ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 藤沢令夫著 「プラトンの哲学」 (岩波新書1998)

2015年05月02日 | 書評
西洋哲学の祖プラトンが説くイデア論の意義  第4回

第2章 「魂を持つ生きた言葉」 ソクラテスの教え(初期作品集より)

初期の対話篇の中に描かれたソクラテスの言行が、プラトンが受け留めたソクラテス像であり、ずっとプラトン哲学の基層となっている。プラトン独自の思想もこの基層から生まれたものである。「饗宴」の終わり近く、アルキビアスがソクラテスへの思いのたけを述べる場面で「私は毒蛇よりももっと痛いものに、もっと痛いところをかまれたのだ。哲学の言葉によって、魂を」とあるのは、これはプラトンの魂を咬んだソクラテスの言葉(哲学)のことであろう。「ソクラテスの弁明」にはソクラテスの哲学がかなり表明されている。ソクラテスはソフィストを「知」のありかたから批判する。「デルポイの神託」をソクラテスは「本当の知者は神だけで、それに比べると一番の知者とはソクラテスのように、自分が知(プロネーシス)について何の値打ちもないと知った者なのだ」と理解した。これが「無知の知」という知のあり方である。これは哲学つまり求知(愛知)の不可欠の出発点にほかならない。人は何かをするとき、知以外の激情や快楽・苦痛、恐怖によってよくない行為をふせぐために知が必要なのだ。ここでソクラテスは「知」という言葉を様々な同義語で表現するが、アリストテレスは厳格な使い分けをする。ソクラテスは人間の全般的な知の捉え方を言っている。「デルポイの神託」に促されて、ソクラテスは自他の知のあり方を吟味する行為を、アテナイの政治家、有力者、ソフィストを相手に問答を繰り返した。こうした行為で相手の無知を暴露することで、多くの敵意と中傷が広がり、自分が告発される原因となった。「哲学することを決してやめない」ということは、市民への指摘と勧告をやめないということである。「知と真実のことには、そして魂をできるだけ優れたものものにする事には無関心で、心を向けようとはしないのか」という言葉の中に、魂を優れたものにするとは、ソクラテスは「徳を持っている」と言い換えている。徳(アテレー)とは当時の意味では、卓越した能力(なによりも政治的能力)のことである。「何よりも大切なことは、よく生きることである」つまり魂を優れたものにすることを心がけ精進するという生活指針をいう。長生きが問題ではなく、与えられた生そのものの質を高めることがよく生きるということである。プラトンの初期・中期の著作集は、ソクラテスを主人公とする対話篇であるう。ここではプラトンは登場してこない。しかしその中期から後期の対話篇になると様相が変わってくる。初期の対話篇ではソクラテスは対話相手を論破することが中心であったが、中期から自分で積極的に一定の見解を表明することが多くなる。相手の命題の矛盾を明示するより、自分の考える命題を提示することが強くなる。この命題こそがソクラテスを超えたプラトン自身の哲学であるように思われる。後期の対話篇では、「ティマイオス」、「法律」等では、もはや対話という形式さえ不要なくらい、切れ目のない長い論述となってくる。それでも形式的にはソクラテスが主人公であることを固持するのは、基層としてのソクラテスの言葉を大事にし、プラトンの意見はその延長にあると考えたからであろう。ソクラテスの哲学(言葉)を、教説の形に発展させることが自分の使命であるとプラトンは思っていたのだろう。だから二人の切れ目がないのである。イデア論、魂論、哲人統治論もその連続発展のプロセス上にあった。後期対話篇でも、最晩年の作「法律」にはソクラテスは全く登場しないが、なおソクラテスが主役として扱われる。プラトンが対話篇に固執するわけは、人間の志向の本質は魂の自己内対話であると考えるからである。思考は言葉によるとすれば、言葉は本来的に対話的な要素から成り立つ。これを「ロゴスのディアロゴス性」と呼ぶ。思考は自分の中で相手を置いて吟味しながら進めるというソクラテス的精神の必然性が貫かれている。ギリシャ悲劇は、舞唱隊が歌い踊るコロスの要素と、訳者の間に対話ロゴスの要素から成り立つ。しだいにコロスの部分を減らしてロゴスが劇の主体となる傾向を示した。ニーチェのような人はこれを「悲劇の自殺あるいは堕落」と呼んで、悲劇の強力な敵としてソクラテスを糾弾した。古代ギリシャでは十分意味を持って人々を律した神話物語が次第に消え去り、ロゴスあるいは哲学的真理を目指す思想が主役に入れ替わった。

(つづく)