ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 藤沢令夫著 「プラトンの哲学」 (岩波新書1998)

2015年05月01日 | 書評
西洋哲学の祖プラトンが説くイデア論の意義 第3回

第1章 「眩暈」 哲学者としての出発 (その2)

プラトンは初めから哲学を自分の仕事と考えていたわけではなく、そう定めたのは40歳に差しかかる頃のことであった。プラトンの自伝ともいわれる13通の手紙の内「第7書簡」(74歳ごろのプラトン)の中で、「この私も、かって若かったころは、自分のことを自分で処理できる大人になったら、すぐにでも国家公共の仕事に赴こうと思っていた」 プラトンは前427年アテナイで生まれた。アテナイとスパルタをそれぞれの盟主とするペロポネソス戦争(前431-4040年)が始まって4年目の年であった。民主政治の伝統が根付くアテナイでは、各自の素質に応じて国家枢要の仕事に就くことは、名門子弟の共通の気概であった。プラトンの父はアリストン、母はペリクティオネで両親とも名門の出であった。プラトンの兄のアディマントスとグラウコン、また叔父のカルミデスや従兄のクリティアスは古くからソクラテスと親しい間柄で、プラトンもソクラテスから影響を受けていたと思われる。前404年プラトンが23歳の時27年続いたペロポネソス戦争はアテナイの敗北で終わった。その直後クリティアスやカルミデスなどプラトン家の親戚たちを主要メンバーとする反民主派の「三十人政権」が樹立され、プラトン委も参加が呼びかけられたが、「彼らの為すことを注意深く見守る」ことにした。この「三十人政権」はスパルタの後見でできた独裁政権と化し、政敵を次々と投獄する恐怖政治によって多くの有能な人が国外に逃亡した。ソクラテスの友人カレイポンや、後に民主政権の中心となってソクラテスを告発したアニュトスらが亡命し武力抵抗団を作って、前403年「三十人政権」を攻撃し崩壊させた。ソクラテスはレオン逮捕事件で「三十人政権」に反抗したため、身が危なかったととソクラテス自身が「弁明」で述べている。ここでプラトンが驚愕する事件が起こった。前399年、民主派の実力者アニュストスを後楯にしメレトスという青年が「国が認める神々を認めず、新規なダイモーンの祭りを導入し、かつ青年たちに害毒を与えるという罪を犯した」としてソクラテスを告発した。ソクラテスは裁判にかけられ死刑に処せられた。時にプラトンは28歳、「第7書簡」にはその時のプラトンの心境を、「いかなる偶然によるものか、一部の権力者はわれわれの仲間であったあのソクラテスを、およそ神を畏れざる、また誰にもましてソクラテスには最もふさわしからぬ理由で、法廷に連れ出しました。」と衝撃のほどを語っている。この深い衝撃こそは、このような不条理を根絶するためには、民主派と反民主派の抗争というレベルを超えて、国家のあり方の根本的な変革しかないとプラトンが考えるに至った起点をなしている。思いがけなかったソクラテスの刑死によって、プラトンはソクラテスの存在を自覚し、在りし日のソクラテスを生き生きと伝える一連の対話篇を書き始めた。初期の著作篇「ソクラテスの弁明」、「クリトン」、「ラケス」、「カルミデス」、「リュシス」、「プロタゴラス」などは、ソクラテスの生き方が示すものが何だったのかを確認する作業であった。プラトンは「眩暈」を感じながらも国制全般の改善の道を模索していたが、実際行動に出ることはなかった。この根強い政治の実践の方向と、ソクラテスの教える哲学の生き方とどうかかわりがあるかを考えていたようである。この答えが出るまで12年間を要した。ソクラテスの哲学とは、「よく、正しく、美しく」という価値規範を忠sンとした人間の幸福を追求する営みであった。プラトンが40歳ごろに書いた「ゴルギアス」の中で、「本当の政治を手掛けているのは、僕だけだ」、「正しく真実に哲学している人々が国政の支配の座に就くか、あるいは現に政権を握っている人びとが、本当に哲学をするようになるか、このどちらかが実現するまでは、人類が災いから遁れることはないだろう」と語っている。そうしてようやく「哲人統治」という考えに到達した。ソクラテスの刑死から12年間遍歴時代の締めくくりとして、イタリアとシケリアの旅に赴いた。シケリアの選手独裁政治を見、イタリアではピタゴラス学派の思想の影響を受け、アテナイに帰ったプラトンは前387年「アカデメイア」と呼ばれる学園を創設した。そこで自分の理想とする教育活動と、著作活動により自分お哲学愛想を形成し発展させるであった。プラトンのアカデメイアでは、問答・対話の術をまなぶ予備学問として、数学(算数、幾何学、)、天文学、音楽理論などが重要視された。こうしてプラトンの生き方は完結した。

(つづく)