世界の中心で吉熊が叫ぶ

体長15センチの「吉熊くん」と同居する独身OLの日常生活

北京を想う

2009年06月04日 22時38分12秒 | Weblog
20年前の今日、6月4日。
天安門事件が起こった。
当時私は小学6年生。

父の晩酌タイムには家族が茶の間に集まり、ニュースステーションを見るのが我が家の常であった。
天安門事件のニュースは、あの番組で観た。
翌朝、朝の会で「天安門事件のニュースを観た人いるか?」という担任の問い掛けに挙手をしたのだから、たしかである。

あれから20年。
早いものである。

田舎の小学生の私にとって、
中国とは…

・四千年の歴史
・ラーメンマン
・近所の子(親が残留孤児で中国から引っ越してきた)

という印象しかなかった。
まだまだ遠い国だった。

この20年で、中国という国と私との距離はかなり縮まった。
私が大人になって中国についての情報を感じる強さが増したのもあるが、何より、あの国の凄まじい発展がそうさせたと思う。
今や、中国製の物を触らない日はないぐらいに、様々なものが私の生活圏内に渡ってきている。
昨年はオリンピックまで開催された中国。

2001年。初春。
私は母とあの国へ行った。

思い出す北京の風景は、いつも靄がかかっている。
曇天とも違う不思議な空の色が頭上に乗っていた。
丁度黄砂が舞う時期だったからかもしれぬが、街全体が黄土色をしていて、大陸という二文字を私に見せつけた。

パンダ、万里の長城、茶芸、京劇、雑技団、ワンフーチン、北京のスタバ、…見るもの全てが面白かった。




ガイドをしてくれたのは、地元の青年。
とても優秀な人で、癖のない日本語で我々を案内してくれた。
彼の提案で、最終日は、フートンという下町に行くことになった。

バスを降り、フートンまでは、人力車で移動をした。

牽いてくれたのは、紛れもなく少年。
ほっぺが赤く、まだ幼い顔立ちの子だった。
ほっぺと同様、彼の手も寒さで赤く膨れていた。
痛々しかった。

母が自分の手袋を脱ぎ、彼に差し出した。
言葉が通じぬせいだろうか、はたまた遠慮をしていたのか、最初は動揺していた少年だったが、はにかみながらそれを受け取った。
私と母を乗せた人力車は細い路地をひた走り、まるで坂がない尾道のような路地で停止した。

フートンでは、人家にお邪魔をし、おばあちゃんと話をした。そして、彼女の息子が買ってくれたというテレビを自慢された。
また、ドアも壁もないトイレを目撃し、驚いたりした。

バスに戻るため、さっきの人力車に再び乗る。

私と母を乗せた人力車を牽く少年の手には、さっき母が差し出した手袋がはめられていた。

一生懸命に、黙々と走る少年。
その背中とその両手を思う度に、どうしてだろうか、…涙が出てくる。


10年近くが経過した今、フートンは取り壊されたらしい。
北京オリンピックの整地のために。

あの少年は、今ごろ、どこで何をやっているんだろうか。

ときどき、あの地を想う。
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2 コメント

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Unknown (亮子&吉熊)
2009-06-06 00:12:14
みな殿

私なんていまだにあの事件の根源的な意味を知りません~。
中国。
面白い国でしたよ。
チャイナドレスが似合うみな殿にオススメです。
でも買い物は満足できませんでした。

パンダは超可愛かったです。
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Unknown (みな)
2009-06-05 22:16:36
天安門、みなは当時あまり社会に対してさほど興味を持っていなかったのでこんなにでかい事件だったとゆーのは、大分年をくってから知ったよ!!

学生時代にきちんと新聞よんどきゃよかったと後悔する現在です。

中国=ラーメンマン
それに1票!!
あとパンダかな~!
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