ブログ 「ごまめの歯軋り」

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山本光雄著 「アリストテレスー自然学、政治学」 (岩波新書 1977年)

2015年05月15日 | 書評
万学の祖アリストテレスの神羅万象の知識学  第5回

第1部 自然学 (その3)
動物と霊魂(人):
 身体の部分には器官的部分と感覚的部分があり、器官的部分(目、鼻、口、指・・)を構成するのは異質部分である。異質部分はそれぞれが成すべき仕事(形相)を持つ。ここでアリストテレスは見てきたようなウソを言う。生命の発生に順序があり、まず心臓、そして脳髄、順次器官が発生するという。これはアリストテレスが心臓を生命の中枢と見たためで、脳髄は心臓の熱の冷却器官だという。時代の制約は誰しもある事なので、こんなことにこだわっていてはアリストテレスの本質に迫ることはできないので先に進もう。これらの同質部分(血液など)と異質部分(器官)から身体は構成され、さらに形相(本質)が必要である。この形相が霊魂である。従って身体は霊魂のための存在し、霊魂のために身体は仕事をするのだという。ここに霊魂とは、精神、理性、意志、心理のことで自然科学の対象である。アリストテレスは霊魂を「可能的に生命を持つ自然的物体の第1の現実態である」と定義した。霊魂は身体の現実態、身体は霊魂の可能態である。だから身体と霊魂は互いに離れて存在することはできない。離れた場合身体は屍と呼ばれる。霊魂は生物の生命である。生命の中枢は心臓である。当時の解剖学も神経系統の存在を知らなかった。かれは脳を感覚神経の集まる中枢とする説を知っていたが、生命の座としての心臓は同時に感覚の座であるという考えに固執した。感覚器官は対象のの運動、静止、数、大きさ、時間を認識し(共通感覚)、これ等によって欺かれることはないと考え、感覚は対象が持つ形相(本質)を、それぞれの質料を抜きにして受け入れるとアリストテレスは考えた。アリストテレスは感覚能力に判別能力をもつとして、共通感覚は知識獲得の第1歩をなすと考えた。自然的諸事物が現れ、見えてくるところの能力(表象)は感覚やその能力とは違う。すなわち特殊感覚や知識による認知は常に真であるが、表象によるものは真でも偽でもありうる。これは認識論において共通感覚に誤りが多いとされる根拠である。それは表象に基づくからである。従って彼は「表象像は共通感覚の一様態である」という。記憶も想起も夢もすべて表象能力、すなわち感覚能力の働きである。かれは表象を感覚的表象と熟慮的表象に分け、動物は前者を、人間だけが後者をもつという。この能力はンン減の霊魂の能力であり、感覚像が表象像を作り、表象像は思惟能力を作るのである。そして思惟することは表象像なしには不可能である。図形(表象像)なしに幾何学(思惟能力)は不可能である。「何物をも感覚しないで、何物も学ぶことはできないし、理解することもない」という。その可能態においてある思惟対象を現実態にするのが理性である。理性は起動因であり、能動理性なくしては思惟することもない。能動理性だけが身体から独立して不死、永遠のものとされた。かれは「理性とは実体であって、我々の内に生じてきて、そして滅しないもの」と考えた。プラトンのイデアに近い思想である。そして人間のみが神的な理性をもつ。又行動するにはまた欲求意志が必要である。欲求と行動に関わる理性(実践理性)の2つが、変化(運動)の起動因である。欲求能力を無理的部分と有理的部分に分けると、前者は欲望として現れ、後者は意欲として現れる。アリストテレスは「動物誌」において約550種の動物を扱い分類している。分類学上の問題はさておき、無生物から動物への移り変わりを考察し、自然的諸事物は少しづつの差異によって段階をなしているという考えを持った。その頂点に人間(神と言ってもいい)を置くと、人間のために自然はすべてのものを作った」といえるし、生物はそれぞれが自身のために作られ、それ自身を完成することが目的であるといえる。その目的とは生殖である。今日的な意味でいえば、生殖によって遺伝的多様性が生まれ、進化が成し遂げられるということである。

(つづく)