アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

日曜日記235・「国境なき医師団」に学ぶ

2023年02月05日 | 日記・エッセイ・コラム
   

 3日のNHK「アナザーストーリー」は、現在アフガニスタンやミャンマー、ウクライナなどで活動中の「国境なき医師団」を取り上げた。

 1971年、フランスの医師、ベルナール・クシュネールら13人によって発足した。創設以来のその信条と実践には大きな学びがあった。

 原点の基本精神は、「声を上げる」だ。

 医師であるクシュネールらが、紛争地の患者の治療に使命感を感じたことは自然だったかもしれない。しかし、彼らはそれにとどまらなかった。なぜそのような状況が生まれるのか、何が求められているのか。彼らは「声を上げる」医師団だった。

 当初は見向きもされなかった。それが大きな注目を集めるようになったのは、ルワンダのジェノサイドに対してルモンド紙に出した意見広告(1994年5月)からだった。

 日本で医師団の活動を始める中心的役割を担ったのは、「主婦」(当時)の寺田朗子(さえこ)だった(写真中の右)。1992年、4人で事務局が発足した。

 しかし、日本でも初めはまったく注目されなかった。メディアも取り上げなかった。
 それが変わったのは、阪神・淡路大震災(1995年1月17日)だった。

 寺田らはトラックを苦労してチャーターし支援物資を送るとともに、現場への医師の派遣を募った。阿形茂(筑波大病院)が呼びかけに応えた。数千人の避難所に、医師は阿形1人だった。これが日本における「国境なき医師団」の活動の始まりだった。

 寺田や阿形らの活動を支えた信条は、「無関心が人を殺す」

 看護師・白川優子は2010年に医師団に参加した(写真右)。

 イエメン、シリアなど紛争地に入り続けた。医療の手が足りない。いくら治療しても患者は尽きない。「戦争を止められないジレンマ」を痛感した。そんな団員は少なくないという。

 一時は退団も考えた。その白川を支えた決意は、「声を上げられない現地の人たちに代わって私が声を上げる」だった。
 白川はこれまで以上に医師団の活動を日本の人々に、とりわけ青年たちに伝える活動に力を注いでいる。

 医師や看護師のお世話になったことがない人はいないだろう。紛争地・戦地でのその活動の尊さと大変さは想像に難くない。「国境なき医師団」はボランティアで現地へ赴く。生命の危険も顧みず。

 何か少しでも協力できないだろうかと、毎月ほんとうにわずかだが寄附させてもらって、10年近くなるが、その歴史、精神はこれまで知らなかった。寄附とともに、医師団に連帯して私にもできることがあると分かった。

「声を上げ続ける」ことだ。

 修羅場の現場で日々苦闘している医師・看護師たちに心からの敬意を払いつつ、この日本に居ながらだが、自分なりに「声を上げ続ける」ことで、つながっていきたいと思う。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« NATO事務総長は何をしに日本... | トップ | 「舞台作り」してきたウクラ... »