アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

森発言は「国益」を損ねるから問題なのか

2021年02月11日 | ジェンダー・性暴力と日本社会

    

 東京五輪組織委員会は12日、臨時の理事・評議員合同会議を開き、森喜朗組織委会長の女性蔑視・差別発言について議論します。しかしうその場では森氏の「責任・進退」問題は議論の対象にならないと報じられています。

 冗談ではありません。組織委員会がまずやらねばならないのは、森氏の責任を明確にして「会長罷免」を決議することです。それ以外にありません。理事・評議員は全員、自らの見解を明確に述べ、「森罷免」を決議すべきです。

 問題は森氏だけではありません。

 小池百合子都知事は、森氏の差別発言で多くのボランティアが辞退していることについて、「悲しい、本当に悲しい」(10日)などとまるで被害者のような顔をしていますが(写真右)、本当に「悲しい」のなら、森氏に「会長を辞めるべきだ」と明言すべきでしょう。それをしないで、結果森氏をかばい続けながら、あたかも森氏を批判しているかのようなポーズをとるのは、醜悪なスタンドプレイと言わねばなりません。

 さらに見逃せない発言があります。それは、菅義偉首相と麻生太郎財務相(副首相)の次の発言です。
 「(森発言は)国益にとって芳しいものではない」(菅氏、8日の衆院予算委員会)
 「(森発言が)国益に沿わないことは、はっきりしている」(麻生氏、9日の衆院予算委員会)

 菅氏や麻生氏だけではありません。森氏の辞任を要求している野党側もこう言っています。
 「オリンピック理念に反する発言をした人がトップにいるままでは国益を損なう」(10日のNHKニュース)

 政府、与野党ともに口にする「国益」。いったい「国益」とは何ですか?
 彼らが言いたいのは、森氏の発言は「五輪憲章」に反しており東京五輪開催にとってマイナスになる、それは「国益」に反する、ということでしょう。

 そもそも「国益」すなわち「国家の利益」とは、国家主義の概念であり、人民主権とは相容れません。そのうえ、森発言で「国益」を持ち出すのは、森発言の本質を二重に逸脱するものと言わねばなりません。

 第1に、森発言が重大な問題なのは、「五輪憲章」に反しているからではありません。それは世界人権宣言(前文など)や女性差別撤廃条約(第1条)、さらに日本国憲法(第14条)などに明白に違反する人権侵害・女性差別だから問題なのです。
 森氏は公然と差別発言をおこなったうえ、反省するどころか開き直っています。だから直ちに責任をとって辞める必要があるのです。「五輪憲章」に反していることも明らかですが、「五輪憲章」があってもなくても問題であり、絶対に許してはならないのです。

 第2に、東京五輪開催にマイナスになるから「国益」を損ねるということは、東京五輪を「国益」の視点から強行しようとしていることの証明です。本来、オリンピックは「国家の利益」のためにやるものではありません。それは「五輪憲章」でも明白です(建前にしても)。

 しかし安倍晋三前首相や森氏はじめ政府・自民党は、東電原発事故の重大性を隠ぺいし、自民党政権の浮揚を図り、さらに天皇徳仁の国際デビューの場をつくるという、文字通り「国家の利益」のために、その政治的思惑のために東京五輪を誘致し、コロナ禍の中でも、あくまでも強行しようとしているのです。

 菅氏と麻生氏の「国益」発言は、こうした政権の思惑を露呈したものです。「野党側」がそれと同じ発言を行っていることは、あきれるばかりです。野党の女性議員らは白い服で登院し「抗議の意思」を示しましたが、そのまえに森発言の本質は何かを自ら胸に刻むべきでしょう。

 メディアが一貫してそうであるように(6日のブログ参照)、森発言を「五輪憲章」に反し東京五輪の障害になるから問題だとする論調が流布しています。しかし、それは的外れであるとともにきわめて危険です。森氏が辞めれば問題がなくなり、東京五輪への障害はなくなった、という構図がつくられかねないからです。

 「国益」のための東京五輪などきっぱり中止すべきです。そして森発言の本質を明確にし、森氏と、森氏をかばう者たちの責任を徹底追及し、差別を許さない社会をめ目指すべきです。

 


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