アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

「9・1朝鮮人大虐殺」の実態が不明なのはなぜか

2021年08月31日 | 侵略戦争・植民地支配の加害責任

    

 98年前の1923年9月1日、関東大震災のどさくさの中、日本政府(内務省)や新聞各紙の流言飛語(デマ)によって、多くの朝鮮人が「自警団」(写真左)などによって虐殺されました(写真右は毎年東京・墨田区で行われる「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典」のもよう)。

 いったいどのくらいの人が犠牲になったのでしょうか。その詳細な実態は、いまだに明らかになっていません

 内閣府の中央防災会議の文書は「殺傷事件による犠牲者の数は掴めないが、震災による死者数の一~数パーセント」としており、それで計算すると「千~数千人」ということになります((西崎雅夫著『証言集 関東大震災の直後 朝鮮人と日本人』ちくま文庫2018年)。

「不十分な調査でも、6600余人の朝鮮人の死亡が確認されている」(中塚明著『これだけは知っていきたい日本と韓国・朝鮮の歴史』高文研2002年)とも言われていますが、詳細は不明です。

 西崎雅夫氏(前掲書)によれば、同じく震災時に虐殺された中国人については、詳細な調査が行われ、「中国人被害者総数は758名、うち死者は667名」という記録があります。中国人犠牲者の調査が行われたのは、一命をとりとめた被害者の一人が上海に帰国し、すぐに調査委員会を立ち上げたからです。

「だが朝鮮人は、植民地であったため、生き延びて帰国(朝鮮半島へ―引用者)した人々に発言の自由はなかった。帰国して虐殺事件を伝えた何人もの人が「治安維持令」違反で逮捕・起訴されたという記録が残っている
 こうして虐殺された人々の遺族や知人が沈黙を強いられたため、真相は闇に葬られた。遺族は今日に至るまで、肉親の消息を知ることができずにいる」(西崎氏、前掲書)

 それだけではありません。犠牲者遺族のもとには遺骨も返されていません。

「犠牲者の遺骨の行方すらわからないのは、日本政府の事件隠蔽方針のためだった。朝鮮総督府警務局が1923年12月に作成した極秘文書の中に、殺された朝鮮人の遺骨をどう「処置」すべきかの政府方針が5項目にわたって書かれている。その最後の項目には「五、起訴セラレタル事件ニシテ鮮人ニ被害アルモノハ速ニ其ノ遺骨ヲ不明ノ程度ニ始末スルコト」とある(国会図書館憲政資料室・斎藤実―当時の朝鮮総督―文書より)。虐殺犠牲者の遺族にとって、あまりにも無残な政府方針ではないか」(西崎氏、前掲書)

 虐殺直後の朝鮮総督府(写真中)の状況についてはこんな記述もあります。

 当時ソウルにいた浅川巧(1891~1931、植林、民芸紹介などで生涯朝鮮のために尽力した日本人)の日記によれば、浅川は総督府の上司に呼ばれ、こう命令されました。

「今回の東京での災害について朝鮮人の或者のとった態度(「放火」のデマー引用者)は同情の余地絶対に無い。かりそめにも同情するが如き様子があってはならん。彼等朝鮮人の反省を促すためにきびしく責めなくてはならん」

 流言飛語をもとの被害者を加害者に仕立てるものです。

 浅川は「これには同意できない」と日記にきっぱり書いています。(高崎宗司著『朝鮮の土となった日本人 浅川巧の生涯』草風館、2002年より)

 「9・1朝鮮人大虐殺」の犠牲者数はじめ詳細がいまだに不明で、遺骨も返されていないのは、虐殺の加害の事実を隠ぺいする日本政府の一貫した方針と、自由な発言を許さない朝鮮総督府(天皇直属)による過酷な植民地支配という、日本の二重の歴史的罪の結果です。

 その罪は今も償われていません。今からでも「9・1朝鮮人大虐殺」の実態を調査し明らかにする歴史的責任が、日本にはあります。

 


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