アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

「琉球処分」とは何だったのか?

2013年10月07日 | 日記・エッセイ・コラム

PhotoPhoto_2 「沖縄にとって『琉球処分』は何だったのか」と題する講演とシンポが6日、那覇市内でありました。たんなる歴史学の再検討ではありません。いま「琉球処分」を問い直す意味はどこにあるのでしょうか?
 手元の解説書では「琉球処分」はこう記されています。「1872年の琉球藩設置から、1879年の沖縄県設置をへて、1880年の分島・増約問題までの明治政府による一連の政策を『琉球処分』とよんでいる」。さらに、「この言葉には、当代日本国家の琉球に対する姿勢が如実に現れている。そのことから近年では客観的な歴史を示す『廃琉置県』『琉球併合』などの用語が使用されている」。
 シンポで波平恒男琉球大教授、大城宜武キリ学名誉教授は、「1872年の琉球藩設置」に焦点を当てました。明治政府は本土ではすでに1871年に「廃藩置県」を行っているのに、それと逆行するようにその翌年に「琉球藩」を設置した意図は何だったのか。波平氏は「琉球藩設置」という記述そのものが正確ではないとし、「琉球藩王冊封」と言うべきだと主張しました。冊封とは当時中国(清)が琉球をそうしたように、国王同士が上下関係を結ぶことです。では琉球藩王を冊封したのは誰か。日本の王、つまり天皇(明治天皇)です。それまで琉球は独自の王を頂点とする王政国家であり、日本の天皇とは何の関係もありませんでした。それを1872年に冊封することで日本の天皇制に組み入れたのです。そうしておいて、中国との外交を禁じ、それに従わないことを口実に、松田道之処分官を派遣し、武力を背景に琉球併合を断行したのが1879年です。大城氏は、「琉球国を日本の版図とみなす明治政府にとって、『琉球処分』は『王政復古』の最後の一片だった」と指摘しました。「琉球処分」は琉球を新たに日本の天皇制に組み入れる併合手続きだったのです。
 波平氏はさらに、これは明治政府の対朝鮮政策と酷似していると指摘、「琉球処分を東アジア史のマクロな視点」から再考することが必要だと強調しました。そして、今後沖縄が目指す「自決・独立」も沖縄だけのナショナリズムではなく、東アジアに共通するアイデンティティに着目する必要があると述べました。
 教科書が教える歴史は、基本的に権力者の側の視点です。沖縄の近・現代史も例外ではありません。その問い直しが、「自立・独立」論の高まりとともに、新たに始まろうとしています。
 (右の写真は大城氏が解説した琉球処分当時の風刺画。豚(中国)の上の亀(琉球)を日本人<松田道之>が必死で引き離そうとしています)

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