アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

日曜日記159・「防衛白書」と楠木正成と天皇・「認知症」者の意思とは?

2021年08月01日 | 日記・エッセイ・コラム

☆「防衛白書」と楠木正成と天皇
 今年の「防衛白書」の表紙の絵が、楠木正成の銅像と酷似していることがネットで話題になっているそうだ(7月26日付共同配信)。言われてみるとそっくりだ。防衛省は「特定のモデルはいない」と言っているそうだが、どう見ても楠木正成がモデルだろう。また、そうウワサされること自体が、防衛省の狙いではないだろうか。

 なぜなら、楠木正成は歴史に名高い「忠臣」すなわち天皇に忠誠を誓った武将だからだ。歴史人名事典には、「後醍醐天皇の倒幕運動に早くから参加し、鎌倉幕府討伐に貢献。建武の親政(1333)下で天皇に重用され、忠心に殉じた悲運の闘将」とある。だからこそその銅像は皇居の外苑に置かれている。

 これは防衛省・自衛隊による天皇への「忠誠心」の表現ではないか。10年前の東日本大震災で、天皇と自衛隊の距離は急速に縮まった(6月22日のブログなど参照)。それから10年の節目の「防衛白書」が「忠臣・正成」を連想させる絵を表紙にしたことは意味深長だと思う。

☆「認知症」者の意思とは?上野千鶴子氏の問題提起

 上野千鶴子氏(社会学者)がEテレ「100分de名著」で、ボーヴォワールの『老い』の講師をした。その第4回(7月19日)で、「死の自己決定」に関連してこう述べている。

 「現在、医療の現場や厚生労働省は、リビングウィルや人生会議なるものを推進しています。本人の意思に反して延々と延命治療する「尊厳なき死」を避けるのが目的だとしていますが、認知症の場合、認知症になる前に書いたものを「本人の意思」とみなすかどうかは判断がむずかしい。というのも、認知症になった人たちは、過去がなくなり、未来がなくなるので、死への恐怖がなくなります。それに認知症の人が自ら死を望むことはほぼあり得ません。となると、認知症になる前の自己決定が自分を拘束することになります」(同番組のNHKテキスト)

 放送された番組の中では、「今の私が将来の私を決めていいのか」とも言った。

 うーむ、やっかいな問題だ。

 母は「認知症」および老衰が進行する前に、「延命治療」を拒否する意思を示した。それにもとづいて、グループホームのかかりつけ医師にも、ホームのスタッフにも、その旨伝え、文章にもしている。これが母の「意思」を示す唯一のものだ。

 しかし上野氏は、「認知症」者の以前の「意思」は必ずしも現在の本人の「意思」とはいえないと言う。むしろ「延命」こそが現在の望みではないかと言う。

 それも一理あるように思える。が、「認知症」者には「死の恐怖がない」「自ら死を望むことはあり得ない」は、果たしてそうだろうかとも思う。実際、母を見ていても、どこまで分かっているのか、何を考えているのか、周りの者には分からない。実は「早く楽になりたい(死にたい)」と思っていないとは言い切れないのではないか。上野氏も断言できないはずだ。自身、「認知症」になったことはないのだから。

 現在の「本人の意思」を確かめようがないとき、家族・周りの者はどうすればいいのか?
 そして、誰もが「認知症」になりうる世の中、そうなる前に「延命」に関する「自分の意思」を事前に書き残しておくことははたして正しいことなのだろうか?

 


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