ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 プラトン著 久保勉訳 「ソクラテスの弁明」、「クリトン」(岩波文庫 1927年)

2015年05月22日 | 書評
スパルタに破れた後のアテナイの混乱期、「焚書坑儒」の犠牲者ソクラテスの裁判記録 第4回

序(4)
 本書は100頁ほどの小文庫本で、プラトンの対話篇である「ソクラテスの弁明」と「クリトン」の2篇を含む。ソクラテスの最後を描いた3部曲として、「ファイドン」と併せ読むべきであろう。プラトンはソクラテスの生と死において哲学者の何たるかを体得したものと考えられる。ソクラテスの説くところはソクラテスの行為によって哲学(知を愛する)フィロソフィアとなった。「ソクラテスの弁明」においてプラトンはソクラテスがいかに生き、いかに活動したかを考え、「クリトン」、「ファイドン」において死に臨む態度によって後世に影響を与えたソクラテスの姿を描いた。「ソクラテスの弁明」においてプラトンはソクラテスの行動の正しさを証明しようとする。師が不正にも神々を信ぜずアテナイの青年を腐敗せしめたという罪名の下で死刑を宣告されたが、実はソクラテスが深く宗教的な人であり、青年を向上させるたことを示すとともに、法廷でソクラテスがいかなる精神で自らを弁明したかを描ている。「クリトン」は死刑の宣告ががあって、獄中で脱獄を勧めるソクラテスの親友クリトンとの対話を描いている。そうして個人と国家との関係を論じた(ロックの社会契約論にもつながるテーマである)。ソクラテスの弁明に草稿があるわけではなく、本質的にソクラテスの即興でなされたものである。おそらく一語一語正確な速記録はなかっただろうし、プラトンの記憶に基づいて再構成されていることであろうが、プラトンによって字句以上の真実が一層明確になった。「ソクラテスの弁明」と「クリトン」はソクラテスの死後間もなく書かれたものと推測される。したがって「弁明」に書かれている事態はほぼ正確に記されていると思われる。内容において最も深い意味においてソクラテスその人の行為と解せられる。偉大なる魂と強大な意志はソクラテスそのものであろう。毀誉を顧みず攻撃を恐れず、是非を明らかにし自由に自分の所信を言って実行する人、仮借なき試問追求によっていたるところで人間を吟味し、その似非知識を摘発し、しばしば他の自尊心や虚栄心を傷つける人が、煩わしい邪魔者として毛嫌いされることは火を見るより当然の成り行きであった。正義の代弁者面をして他人の言動を攻撃する人はいつの時代にもいるが、当然爪弾きされ疎外されるだろう。ソクラテスの精神は当時の大衆からは理解されなかった。当時の上流階級の青年の啓蒙的要求に応じて現れたのはソフィストすなわち「知恵の教師」であった。彼らはよそ者で報酬をもらって(家庭教師のように)ギリシャの都市を遍歴した。重視したのは政治的教育、とくに修辞弁論術であった。弁論の最高目的はプロタゴラスのいうように「無力な議論を有力な議論とする」ことであった。相対的に一時的にも論争に勝てばいいのであって、真理探究とは無縁であった。そのようなソフィストの代表としてソクラテスはみなされた。アリストファネスの喜劇「雲」はソクラテスらを批判した喜劇である。このような誤解が広がったとはいえ、ソクラテスは70歳に至るまでその活動を禁じられた形跡はない。一転してソクラテスを弾劾の対象にされたのは、「30人政権」が共和派によって倒された後、共和政復古主義が蔓延し、ソクラテスは「30人政権」協力者とみなされたのである。新教養主義は神への不信心からおきるとされ、プロタゴラスらはアテナイ市を遁れたが、アテナイに生まれ育てられたソクラテスは移住しなかった。アテナイ人は危険思想の教師を懐疑論の故をもって弾劾した。ソクラテスは無神論者ではなく、熱烈なる理性信奉者であると同時に、宗教的神秘主義者であった。彼の心霊の研究はアテナイ人にはこれを新しい神の導入、許すべからざる僭越とみなしたのであろう。ソクラテスはアテナイ生まれの生粋のアテナイ人で、ソフィストらのごときよそ者ではないし、若いころは3度従軍して勇敢な兵士であることを示したという自負をもっていたことで、特別にアテナイへの愛着が大きかった。彼は決して政治の世界に入ろうとはせず、統治の任は識者に任せるべきだという見解を持っていた。衆愚政治ではなく賢者の統治を説いたため、「30人寡頭政治」を覆した民主主義者にとって敵と見えたに違いない。ソクラテスに対する誤解と憎悪が長い年月に徐々に形成されていったようである。500人の市民陪審員を集めた公開裁判の結果死刑の判決の下ったソクラテスはなお30日間獄中で生き延びた。この期間に脱獄するように説いたのが幼少時代からの親友クリトンであった。にもかかわらずソクラテスは友の忠言に従わなかった。脱獄したのでは日頃の自分の言説(理性・知への愛 国家と社会契約説)に反することであり、アテナイをこよなく愛するソクラテスにどこへも行きたい場所はなかった。そして70歳余の歳からして、命を惜しむこの世への執着はなかった。このように自己の信念のために死を選んだ。国家に反する個人的な正義感は選択しなかった。社会契約説において反逆の権利を想定したロックの思想とは異なっている。法の決定が個々人の意思によって左右されるような国家は、一日たりとも存立することはできない。これはゲーテの「法に従え」を連想させる。ソクラテスは市民の義務を果たすために生命・財産の価値には無頓着に国法に服従した。ただし精神的問題については理性の是とするところ、また神の命ずるところに従った。

(つづく)