アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

日曜日記138・「汚職」と政治変革・「CDM」(市民不服従運動)

2021年02月28日 | 日記・エッセイ・コラム

☆汚職追及で政治は変わらない

 菅首相長男の“親の七光り”接待、首相の“親バカ”丸出しの擁護・言い逃れ、総務省幹部連中の平目の忖度、行政の歪曲・私物化…まともに論評する気にもならないこの堕落・腐敗。

 もちろん徹底的に追及しなければならない。が、こんな汚職・不祥事をいくら追及しても日本の政治・社会は変わらない。

 どれだけ汚職・疑獄・スキャンダルが繰り返されてきたことだろう。1953年生まれの私がリアルタイムで見て来ただけでも、ロッキード疑獄、ダグラス・グラマン疑獄、リクルート事件、撚糸工連事件…近くはモリ・カケ・サクラ…枚挙にいとまがない。女性問題で指を立てて首相をやめた者もいた。

 その都度、野党もメディアも大騒ぎしたが、それで政治が変わったか?少しは良くなったか? 否である。
 自民党とはかくもどうしようもない連中の集まりだ。しかし、その腐敗した政党が世論調査の支持率では圧倒的な支持を集め、一時期を除いて政権の座に座り続けている。「日本国民」の多くはそんな自民党を支持しているのだ。

 なぜだろうか。政策が問われていないからだ。自民党政治の根幹である日米安保体制(軍事同盟)、大企業奉仕の経済政策、格差を広げる新自由主義という根幹が追及されていないからだ。政策的に自民と大差ない野党にもメディアにも、その根幹を追及する意思も能力もない。

 結果、日本には永年にわたって(少なくとも1960年安保闘争以降)政策論議がない。「日本国民」は永い思考停止状態に陥っている。「汚職追及」は有権者を鍛えない。むしろ思考停止を促進させる。
 ここを変えない限り、日本は変わらない。

☆「CDM」(市民不服従運動)の驚き

 ミャンマーで繰り広げられている市民運動で、「CDM」という言葉を初めて知った。Civil Disobedience Movement の略で「市民不服従運動」と訳されている。
 軍主導政権を機能停止に追い込んでいる労働者の職場放棄だ。始まりは医療従事者だそうだ。銀行も、公務員も続いた。中央政府機関の中には半数以上が職務放棄した部署があるという。
 電力・エネルギー省の女性職員が言っていた。「公務員は国民のために働く存在です。私は国民が選んだ政府のもとで仕事がしたい」。どこかの国の「公務員」とは天と地の差がある。

 昔で言えばゼネストだろう。大きな違いは一般市民が労働者・公務員と一緒にたたかっていること、SNS・インターネットが重要なツールとなって運動が広がっていることだ。

 私の勉強不足はあるが、日本では「CDM」という言葉自体、なじみが薄いのではないだろうか。「Me too」「BLM」も海外からの波で日本でも知られるようになった。日本がいかに市民運動の後進国であるかをあらためて痛感する。

 日本の労働運動、市民運動の永年の停滞の中、SNS時代の新たな運動として、CDMに注目したい。その理論、問題点、課題をもっと学びたい。労働・市民運動後進国から抜け出す手掛かりのために。

 

 

 


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