アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
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「対馬丸記念館」と天皇の危うい関係

2024年08月23日 | 沖縄と天皇・天皇制
   

 1944年8月22日、「国策」による疎開で、沖縄の学童、教員ら1788人を乗せた対馬丸が米潜水艦の魚雷で撃沈され、名前が判明しているだけで1484人(うち学童は784人)が犠牲になりました。対馬丸事件です。

 那覇市若狭には対馬丸記念館があります。事件の概要を知り、犠牲者を追悼する重要な記念館です。が、同館には天皇との浅からぬ関係があります。

 記念館が設立・開館したのは2004年8月22日。それには次のようないきさつがありました。

 1997年12月12日、対馬丸が悪石島沖水深870㍍の海底で発見された、という一報が、橋本龍太郎首相(当時)に届けられました。

「首相は直ちに皇居に向かった。上皇さま(当時は天皇陛下)が犠牲になった学童らと同世代で疎開経験もあり、思い入れが深いと知っていたためだ。…船体の発見を陛下は大変喜ばれ、歌にされた」(16日付沖縄タイムス=共同、表記はママ)
 その歌とは「疎開児の命いだきて沈みたる船深海に見いだされけり」。

 対馬丸を引き揚げるかどうか検討されました。その背景には天皇明仁の「思い入れ」があったと推測されます。結果、「政府は引き揚げは不可能と判断。代わりに対馬丸記念館が那覇市に建設され、2004年に開館した」(20日付京都新聞夕刊=共同)のです。

 2005年4月、橋本龍太郎氏は対馬丸記念館を訪れ、天皇明仁の歌のいきさつを話しました。そのことが「対馬丸通信」(第8号=05年8月22日発行)に大きく掲載されています(写真左)。
 同通信には、開館1周年を記念した企画展で、天皇の歌が大きな額縁に入れて記念館に贈られたことも写真付きで紹介されています。

 今年5月に同館を訪れたとき、入口正面に明仁天皇・美智子皇后の写真が飾ってあったことを書きましたが(5月16日のブログ参照)、同記念館(対馬丸記念会・遺族会)と天皇の強い親和性がうかがえます。

 明仁天皇と皇后は2014年6月27日、初めて同館を訪れました(写真中)。
 天皇・皇后は15人の生存者・遺族と「懇談」し言葉をかけるとともに、近くの対馬丸慰霊塔「小桜の塔」に向かいました。

 ところが、同じく米軍に撃破された民間船舶を慰霊する「海鳴りの像」(写真右)には行きませんでした。戦時遭難船遺族会が事前に宮内庁にぜひ天皇に訪れてほしいと要請していたにもかかわらず。「海鳴りの像」は記念館のすぐ裏にあり、「小桜の塔」よりはるかに近いにもかかわらずです(2014年6月28日のブログ参照)。なぜなのか。

「1962年から対馬丸事件の遺族に対し見舞い金の支給などがあった。しかし、対馬丸以外の撃沈船舶の犠牲者遺族への補償は十分とはいえず、中には補償を受けていない遺族がいる現状があり、軍人軍属の戦没者等と比較するとその扱いに大きな差がある」(吉浜忍、林博史、吉川由紀編『沖縄戦を知る事典』吉川弘文館2019年)

 対馬丸記念館には国家予算からの助成があります。同館は開館のいきさつ以来、天皇(明仁)の「思い入れ」がありました。他の民間撃沈船舶の犠牲者とは扱いに差がある、いわば“靖国化”された側面があるといえるのではないでしょうか。

 14年に天皇・皇后が訪れた際、生存者らとの「懇談」が演出された中、これに出席することを拒否した生存者がいました。昨年7月に亡くなった平良啓子さんです。「戦前の教育(皇民化教育)を考えると、足が向かない」。それが平良さんが天皇・皇后との「懇談」に応じなかった理由でした。

 今年4月、同館の館長に平良次子さんが就任しました。平良啓子さんの次女です。平良館長はこう述べています。

「対馬丸だけでなく、他にもたくさんの船舶が遭難して多くの命が失われ、遺族もたくさんいる。疎開や他の戦時遭難船舶についても、この記念館で調査して発信する場所にしていきたい」「80年前の疎開と同じことが繰り返されようとしていることが悲しい。私たちは今の動きに敏感にならないといけない。戦争に対する一切の準備をするな、と強く言いたい」(22日付沖縄タイムス)

 平良館長の下で、同記念館が大きく脱皮し、沖縄戦および敗戦後の沖縄軍事植民地化と天皇(制)の関係(「天皇メッセージ」を含め)についても展示され学習できる場になることを期待します。
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