アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

日曜日記161・「九州大生体解剖事件」のドラマ化で「戦犯裁判」を考える

2021年08月15日 | 日記・エッセイ・コラム

 1945年5~6月、九州帝国大学(現九州大)で米軍の捕虜8人を生きたまま解剖する人体実験が行われた(いわゆる「九州大生体解剖事件」)。それをドラマ化した「しかたなかったと言うてはいかんのです」が13日夜放送された。

 原作は熊野以素『九州大生体解剖事件・七〇年目の真実』(岩波書店2015)。主演は妻夫木聡、蒼井優。生体解剖に立ち会った(立ち会わされた)鳥巣太郎助教授が主人公のモデルだ。

 軍隊と主任大学教授という絶対的権力の下で、抵抗できずに手術に立ち合い、敗戦後、戦犯として死刑判決を受けた(のち、朝鮮戦争勃発によるGHQの思惑で減刑)。
 「戦争だから仕方がなかった(のでは?)」という言葉に対し、主人公が苦悶の末発した言葉がタイトルになっている。

 これ自体、たいへん重要な問題提起だが、ここではドラマを見ながら考えたそれ以外の2つのことを書く。

 1つは、「司令官の責任」だ。

 劇中、捕虜を殺害した部隊の司令官(中将)が、「部下の罪は私の罪。何もしなかった(止めなかった)罪もある」といって自ら罪を認め、処刑される場面がある。このセリフを聞いてすぐ脳裏に浮かんだのは、天皇裕仁のことだ。

 当時の国家元首であり大元帥だった天皇裕仁こそ、侵略戦争の総司令官だった。その裕仁の戦争責任は、極東国際軍事裁判(東京裁判)ではまったく取り上げられず、今日に至るも不問・隠ぺいされている。これが東京裁判の最大の欠陥(特徴)だ。
 劇中の司令官が美化されているのとは裏腹に、戦犯裁判の歴史からは、裕仁が免罪された事実こそ想起しなければならない。

 もう1つは、旧植民地の人々の「戦犯」問題だ。

 ドラマは鳥巣(劇では鳥居)助教授の戦犯裁判がいかに理不尽かがテーマだったが、戦犯裁判の理不尽さを言うなら、日本が植民地支配していた朝鮮半島、台湾の人々が、それゆえに「日本兵」とされ、捕虜監視などの任務につかされ、それをもって戦犯として処刑された事実ほど理不尽なことはない。

 戦犯裁判では、「朝鮮人148人、台湾人173人が、戦犯となっている。全有罪者4403人(死刑・無期・有期)に占める朝鮮人・台湾人戦犯は、7・3%にものぼる」(内海愛子著『朝鮮人BC級戦犯の記録』岩波現代文庫2015年)

 朝鮮人戦犯148人のうち、軍人は2人(死刑と有期刑)、通訳として徴用されたのが16人(死刑8人、有期刑8人)、129人は捕虜収容所の監視員として集められた軍属だった。
 捕虜監視員として集められた朝鮮人青年は3224人にのぼり、そのうち3016人が南方へ送られ、うち129人が戦犯となった(内海氏前掲書)。この「朝鮮人監視員の高い戦犯率」自体に、朝鮮人に対する差別がくっきりと表れている。

 天皇裕仁の戦争責任が棚上げされ、日本の植民地支配が全く裁かれず、逆に旧植民地の人々(朝鮮・台湾)が「戦犯」とされことは、「戦犯裁判」の最大の問題点である。それはいずれも、今日の日本の政治・社会を規定している根本問題に通じている。


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