ブログ 「ごまめの歯軋り」

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山本光雄著 「アリストテレスー自然学、政治学」 (岩波新書 1977年)

2015年05月09日 | 書評
万学の祖アリストテレスの神羅万象の知識学ー西洋的知の始祖 第1回

序(1)
岩波書店は、出隆監修・山本光雄編集「アリストテレス全集」全17巻(1968-73年)と、田中美知太郎・藤澤令夫編集「プラトン全集」を刊行してきた。この岩波新書「アリストテレスー自然学、政治学」の著者山本光雄氏(1905-1981年)はアリストテレス全集の翻訳・編集者であった。アリストテレス全集が刊行されて10年後、新書スタイルで「アリストテレス」を書くに至ったそうである。むろん岩波新書は一般向けの啓蒙書である。これから新しくアリストテレスを学ぼうとする私にとって、深い森に分け入る前にアリストテレスの概要を知っておくことは有益なことだと感じられて、この結構古い1977年発行の岩波新書「アリストテレス」を読むことにした。山本氏はアリストテレス理解には、自然学とりわけ動物関係著作から入るとアリストテレス固有の思想が具体的実例で示されているの、初心者には好都合だといわれる。自然学が取り扱う対象は、変化し生成消滅する世界、すなわち運動の世界で「そうあるよりほかの仕方ではありえない存在」という意味では必然の世界である。しかしこれに対して「そうあるより他の仕方でもあり得る存在」という意味で自由な世界を対象にする政治学(倫理学)に進む。そして人は動物であると同時に神にちかい精神(理性)の世界に住むので、論理学と神学(形而上学)に進むべきであるとする。しかし著者は執筆途中で病に倒れられ、本書の著述内容は、自然学と政治学に限られ、形而上学はお預けとなった。さて自然学と政治学に入る前に、アリストテレスの生涯と著作集について概観しておこう。アリストテレスは紀元前384年にマケドニア領に近いスタゲイロス(スタギラ)で生まれた。イオニア系ギリシャ人によって植民された植民都市であ、父はニコマコスといい医師であった。彼の生まれた頃スタゲイロスはマケドニアの支配下にあって、父はマケドニア王アミュンタス三世の侍医で友人であったという。アリストテレスの幼少の頃両親は死んで、親戚プロクセノスの後見で養育された。紀元前367年頃、アリストテレスは17,8歳でプラトンが主催するる「ギリシャの学校」に入学した。当時プラトンはシケリア島のシュラクサイに旅行中で、エウドクソスが学頭代理を務めていた。そしてプラトンに私淑することになり、その付き合いは20年におよび師プラトンの死去まで続いたという。しかしプラトンのアカデミアでのアリストテレスの学習時代のことは何も伝わっていない。アリストテレスがプラトンのイデア論を批判するのに際しても、「親しい人の説を学問の為に壊すのは心苦しいが、真理のための方が大切なのだから」と師に対する尊敬の念を表明している。キケロによると、アリストテレスはイソクラテスの弁論を打ち破るために学問と弁論に磨きをかけ、それがマケドニア君主ピリッポスの目に留まり、皇子アレクサンダーの教師として招聘されたという。プラトンの死後アリストテレスは同門のクセノクラテスとともにアッソスに旅行をし、その地の君主ヘルミアスの歓迎を受け教師として3年間活動した。40歳に近い年齢であったアリストテレスはヘルミアスの姪と結婚したが、すぐに妻は亡くなり別の女性と結婚し息子を設けた。息子の名を祖父にちなんでニコマコスと名付け、この息子が「ニコマウス倫理学」を編集したといわれる。紀元前343年マケドニア王ピリッポスは当時13歳の皇太子、後のアレクサンダー大王の師として招聘され、マケドニアの首都ペッルラに移った。アレクサンドロスの即位(紀元前337年)後、教師としての役割を終え、翌年アリストテレスはアテナイに戻った。しかしプラトンの創始になるアカデミアにはもどらず、リュケイオンという自分の学校を創設した。この学校の特色は散歩しながら議論をするところからペリパトス(逍遥学派)と呼ばれた。当時アテナイを支配していたマケドニア朝総督アンティパトロスの庇護を得た。紀元前323年東方遠征中のアレクサンダー大王があっけなく病死するまでの12年間は、アリストテレスおよびアレクサンダー大王にとって黄金の12年間と言われる。それほど両者の活動が充実していた時期であった。アレクサンダーの死後、反アレクサンドロス派によってアリストテレスは涜神のかどで告訴された。学校をテオプラトスに任せてアリストテレスはカルキスに亡命した。母方の邸宅に身を寄せたが、ほどなく胃病で亡くなった。時に62歳であった。

(つづく)