ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 藤沢令夫著 「プラトンの哲学」 (岩波新書1998)

2015年05月07日 | 書評
西洋哲学の祖プラトンが説くイデア論の意義 第9回

第5章 「美しく善き宇宙」 創造主賛歌と自然宇宙論(後期作品集より)

「パルメニデス」以降の対話篇において、プラトンの主要な思想が「ティマイオス」、「法律」に表明された宇宙論(コスモロジー)と自然哲学にどのように結実したかを見てみよう。前6世紀に始まったタレス(ソクラテス以前の哲学者の一人で、西洋哲学において、古代ギリシアに現れた記録に残る最古の(自然)哲学者であり、イオニアに発したミレトス学派の始祖である。また、ギリシャ七賢人の一人とされる。それまでは神話的説明がなされていたこの世界の起源について、合理的説明をはじめて試みた人だという点にある。すなわち彼は万物の根源アルケーを水と考え、存在する全てのものがそれから生成し、それへと消滅していくものだと考えた。)の自然哲学の伝統との関連も重要である。イデア論は理と共に思惟によって捉えら得た不変の実在と、知覚と思わくによって捉えられるものと区別することであった。この宇宙は必然的に何かの似像であることになる。この宇宙の作り主(神でなくてもいい)は原範型に基づいて作ったに違いない。原範型の説明は不可能としても、似像は「真実らしい」という域にとどまる。すなわち自然学の理論は近似的・蓋然的・確率的たらざるを得ない。アリストテレスは自然学を形而上学・数学とともに観念的な厳密学問に属すると考えたことに対して、プラトンの考えは柔軟で発展的であると藤沢令夫氏は評価している。プラトンは真実の象徴としての似像を積極的に行使し物語形式ミュートスで説明するのである。その最たるものが「宇宙の造り主」の神話イメージである。魂プシューケは知性ヌースの力により美しく善きものの造り主になるという神話的設定である。この「ティマイオス」における造り主による宇宙創造は、無からの創造ではなく無秩序から秩序をもたらすというやり方である。この神話的宇宙論と自然万有の説明に、プラトンのイデア論を関係付ける作業が残ってる。イデアと善が宇宙論全体の根本的な基盤となるであろう。宇宙の構成要素のそれぞれにイデアが実在することはいうまでもない。すべての生成の受容者すなわち知覚される現象界とは「場」という概念が与えられ、流転する現象界のことである。恒久不変のイデアの似像に過ぎない。「場」の記述方式は分有文法は使わず、似像(主語X抜き)文法を使用する。しかしプラトンの「幾何学的原子論」はおそらく荒唐無稽で理解しえない代物であるので説明は割愛する。プラトンは自然主義的無神論を排し、万有の最初の動きは、「自分で自分を動かすことができる動」と定義される魂プシューケー以外ではありえない。魂プシューケー+知性ヌースは「神」に相当する。
「法律」第10巻の自然哲学(自然神学的宇宙論)に中には「万物は神々に満ちている」というが、これは哲学の祖タレスの言葉と同じである。タレス以来、多くの哲学者は始原を追い求め、水から無限、空気と発展的に変遷し、前5世紀の終わりごろデモクリトスの原子論が現れた。物を分解してそれ以上分割できない究極の構成要素を原子といい、その離合集散によって現象界に現れる。従って自然万有の第1次的な基本要因は物であり、精神界は2次的な意味しか持たないことになる。プラトンは原子論に全く言及していないが、自然哲学には強い関心を持っていたようである。近代科学はこの原子論に軍配をあげたとみられるが、当時の原子論にはそれを認識する手立てはなく、とても科学と言えるものではなく、空想の一環に過ぎなかった。プラトンは「ティマイオス」と「法律」第10巻に宇宙論(コスモロジー)を表明した。そのコスモロジーは、善という大原理のもとに魂プシューケーを人間を含めた自然万有の行き渡る動と生命の原理とし、イデアをあらゆるものの意味と価値の原理として、物に補助要員としての位置づけを与える宇宙論であった。プラトンは原子論による物観念の支配を退け、魂の観念を世界観全体の中で哲学的に強化した。

(つづく)