世界の中心で吉熊が叫ぶ

体長15センチの「吉熊くん」と同居する独身OLの日常生活

平成と私

2019年04月30日 23時45分54秒 | Weblog
いよいよ平成が終わる。
テレビやネットではちょっとしたお祭り騒ぎになっている。
なので私もその流れに乗って、平成という時代を改めて振り返えることにした。

昭和天皇が崩御されたのは小5の冬休みだった。朝からテレビでは特別番組がエンドレスで放送されていたのを覚えている。明治生まれの祖母はとても感慨深くテレビに見入っていた。
そして元号発表。生まれた時からずっと昭和が耳になじんでいたので慣れるまで長い間、違和感があった。始業式に学校へ行くと体育館の舞台上の国旗が弔旗になっていた。黒のリボンを見ながら、校長先生の「新しい時代・平成も『やる気、がまん、思いやり』の三つの種を育てましょう」というスピーチをぼんやりと聞いていた。
小6でもクラス替えがあった。修学旅行は鎌倉と箱根と小田原。雀宮駅から電車に乗り、東京付近でリクルート社が見えたときのことを覚えている。「あ!テレビで見た会社だ!」と一人で興奮していた(リクルート事件のニュースで見た)。それまでも親に連れられて東京には幾度か来たことがあるけれども、窓から見たあのリクルート社のテレビと同じビルの様子が、私の東京への憧れの源だったのかもしれない。時代はバブル。ジュリアナやアッシーくんという言葉を遠い国の言葉のように耳にし、そしてやはり憧れていた。
水曜日に放送されていた「やまだかつてないテレビ」が好きだった。学校にはブローチをして通学していた。50個ほど持っていた。安価なものから高価なものまで。まだ実家にあると思う。
担任(若い男性教諭)は「教師びんびん物語」に感化されていた。ことあるごとにトシちゃんのセリフをまじめにマネするのには失笑を禁じえなかった。「教育とは愛だ」と。小6の小生意気な女子は「はいはい」という様子でスルーをするのがデフォ。そう考えると女子ってませているなと今になって思う。よしもとばななの「TSUGUMI」を読んだのもこのころ。

平成2年に中学校に入学。私たちの学年は奇跡の学年と称えられるほど大人な学年だったらしい。まとまりがあって品行方正だったので、先生たちが生徒たち主体で色々なことに挑戦をさせてくれた。修学旅行も林間学校もグループ行動をさせてくれたのである。宇都宮の中学校では初めての試みだったらしい。そんな中、私は太い三つ編みを長く伸ばし、おとなしく生息していた。ただ爪の長さは母の好みに反して長くけばけばしくするのが好きだったので、ことあるごとにその件で母と喧嘩をした。
進学塾(教学ゼミナール)に通わせてもらい、偏差値を20伸ばしたのもいい思い出。社会(地理)が好きだった。あの頃出会ったわかめちゃん、あやみちゃん、そして3年1組の仲間たちとはいまだにLINEでわちゃわちゃしている。さっきも盛り上がっていた。
このころはドラマ「ずっとあなたが好きだった」の冬彦さん(佐野史郎)が好きだった。

平成5年に高校入学。かんぴょう畑に囲まれた超牧歌的な環境で3年間を過ごした。学校で父の母校でもある。体力がないので電車通学をしていた。愛読書は山田詠美「放課後の音符(キイノート)」。高3の夏、globeの「Feel like dance」で小室さんに惚れた。自由な県立高校だったので、トトロのぬいぐるみのリュックを背負いながら通勤していた。ちょっとした奇人だった。この頃出会った友達とは年に一度、正月か年末に飲み会を開催している。

平成8年、私大に進学。大学まで片道2時間半かけて通学をしていた。専攻は商学。マーケティングと英会話の講義が好きだった。生まれて初めて大学のパソコンでインターネットに触れた。小室哲哉のマーケティング理論についてのレポートがS評価だったのはいい思い出。大学で出会った友達ともいまだに仲良くしている。
小室哲哉愛が過熱、新曲が出るたびにカラオケに行き、友人と奪い合うようにして熱唱。通学時間はウォークマンで小室ファミリーの歌を聴き、林真理子、原田宗典、山田詠美、瀬戸内寂聴の本を読んでいた。
バイト先は実家の近くの飲食店。料理ができないので心配だったけど愛嬌があったのでお客さん受けがよく、辛うじて3年半も続けられた。しかし、同僚に同じ中学だった女子が2名いて、彼女たちからとてつもなくいじめられた。でも彼女たちの言動や行為があまりにも田舎じみていたので意に介さなかった。
稼いだバイト代は化粧品や大学の参考書などで使った。今よりも小金持ちだった。洋服は池袋のメトロポリタンで購入していた。花柄テイストのものを好んで着用。宇都宮の東武百貨店で資生堂のロスタロッタを購入し、愛用していたのもこのころ。小顔効果があると聞いていたのだけれども微妙だった。友達とコスメ談義をするのが好きだった。アニエスの黒バックがとても丈夫でずっと使っていた記憶もある。このころからピンヒールばかりを履くようになる。
3年の4月から就職活動をする。地元でも一応就職活動をしたが、やはり上京したい気持ちに抗えなかった。もっと自由になりたかった。ここでは結婚して子供を産むことが強制させられそうで怖かった。
ペンだこができるほどの枚数のエントリーシートを書いては送り、都内やその近郊の上場企業を中心にリクルートスーツを着て説明会や面接に行った。めでたく内定し、大学を卒業。

平成12年、入社&上京。一人暮らし開始。親にWindows Millenniumも買ってもらった。といっても検索をしたりメールの送受信をするぐらいで今のように酷使はしていなかった。入社後、最初の一年弱は店舗に配属されていた。そこでも先輩にいじめられた。ストレスでまつげが抜けてしまい、景色がまぶしかった。同期もそんな感じの子が多く、当時はあれが当たり前だったのかもしれないと今では思う。
「これは転職するしかないのか」と池袋の書店で就職誌を買った休日の夜、本社から電話があった。本社に来ないかと。正直、超うれしかった。総務部・経営管理室にて吉熊上司のもとで16年間を過ごした。平成29年の6月に今の部署に異動。

そうそう、平成を反芻する上で、最も忘れてはならないのは平成15年、吉熊との出会い。
最初は裸で棚に放置していたのだけれども、母が吉熊にセーターを編んでくれ、着用させたところ、吉熊が「僕、吉熊」と喋ったのである。それからすぐの平成17年、風邪で会社を休んだ日、ひょんなことからブログ「世界の中心で吉熊が叫ぶ」を開設。それ以降のことは、このブログに記載の通りだ。
はやぶさの帰還、嶽本野ばら先生の作品(及びご本人様)や読者さんたちとの出会い、一人旅、甥っ子の誕生、祖父母の死、そして人生で一番高いお買い物であろうマンション購入。

本当に様々なことがあった。
思えば多感な時期から今日に至るまでずっと平成だった。
たくさんの思い出をありがとう。

令和はどんな時代になるのだろう。

大事な親友・吉熊と一緒の旅は終わらない。




以下、私の平成を象徴する音楽。
globe / Feel Like dance



それが大事~完全版~ / 大事MANブラザーズオーケストラ


ジュピター Jupiter 平原綾香 Hirahara Ayaka



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