ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 藤沢令夫著 「プラトンの哲学」 (岩波新書1998)

2015年05月03日 | 書評
西洋哲学の祖プラトンが説くイデア論の意義  第5回

第3章 「美しき邁進」 プラトン哲学の核心、イデア論と魂論(中期作品集より)(その1)

この章は筆者が最も力を入れたようで、ページ数で全体の1/3以上を占めている(80頁)。ソクラテスの刑死後12年間悩みに悩んで、哲人統治の結論に達し、アカデミアでの経験と思索を重ね、さらに予想される数々の反論のため哲学的武装を整えること10年以上してようやく「国家」を発表した。当時の「哲学者」を見る世間の目は「国家社会の役に立たないろくでなし」ということであったので、その哲学者に国家を預けるという提言はお話にもならない、嘲笑の的にしかならない代物であった。(今でもそうだが) 「ゴルウギアデス」はプラトンが哲人統治の考えを持ち始めた40歳ごろ、イタリア・シケリア旅行前後の作品である。ソクラテスに「僕こそは本当の意味での政治家なのだ」と豪語させている。当然世間からくると予想される強烈な反撃に対する対話篇が展開される。ソクラテスに立ち向かったのは青年政治家カリクレスである。カリクレスは哲学や哲学者に対して世間一般の通念の代表者として登場し、反哲学、反道徳の最も先鋭的激烈な主張を突きつけた。すなわち民主制の悪しき平等を突き抜ける有能な実力の持ち主が政権を恣にし独裁者として、弱者から様々な権利を奪い取ることは「自然の正義」であると主張する。現状の政界や世の中で頭角を現すことはそういうプロセスである。ここでソクラテス(プラトン)は対決の姿勢を明確にして強靭な哲学思想の構築を宣言する。(対話篇では対決だけで終わって、決着はない) 「世の多くの人が徳と称して賞め讃えるところの奴隷根性」という世俗の徳とは根本的に違う積極的な(真の)徳への志向がプラトンに始まったようである。ソクラテスの言う正義や節制のはるか先に、真実の徳がプラトンのイデア論を形成がするのである。前期対話篇では、「カルミデス」で節制とは何であるか、「ラケス」では勇気とは、「リュシス」では友愛とは、「エウテュプロン」では敬虔とは何であるかが個別に主題となっていた。アリストテレスはこれを「Xの定義」と呼んでいたが、個別の性質をいろいろ挙げては却下する行為の先には、単一の「相」(Xとは何かでは相といい、イデア論成立後はイデアという)が見えてくるはずである。「Xとは何か」はすなわち「まさにXであるもの」を抽出することにつながる。Xであることを判別する基準を求めることである。「相」の存在論的、認識論的な論述がとりもなおさずイデア論の成立である。ソクラテスが言っていた「想起」や「思わく」が発展してイデア論の本質的な契機となった。イデア論は「饗宴」において美のイデアとして初めて開花した。恋(少年愛)の道が美のイデアに昇華し、美しくあることの純粋に本質的なことは美である、美そのものと言い表された。「饗宴」から一歩進んだイデア論が、「パイドン」で哲学者は死を恐れないという議論で展開された。「まさにそれぞれであるところのもの」としての、すべてのものの本質がイデアなのだというイデア論の命題が暴入された。美のイデアからすべてのもののイデアにあっさりと一般化された。この一般化によってイデア論は人間の生き方の直接関係する徳や価値を理解し、更に広く自然万有の理解全般を導く基本原理となった。はっきりと「感覚されるものを手掛かりにしてイデアを想起する」という抽象化(超越、観念論)が必要である。美のイデアが、経験で獲得される即物的想いではなく、まさに先験的な原理であるといえる。パイドンという対話集の特徴は、「魂(プシューケー)」対「身体」というデカルト式2元論の対立の構図で述べられていることである。感覚、欲望、情念、快楽は思惟の働きを阻害する身体の働きという風の捉えられ、魂の浄化という考えが打ち出されている。知の愛求者は常に魂の浄化に努めなければないと(ストイック、プラトニック・ラブ)されている。死とは魂が身体を離れることだとすると、哲学者は常に「死の練習」をしていることである。そして「魂の不死」というピタゴラス学派の考えが永遠不変のイデア論と合体する。ところが、欲望、情念、快楽を感じているのは実は魂(脳組織)であって、身体(末梢神経組織)ではない。つまり「魂と身体」論は表面的な語り口に過ぎず、言いたいことは魂の2つのあり方の対立のことである。それは生き延びの原理と、知を求めてやまない「精神」の原理の対立である。「身体の愛求者」は同時に「物的な性格」(金、豊かな生活)のものにしか関心がない。プラトンは人間の「生き延び」本能が描く物的世界・自然像を相対化して位置づけた最初の人であるといわれる。こうして議論は自然哲学の領域へ展開した。そこで問題となった「アナサゴラスの知性原因論か、イデア原因論かが吟味された。プラトンの自然哲学の伝統は今日の科学主義イデオロギーに対するアンチテーゼとして残っている。皮相な反科学主義としてではなく、一つ一つの事象を成立させている意味・価値は、決して物と物との外的相互作用からだけでは説明できないという命題である。量子力学や相対性理論を越えたところに「善」という価値的要因を考えるという主張である。しかしながら「善」という価値感支配が霧散していること、万物の生成と消滅の起動因が明確にされていないなど、プラトンの自然哲学は挫折したままで放置されている。だからイデア論といっても、構えばかりは大きいが内容が空疎だという批判は私一人のものではない。

(つづく)