アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

日曜日記271・「岡正治性暴力問題」を考える

2023年10月15日 | 日記・エッセイ・コラム

  「長崎の平和運動家」と言われてきた故・岡正治氏の性暴力問題には衝撃を受けた(11日のブログ参照)。

 広河隆一氏などの例もあり、「平和・民主勢力」とされてきた人物の性暴力はけっして特異なことではない。が、今回のことには特別な要素が加わっている。それは「岡まさはる記念平和資料館」との関係だ。

 もちろん「資料館」が岡氏の性暴力と直接関係しているわけではない。しかし、無関係でもない。

 1つは、今回問題になっている性暴力は2020年に被害者本人がウェブで告発し明らかになっていた。「資料館」の理事ら関係者は少なくともその時点で知っていた。にもかかわらず3年間放置してきた。

 この点については休館を告知した「資料館」の文書(10日付)で自己批判が行われているので、ここではこれ以上触れない。

 もう1つの問題は、「資料館」と岡氏の一体性だ。

「資料館」は設立(1995年10月1日)以来今日まで岡氏を賛美し続けてきた。そもそも「設立の趣旨」には、「この平和資料館は、日本の無責任な現状の告発に生涯を捧げた故岡正治氏の遺志を継ぎ、史実に基づいて日本の加害責任を訴えようと市民の手で設立されました」と明記している。

 確かに「資料館」は日本で稀有な存在であり、その存在意義は今回のことがあってもなんら変わらない。ネトウヨがいかに攻撃をかけようと揺らぐものではない。

 しかし同時に、これまで「資料館」を訪れ感銘を受けた人たちに複雑な思いをもたらしていることも事実だろう。
 
 私もその1人だ。自分が感動しただけでなく、このブログでも「資料館」を紹介・推奨した(2015年12月19日付)。忸怩たる思いだ。

 全国から訪れ感想を寄せた修学旅行生らは、今回のことを知ってどう思うだろうか。

 「資料館」関係者は、これまで(2020年以前)、岡氏の言動に疑問・不審を感じたことはなかったのだろうか。「たんなるうわさ」と聞き流すようなことはなかったのだろうか。

 いまさらだが、初めて「資料館」の存在を知り訪れたとき、感銘を受けながらも1点、首をかしげることがあった。それは名称に「岡まさはる」という個人名が冠してあることだ。

 もちろんその時点で岡氏がどのような人物か分かっていたわけではない。というより、「資料館」が言うように「立派な平和運動家」と思っていた。だが、どんなに立派な人物でも、資料館(博物館)に個人名を冠することには抵抗がある。作家や芸術家などの個人作品を展示する記念館ではない。日本の加害の歴史を知らせる資料館だ。その名称に個人名は不要だ。いかに「意志を継いでいる」としても。

 岡氏の個人名を冠した「資料館」の名称は、「資料館(関係者)」の中に岡氏への個人崇拝があったことの表れではないだろうか。

 個人崇拝は権威への拝跪と表裏一体だ。その典型は言うまでもなく天皇制だ。

 「平和・民主」を標榜する運動・組織・政党にも個人崇拝はある。それが問題に気付いても指摘を自粛させ表面化させない権威への服従につながる。

 それが、「平和・民主陣営」内に性暴力が絶えない1つの原因ではないだろうか。

イスラエルが地上攻撃を開始しようとしている。さらにおびただしい犠牲者が出る。その現実を前にしながら、何もできない無力感。ただただ一刻も早い停戦を祈るばかりだ。原因・経過の如何を問わず、あらゆる戦闘・戦争に反対する。
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