あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

水上源一 『 昭和維新運動ノ捨石トナロウト決心シマシタ 』

2018年11月02日 05時34分54秒 | 暗黒裁判・二・二六事件裁判の研究、記録


水上源一

水上は北海道瀬棚郡に生まれ、函館商船学校から日本大学専門部政治科を経て、
昭和九年三月同大学法学部政治学科を卒業し、弁理士を営んでいた。
もっとも、収入は月に二、三○円程度にしかならず、郷里の実兄の援助で生計を維持していたという。
事件当時二七歳の彼には、妻と一人の娘がいた。
水上は、学生時代に共産主義思想が跋扈していることに危機感を抱き、
政治 ・経済・社会問題の研究を始めたが、
やがて日本の資本主義経済機構に問題があるのではないかという認識を持つようになった。
革新運動に入った動機について、
彼は法廷で次のように述べている。

・・・・昭和五年ロンドン條約ニツイテハ、
 最初對英米日率最低七割デナケレバ國防ノ安全ハ期シ得ラレズト主張シ居リタルニ拘ワラズ、
ツイニ六割何分ニテ條約ヲ締結シタルガ、
コレニツイテモ米國政府特使キャッスルガ直接日本ニ乗リ込ミ來リテ誘惑シ、
結局當時ノ内大臣牧野伸顕ラハ同特使ヨリ多額ノ金員ノ提供ヲ受ケ、
ワガ全權ヲシテ譲歩セシメ、一方統帥權ヲ干犯シ、
以テカカル屈辱的條約ヲ締結スルニ至ツタノデアルトイウコトヲ聞キ、
更ニ、斯ノ國ヲ擧ゲテノ關心タル満洲事變勃發シ、
而モ出征兵士ノ家族中ニハ幾多悲惨ノ生活者アルノトキに當タリ、
財閥ハ國家國民ヲ思ワズドル買イニヨリ私ニ巨利ヲ博シタル如ク、
即チ、政党、重臣、財閥等特權階級ハ、何レモ彼等ノ私利私欲ノタメニハ、
天皇モ國家モ、國體モ國民モ全然顧ミナイトイウ有様ニシテ、
是等ハ既ニ國民ノ常識ト迄ナッテ居ルノデアリマス。
茲ニ於テ私ハ、彼等ノ爲メニ歪メラレタル國體ヲ何トカシテ匡サナケレバナラヌトノ氣持チヲ抱クニ至リマシタ。
是、私ガ昭和維新運動ヲナスニ至ツタ、抑々そもそもの動機デアリマス。
水上も当初は合法的な運動を考えていたという。
しかし、意見を発表してみても、少しも反応がない。
これではとてもだめだという気持ちになりかけていたところに、
昭和七年五月、海軍士官らによる犬養首相暗殺事件が起きた。
いわゆる五 ・一五事件である。
水上は言う
・・・・マツタクコレニ共鳴シ、
自分モ直接行動ニヨリ、所謂昭和維新運動ノ捨石トナロウト決心シマシタ。」

水上は、同年五月中央 ・早稲田 ・慶応などの学生に呼びかけて、
救国学生同盟を組織した。

その綱領は、
①  一君万民制の確立、
②  資本主義機構の改革
などであったが、彼の目的は、
真に維新運動の捨石となるべき人物を選び出すことにあったという。
参加者は四〇〇人にも達したが、
彼はその多くが自己の利益のために参加していることを知って失望し、
同年末にはこれを解散してしまった。
その後水上は、後述の救国埼玉挺身隊事件の関係者として検挙されたが、
釈放後の昭和九年二月には合法的政治団体の日本青年党を、
また同年一〇月には在郷軍人の有志を集めて関東郷軍同志会をそれぞれ結成した。
しかし、官憲の圧迫がひどく、活動らしい活動はほとんどできなかったという。
水上は、昭和八年五月宇垣朝鮮総督暗殺計画の関係者として、約一月間西神田警察署に留置された。
また、同年一一月の救国埼玉挺身隊事件
・・・郷里の熊谷市で同志を指導していた吉田豊隆が、同志とともに、
  昭和八年一一月四日川越市で開催される立憲政友会関東大会に来会する同党総裁鈴木喜三郎の暗殺を企てた事件で、大会前日に検挙された。
浦和地裁は、翌九年七月、吉田を懲役二年、他の六名を懲役いちねん六月から一年に処した。
宮本彦仙 『 社会思想の変遷と犯罪 』 ( 司法司法研究報告書集二〇輯一三号、1935年 )  354頁参照)
( ・・・リンク→ 救國埼玉挺身隊事件 )

では、二月余りもの間埼玉県内のあちこちの警察署に留置されたが、
最終的には嫌疑が晴れて釈放されている。
水上が栗原と知り合ったのは、
昭和七年一二月幹部候補生として歩兵第一聯隊に入隊した友人山内一郎 ( 日大生 ) の紹介による。
爾来水上と意気投合し、山内や、後に埼玉挺身隊事件を起した吉田豊隆 ( 拓大生 ) らの同志も加えて、
国家改造運動についてしばしば協議していた。
栗原が指導するこのグループは、昭和八年九月二二日夜半を期して戦車数台を含む軍隊を出動させ、
西園寺公望、牧野伸顕ら重臣 ・政党首脳 ・財界人らを襲撃する計画を立てていた。
これは西田税から察知され、厳しく叱責されて、暴発寸前で中止させられている。
実は、埼玉挺身隊事件は、この軍隊の出動中止に飽き足らない吉田らが企てた、
民間側同志のみによるテロ計画であった。
牧野らをなぜ奸賊と認めるのかという裁判官の質問に対して、水上は次のように答える。
私ハ、我ガ國體ヲ考エ、
陛下ノ大御心ハ國民全體ヲシテ均シク恵擇せしむベキモノト信ジテオリマス。

然ルニ現狀ハ、一方ニ大富者アリ、他方ニ貧者アリ、一様ニナッテオラヌノデアリマス。
是、何故カト申シマスニ、コレハ畢竟スルニ翼賛ノ方法惡シク、
且、大御心ヲ中途ニオイテ横取リスル牧野、齋藤ラノ
元老 ・重臣 ・財閥ソノ他ノ特權階級ガアルタメニ外ナラヌノデ、
此の點より観察し、是等の者は奸賊なりといい得ルト思イマス。

水上は、現在の心境を次のように述べる。
今回ノ事件ハ餘りニモ大キク、陛下ノ大御心ヲ悩マシ奉リ、
 國内ヲ一時ニモセヨ不安ノ思イヲサセタコトニツイテハ、誠ニ申譯ナイト思ッテイルモノデアリマス。
シカシナガラ、私ノ從來ヨリノ信念ニハ是ガ爲メ少シモ影響スルトコロナク、微動ダモシマセヌ。

( ワレワレガ ) 今日ノコノヨウナ境遇ニ立チ至ッタノハ、輔弼ノ責メニアル者ガ、
私ラ同志ノ本當ノ氣持チヲ陛下ニ奏上シ奉ラナカッタニヨルモノト思イマス。
元老、重臣ラハ陛下ト國民ノ間ニ介在シ、中斷シテ、
上聖明ヲ覆イ、下國民ヲ苦シマシムルノ一例證デアリマス。
身ハカカル輔弼者ノタメニ現在斯様ナ境地ニアリマスケレド、
コノ度決起シ、牧野ヲ襲撃シタ點ニツイテハ、コレガ殺害ノ目的ヲ遂ゲナカッタニセヨ、
維新運動史上何ラカノ役割ヲ果タシタモノト思ッテオリマス。
將來維新實現ノ實ガ見エナケレバ、如何ニ宏ナル牢獄ヲ次々ニ増築スルモ、
トウテイ私ラ同志ヲ収容シ盡クセナイデアロウ。
必ズヤ牢獄ハ内部ヨリ破壊サルルニ至ルモノナルコトヲ、信ジテ疑イマセヌ。

・・・二・二六事件湯河原班裁判研究  松本一郎   ・・・から
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二月二十六日ノ行動ニ就イテ述ベヨ
私ハ二月二十四日午後三時頃、
歩兵第一聯隊ノ栗原サンヲ久方振リデ訪問シタトキ、
「 明晩當直ダカラ 遊ヒビニ來イ 」 ト 云ハレマシタノデ、
同志綿引正三ト二人デ面會ニ行キマシタ処、
「 今日ヤルゾ 」 ト云ヒマシタカラ、
何時ダト問ヒ返スト 「 明朝四時ダ 」 ト答ヘシマシタ。

ソシテ、軍服ト着替ヘロト言ハレルニ侭ニ、
其ノ部屋ニアッタ軍曹肩章附着ノ軍服ト着替ヘ 編上靴、巻脚絆ヲ穿ケマシタ。 
内ニ同志ガ集ツテ來マスシ、輕機ヤ拳銃、彈薬等ガ運バレ、
私ハ日本刀ヲ持チ、

二十六日午前零時四十分頃、皆ト共ニ河野大尉ノ指揮ヲ受ケ、
牧野伸顕殺害ノタメ湯河原伊藤旅館別館ニ向ヒマシテ同家ヲ襲撃シマシタ。
襲撃時ニ於ケル状況ヲ述ベヨ
私達ハ隊長ヲ先頭ニ目的地タル牧野ノ宿舎ニ参リマシテ門前ニテ区署ヲ受ケ、
私ト綿引、宇治野ノ三名ハ、表カラト云ワレ、勝手口ノ板垣ノ横カラ侵入シ、表玄関入口ニ向ヒマシタ。
ソノ時、隊長ト同志ニ ( 宮田、黒田 )ハ 勝手口カラ入リマシタ。
私達ハ表玄関ニ行キ、私ハ日本刀ヲ、綿引ハ足デ硝子戸ヲ破壊シテ居リマスト、
中カラ銃聲ガ聞コエマスノデ 「 ヤッタナ 」 ト 思ヒ、
屋内カラ 「 畜生ヤリヤガッタナ 」 ト 言フ聲ガシタノデ、

敵ガ彼方ヘ集中シタト感ジ、ヤラレテハ大變ダト勝手口ニ向ハウトシタ時ハ、
共ニ來タ二人ハ其処ニハ居リマシタノデ、
ソレデ私モ直グ勝手口ヘ廻ッタトキ、隊長ガ中デ同志ニ助ケラレテ出テ來ルノヲ認メマシタ。
私ハ其ノ時 「 輕機来イ 」 ト 大聲ヲ發シマシタラ、輕機 ( 中島 ) ガ 降リテキテ勝手口カラ飛込ミマシタ。
ソコデ私ハ、屋内ヲ指示シ 「 敵ハ向フダカラ撃テ 」 ト 言ヒマシタガ 銃ノ故障カ彈丸ハ出マセンデシタ。
ソコデ私ハ輕機ガ使ヘナケレバ駄目ダト感ジ、
隊長ヲ探シマスト玄関前ノ所デ屈ンデイタノデ隊長ノ許ニ行キ、

「 火ヲツケマス 」 ト云ツテ、前ノ塀ヲ乗リ越ヘテ、
玄関脇ノ物干場ニ行キ干物ヲ下ロシテ火ヲ付ケントシタガ干物ガ湿ツテイテ駄目ナノデ・・・・( 以下略 )
襲撃ニ加担スルニ至レル動機ハ如何
私ガ日本大學ニ入校シマシタ當時、
校内ニ於テ、學生ガ共産主義ヲ云々シ、演説練習ニ共産党理論ヲ口説シ、

畏クモ皇室ノ尊嚴ヲ冒瀆スルガ如キ言辭ヤ私有財産制度ノ非認ヲ云々スルガ、
學生間ニ非常ナ拍手感動を與ヘテ居ルノデ、田舎出ノ私ニハ共産党トハ如何ナルモノガ分ラナカッタガ、 
皆ニ向ツテ日本ハ他國ト國體ヲ異ニシ 立派ナ國ノ筈ダトテ國體観ヲ述ベタガ弥次ラレテシマッタ様ナ狀態デ、
當時ハ各大學共左翼化シ來テイタ時代デアリマシタ。
ソレカラ私ハ共産党ノ理論ヲ研究シテ見タガ、私ノ國體観ガ正シイノダト信ジマシタ。 
然シ、コウシタ學生間ノ叫ビノ内ニ我國ノ何処カニ欠陥ガアルヨウニ感ジマシタ。
ソレカラ一度議會ノ傍聴ニ行ッタ際、神聖ナルベキ國会議場ガ、
マルデ政權爭奪ノ修羅場ノ如クデアルノデ、
コレハ立派ナ政治ガ行ハレナイト感ジマシタ。
ソレハ田中大將ノ張作霖爆死事件等議場ノ問題トスベキモノニ非ザルニ、政權爭奪ノ具ニ供シ、 
議会ニ於テ暴露スルガ如キハ徒ラニ國際關係ヲ惡化スルモノト思ヒ、政党に對スル不満を抱ハヨウニナリ、
又、續イテ起ツテ来タロンドン軍縮會議ニ於ケル政府特權階級ノ私利私欲ニ基ク屈辱的條約ニ締結
及ビ政党財閥ニヨル弗買ヒ、満州事變時ニ於ケル塩賈事件等
私利私欲ノタメニハ國家國民モ眼中ニナキ輩 ( 特權階級 ) ニ對スル不満ヲ一層感スルニ至リマシタ。  
ソレカラコノ儘テハイケナイ、何ントカセネバナラヌト考ヘタガ如何トモ出キマセンデシタ。
其処デ私ハ昭和七年五月十六日、自ラ主唱シテ學生間ニ愛國團體 救國學生同盟ヲ設立シ、
事務所ヲ千駄ヶ谷ニ置イテ合法的運動デ進ンデイマシタ。
當時ノ會員ハ日大、拓大、中大、早大、慶大等デ、約4百名アリマシタガ、之ハ、既ニ解散シ、
昭和九年二月十一日 日本青年党ヲ設立シ、同十年八月郷軍同志會ヲ設立致シマシタ。
コウシタ私ノ氣持ガ今回ノ事件ニ加担シタ主因トナツテ居リマス。
オ前ト栗原中尉トノ関係ハ如何
ソレハ昭和七年十二月友人ノ山内一郎ガ幹候トシテ歩一ノ十中隊ニ入隊シマシテ、
ソノ月ノ半頃 山内ニ面會ニ行キマシタ際 「 中隊ニ君ノヨウナ氣持ヲ持ッテイル將校ガ居ル、
會ッテ見タラドウカ 」 ト 言ワレタノデ、ソレデハト言ッテ將校室ニ行キ栗原サンニ會ッタノガ初メテデ、
其時オ互ヒニ信念ヲ語リ會ヒオオイニ共鳴スル処ガアリマシタノデ、爾來今日迄同志トシテ交際シテ居リマス。
今回ノ事変ニ対スル計画ニ参與シ非サルヤ如何
私ハ今回ノ事件ガ如何ニ計畫サレテイタカハ一向存ジマセン。唯實行ニ加ッタダケデアリマス。
指揮官河野大尉トハ面識アリシヤ如何
決行ノ夜 栗原サンニ紹介サレタノガ初メテデ、存ジマセンデシタ。
本件ニ就キ他ニ陳述スルコトハアリヤ
私ノ信念ハ尊王絶對デアリ 今回私達ノ採ッタ行爲に依ッテ皇運ノ益々隆昌ナルコトヲ希フモノデアリマス。
水上源一(自筆)拇印
右讀聞ケタル處相違ナキ旨申立ツルニ付署名拇印セシム
昭和十一年二月二十八日
三島憲兵分隊
陸軍司法警察官  陸軍憲兵曹長 山中梅吉 (印)