する方法で、起源を云々しない、②思考でしか捉えられない実物(イデア)を今度は似像として用いるというところに特徴があった。それに対してノエーシスは始原の至る考察を行い、それから演繹して帰結を得るもので、イデアを通ってイデアに達するというもので知覚を手段として用いない。「もはや仮説ではない万有の始原」とは太陽の比喩で語られる「善」のことであろう。言葉、論理(ロゴス)そのものの世界で、対話、問答法(ディアレクティケー)力で探究するといわれる。日本ではこれを「弁証法」と訳しているが、それは混乱をもたらすばかりである。第3の比喩「洞窟」とは、像の影しか見えない大衆の蒙を開くための教育のことである。影(似像)を真実と信じている洞窟内の人を思惟される世界に引き上げることである。ここでの眼目は一つは教育、一つは国家統治に在り方である。教育とはこのような生成界から実在界(イデア)への、メの向け変えの技術である。知性の教育では予備段階として数学・天文学などが教えられ、本教育とは問答法(対話術)を身に着けることである。この向け変えは国家の強制力の下で行われる。「万やむを得ない強制」という。プラトンは「国家」のつぎに「パイドロス」対話篇を書いたといわれる。初めは奇妙な屁理屈を述べて「真実らしく思われる」ことを教えるソフィストの弁論術批判を行う。弁論術は真実そのものを追求する哲学と相いれない。弁論術批判はそこそこにして「パイドロス」では長々とエロース讃美の物語が語られる。打算や世間体を気にするに過ぎない世俗の道徳を非難して、プラトンは「恋の狂気」を持ち上げて、これこそが神が与え給うものとエロース礼賛物語となる。自分自身を動かす起動因としてのプシューケーは、また宇宙と自然を動かす生成変化の原理であるとする。プラトンの魂の3分説は、理知的部分、欲望的部分、気概的部分のことで、良い馬(気概)と悪い馬(欲望)を制御する御者(理性)という比喩を用いた。エロース賛歌とは理性賛歌だったのである。

(つづく)