ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 藤沢令夫著 「プラトンの哲学」 (岩波新書1998)

2015年05月05日 | 書評
西洋哲学の祖プラトンが説くイデア論の意義  第7回

第4章 「汝自身を引きもどせ」 反省と基礎固め(後期作品集より) (その1)

岩波文庫の版切れで入手不可能といわれ、実は私はまだプラトン後期対話篇は1冊も読んでいない。それで本書に従って言及することにする。「パルミデス」に「しかし君はいま、自分を引きもどして。もっと訓練を積みなさい」とエレア派の長老パルミデスとゼノンと対話して、こう説教されたという。まだ若いソクラテスという設定であるが、あきらかにプラトンのイデア論の不備を指摘され、やり直しを命じられたという格好である。エレア派学派は、その主要な代表者であるパルメニデスとゼノンの居住地である南イタリアのギリシア都市エレアにその名を負っている。パルメニデスの手によって、自由思想の精神は、形而上学的な方向で発展したといわれ、この派の最良の成果はプラトンの形而上学によって取り入れられた。思考によってのみ、感覚による虚偽の見かけを超えて、存在についての知識、すべては一であるという根源的真実に到達できるのであるという。プラトン学者の中にはイデア論が致命的な打撃を受けて再起不能となったというが、イデアが多数あるということは「イデアを分有する」が「類似」とみなされるので不可であるというゼノンの批判についてのプラトンの見解を検討しよう。ゼノンの批判により、ソクラテスが対話相手をアポリアに追い込んだように、イデア論がアポリア―(行き詰まり、困惑)に陥ったと理解される。それは矛盾といえるし、そう付け込まれる理論の不備・あいまいさがあったというべきであろう。問題の核心は、「第3の人間」のアポリアー(アリストテレスの言葉)と、そのあとの「分有する」を「似ている」に置き換えることへのパルメニデスの拒否があったことである。一つのイデアには、もう一つ別の大イデアが現れ、それが無限に繰り返される。この無限進行のアポリアーの矛盾を突かれたと言える。「パイドン」で提示されたイデア原因論では「美そのもの(美のイデア)を除いて、他の何かが美しいなら、それは美そのものを分け持っている(分有)からにほかならない」と美そのものを適用除外している。アリストテレスの「第3の人間のアポリアー論」はこの点を無視している。「分有」用語の記述方式「個物Xはイデアφを分有することによってF(性質)である」では、個物が主語でイデアを持つ前に個物は存在していなければならない。イデア論では性質Fとそれがあってこそのイデアφとの区別が、不明確であるという点がどうしても避けられない。個々のFはイデアφではないことを了解させることが難しい。だからイデア論はトートロジー(同義反復)」だといわれる。そこで若いソクラテス(プラトン)はイデアが原範型(現物)で個々の事例はその似像であるという主張をするのだが、パルミデスにより無限進行のアポリアーだと一喝され、ソクラテスは不承不承力量負けを承服した。若いソクラテスは指摘に答えることができずに、「やり直して、もっと訓練を積みなさい」という勧告を受け入れたという。イデア論が個物Xを主語に立てる分有の記述方式による限り、常識的思考の個物X と性質Fとの区別に押し戻される類同化されるという事態となったのである。まだプラトンは常識的見方を打ち破ることはできなかった。だから理論の基礎固めを要請された。

(つづく)