アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

日曜日記185・「当事者である」ことと「当事者になる」こと

2022年02月20日 | 日記・エッセイ・コラム

 在日総合誌「抗路」(発行者・尹健次氏)最新号(9号)は、「「在日」と市民運動」を特集している。その中の「韓国♯MeToo運動と日韓関係」と題する論稿で、佐藤雪絵さん(早稲田大学大学院)は、「韓国と比べ、日本において♯MeToo運動が盛んでないことは明らか」とし、その理由の1つが、「日本では、(性差別の)当事者が当事者になることができない」ことにあると指摘している。

「この社会に、性差別の当事者でない人はいない。差別する者、差別される者、傍観する者、抗議する者―あらゆる人が当事者である。しかし、すべての人が当事者になっているわけではない。あらたな「人間関係の網の目」に飛び込み、当事者になることは、勇気のいることである。

 それでも、この社会で当事者になる人を一人でも増やさなければ、性差別のトラウマを克服することも、「慰安婦」問題に真摯に取り組むこともできない。事実、わたしは♯MeToo運動を見守り続けてきた。情けないことに、見守るしかできない人間だったのである。

 しかし、社会を変えたいと願うならば、この文章を書いているわたし自身が、まず当事者にならなければならない。そして、当事者になりつづけなければならないのである」

 「当事者である」ことと「当事者になる」ことは本質的に違う。誰もが「当事者である」が、「当事者になる」人は多くない。「当事者になる」には新たな「人間関係の網の目」に飛び込まねばならない、と。

 障がい者の立場から「当事者研究」をすすめている熊谷晋一郎東京大准教授は、「当事者になる」には、①責任問題ではなく構造問題としてとらえる②抽象的ではなく具体的に③密室ではなく共有する―という「3つの態度設定」が重要と強調している(『臨床心理学・増刊第9号』金剛出版2017年)。

 熊谷氏と対談した國分功一郎東京大准教授は、「当事者研究は「生きていくこと」自体を不断に研究するものですよね。かつてその機会を奪われた人たちが、剥奪された機会を奪還するのが当事者研究と考えることもできます」と述べている(同上)。

 熊谷氏が強調する「密室でなく共有する」とは、佐藤さんが言う新たな「人間関係の網の目」に飛び込むことに通じるのだろう。

 傍観者にならない。性差別・性暴力と自分自身の関係を凝視し、主体的にかかわっていく。新たな「人間関係の網の目」に飛び込み、人々と問題意識を共有し、ともにたたかう。それは「生きていくこと」そのものであり、人間性を奪還すること。

 性差別だけでなく、あらゆる差別、あらゆる社会の不条理、不正義に対し、「当事者になること」が問われているのだと、改めて思う。

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