ブログ 「ごまめの歯軋り」

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山本光雄著 「アリストテレスー自然学、政治学」 (岩波新書 1977年)

2015年05月11日 | 書評
万学の祖アリストテレスの神羅万象の知識学 第3回

第1部 自然学 (その1)

自然学の研究法:
 最初にアリストテレスの自然観をみよう。自然学とは「自然によって存在するもの、すなわち自然的諸事物を対象とする学問」とされ、アリストテレスの「自然」の定義は「事物の自然とは第1義的に自体的に、付帯的ではなく、事物の中に存して、事物が運動、静止することの原理であり原因である」とする。人の身体と医術の関係で、身体は自体的な原因で健康であって、それを助ける医術は付帯的であるという。自体的に運動し静止する原因とは、天体が運動し続ける力とか、例えば物が下に向く力は今日では重力がその原因であるというニュートン力学によるものであるが、まさに物理学のことを言っているようだ。アリストテレスは自然によって存在する諸事物の全体も「自然」と呼んでいる。全体に共通な自然と個別的な自然は合目的的な働き方をする。その目指すところは善であり、良い調和であるとなる。自然的存在の目的という考察から、哲学(形而上学)となり神という絶対的合目的的存在を想定することになる。ただ自然に存在するだけでなく、存在する理由を問うことは理性を持つ人間を特徴づける特性となる。この神と自然の関係については「形而上学」になるが、本書では著者の病のために執筆されなかった。アリストテレスは「自然に存在する諸事物は何一つとして無秩序なものはない。なぜなら自然は諸事物の秩序の原因であるから」という疑義を受け付けない問答無用の判断をしている。アリストテレスの自然学の出発点は「動物誌」であり、動物観察がその哲学の基礎となって、動物形態論と生態論から「神と自然は何も徒には作らない」として、その目的とは美の領域に属する。このさまざまな何万種とある動物界の個別の動物はそれぞれが神の無駄なく作り賜うた作品であるという観点である。アリストテレスの著作集を上の表に示したが、自然学はかなりの部分を占め、特に動物関連諸著作において使用される研究法が彼の哲学体系の基礎をなすと考えられる。アリストテレスは自然の諸事物がある事実を「その事物は何かある目的のために存在する」という見方を取る。自然研究の出発点は「感覚によって明らかなもの」である。我々にとって可知的であり明晰なものから出発して、自然においてより可知的で明晰な物事に進む。目的論的な見方の方が感覚に明白な経験的事実にも一致するという立場を確立した。ここからアリストテレスの煩雑なまでの分類、項目別けという止むところなき性格が発揮される。考察漏れがないかどうか神経質なくらい細心に考え方を細分化してゆくのである。自然的諸物が生成して存在するに至る原因として、アリストテレスは次の4つを挙げる。①質料因(事物固有の性質)、②形相因(物の本質)、③起動因(因果関係)、④目的因(善)というが、我々が普通言うところの原因とは「起動因」のみである。目的因は動物の進化で必ず出てくる論であるが、たいていは獲得形質は遺伝しないことから否定されている。キリンは高いところの葉を食べるために首が長くなったとは言わないのである。首が長いため高いところの葉を食べられるというのが現在の言い方である。アリストテレスは網羅的に4つの原因を述べたまでで、その相互関係、順序などは述べていない。アリストテレスの自然学は主として形相因と資料因を中心に展開する。というのは形相因と目的因・起動因の3つはよく一致するものだからだ。人間の定義「人間は理性的動物である」は、人間の本質を著すものであるが、理性は形相、動物は資料であり「類」は思惟的質料と言われる。物質は感覚的質料である。形相と質料はつねに相関的であり、ともにある事物の構成的要素と呼ばれうる。アリストテレスは目的論的見方のため形相因は質料因に優先する。すなわち人間の本質(形相因)があるために、それらの部分(質料因)があると考えるからだ。自然学は論証の学として、ある事物の本質(目的)の実現のために、それらの属性がその事物に存在しなければならないという必然性を証明することである。条件的必然性とか前提的必然性とか呼ばれる。

(つづく)