ブログ 「ごまめの歯軋り」

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山本光雄著 「アリストテレスー自然学、政治学」 (岩波新書 1977年)

2015年05月16日 | 書評
万学の祖アリストテレスの神羅万象の知識学 第6回

第2部 政治学 (その1)

倫理学:
 アリストテレスは倫理学は政治学の一部をなすとしている。ここに倫理学(エーティカ)というのは「性格に関すること」という意味でつかわれる。「大倫理学」において、「善良な性質の者という意味であるが、そうでないと行為することができないからである。性格に関する研究は政治学の一部分であり、かつ出発点である。」という。政治学(ポリティケー)とは「ポリスに関する学問」であり、ギリシャでは都市国家のことである。アリストテレスは「ニコマコス倫理学」で、倫理学を一部とする政治学を「人間に関することの哲学」と呼んだ。ポリスはギリシャ特有の政治形態で、ヨーロッパ大陸やアジアでは見られない。完全で自足的な生活のためにか家族や氏族が善き生活において共同するとき、はじめてポリスが存在する。ポリスの目的は善き生活にある。政治は国民の徳を高める教育団体という性格を持つ。従ってポリス学(政治学)の一部としてのアリストテレスの「倫理学」は国民の徳論を重要な課題としてもつことになる。「エウデモス倫理学」や「ニコマコス倫理学」の序論部分で人間の幸福に関する諸問題(倫理学)の方法論を述べています。自然学と違って正確性厳密性を求めることはできない。蓋然的な?ん帝から推論される物であるから、その帰結も蓋然的である。行為は人間に固有の能力であり、それは違った風であり得る運動の原因である。人間の行為は自由である、その結果も様々な蓋然性を持つのである。幸福の問題も「議論を通じて確信を求めなければならない」とする。「政治学の目的は知識ではなく、行為である」という。こうして幸福とは何か、そして幸福をどうして手に入れるか、それらが倫理・政治学の中心課題である。幸福とは「快楽」か、「栄誉」か、「徳」か「真理の観照」かという価値感の違いが出てくる。アリストテレスは「幸福とは完全なる徳に即した生の現実活動である」と定義する。では徳とは「人間の徳アレテ-は、人間が善い者となり、自分自身の仕事を善くするようになる状態である」と定義する。性格的徳以上のものを含んでいる。性格的徳とは、寛厚、節制などであるが、人間は理性ある動物であることからくる思惟的徳とは、知恵、ものわかり、思慮などを含む。性格エートスとは現実に発現する感情の可能態における性質である。だから性格は習慣から発生する。「性格的徳は選択に関わるもので、思慮ある人の理性的思考によって規定される」といい「選択は中を求める」と言って中庸の徳を説いています。「エウデモス倫理学」においてアリストテレスは性格の詳細な観察表を作りました。彼の人間観察の広さ、豊かさを示していて興味深い。性格の程度の超過、不足から、正解は中庸にありというわけです。正義と親愛は政治生活の重要な意義を持っている。アリストテレスは正しいこととは「遵法的、「均等」という意味を持つと結論しました。この意味で正義は徳と一致します。他人との関係で「正義」と言われ、自分自身に即して「徳」と言われるのです。正義を「全体的正義」と呼ぶこともあります。個別の徳としての正義は「特殊的正義」と呼び、「配分の正義(均等)」と「整正の正義(不正な利得を排除)」、「交換の正義」(貨幣、労働、富の分配)が要求されます。法は状況によって変化するのが当然であるが、法を用いる人が適宜に補正が必要になる、これも正義である。とかくアリストテレスはカテゴリーの分類、区別が好きな人である。事細かな細分化を行う。その思考法は分析的である。思惟的徳は選択に関わる状態であり、選択は熟慮を経たうえでなされる行為である。この思慮と真実認識の熟慮は行為にかかわる。一般的に熟慮する者とは、実行しうるものの内で人間にとって最も善いものを計算して的中させる者である。こうして性格的徳と思慮的徳は人間の徳として統一体を成す。徳についての考察を終えて、次に幸福の一つの価値である「快楽」を政治学を哲学する者の重要な課題とします。快楽とは衣食住が充実して生活に苦痛がない状態であるが、「快楽とはものの本性に一致した状態が妨げられない現実活動である」と定義します。これに対して智恵に即した活動とは、哲学的生活、感想的生活も理性的動物と言われる人間の本性に一致した最高の活動である。最後に親愛は性格的徳であると同時に人間の生活、特に国民としての生活になくてはならないものである。親愛はすべての人間共同体の原理であり絆である。したがって正義と親愛は同じであると言える。

(つづく)