「歌舞伎入門」に続いて「能・狂言入門」が今日から始まった。ビデオ録画をしかけて、通院。毎週土曜日が通院日なので毎週録画する予定。
今日の午後の通院の合間にテキストの4回放送分全部を読んだ。今年の講座は従来のように能と狂言を分けずに観世清和、山本東次郎という現代の能と狂言の代表者によるお話と演技で解説をすすめる形をとるとのことだった。
そして今回のテキストを読んで一番「目から鱗」だったのは「能と狂言は別々の演劇なのか、あるいは二つで一つの演劇なのか、議論の分かれるところです」というところだった。狂言方の中にも「能とは別の演劇」と考える人もあるし、「能と共にある狂言」を実践する人もあり、山本東次郎家は後者を堅持する家だという。東次郎さんは「能と狂言は根元で繋がり、お互いに必要不可欠」だという。「能の緊張をほぐすため、幕間的な意味で狂言があるといった皮相な見方が横行した、不幸な時代が長く続きました」ともあり、まさにそのようなイメージが私にも強かったのだった。
また、能の世界が家元制度で継承されたのも事実だが、「後継者は子どもとは限らない。能のこころを知るものが後継者である」という考え方がとられ、血統と実力主義のバランスがまことに見事な世界だという。さらに近年では能と狂言においても新作が意欲的に上演されているとのこと。
今までの先入観がなくなり、イメージが刷新できた今、毎週の放送を観ていき、いろいろと勉強していこうと思った。
漫画『ガラスの仮面』で出てくる芝居「紅天女」も来年あたり、能の新作としての上演がされるという話も耳に入ってきているが、その辺から能も観にいけるようになるかなとも思っている。それともやっぱりオーソドックスに古典から観に行った方がいいのかしら。
表紙は05年度『日本の伝統芸能』テキストの表紙(再掲)。
先日お貸しした梅原先生の本で、世阿弥について1章が立っています。読んでね。
代々木に勤務していたころは、月に2回くらいのペースで通った時期もあります。
あの国立能楽堂がオープンして一年くらいしてから通いはじめました。初めて能楽堂に足を踏み入れたとき、「これは理解は難しい」と感じましたが、他方でその音楽(囃し方)のすばらしさに感動したことを鮮明に覚えています。能楽の価値は理解できませんでした。これを理解するには最低五年は通う必要があるとそのとき覚悟しました。最初は結構、睡眠をとらせてもらいました。五年通えば何か見えてくると腹をくくって。
今も理解は浅いのですが、5年ではだめで7,8年経ってようやく睡魔がどこかに行くときがきました。
死ぬまでに、能楽はもう少し理解したいと思っています。この芸術と本当に仲良くなるには、私にとっては一生の課題かも知れないです。(一時期は、結構たくさんの解説書も買いました。)
このブログを始めて、いろいろな方と出会い、交流が始まり、刺激を受けて、能・狂言へも興味が湧いてきたのです。ブログを始めてよかったです。maeさんにいろいろと教えていただき本当に感謝しています。
渋谷にも観世能楽堂とかがあるようですし、入門講座などもbunkamura企画などであるようですし、機会をみつけて初体験してみたいと思っています。
mae様、yukari様、コメントありがとうございます。7~8年がかりでの修行が必要ですか~。うーん、そんなに辛抱できそうにないなあ。寝てしまうと損をした感じがするケチな私としてはイヤホンガイド大事なんですよ。でも確かに囃し方の聞こえ方はかなり悪くなるのはわかってます。
昨日は古本屋で『さわりで覚えるオペラの名曲20選』加藤浩子著CD付きというのを買ってきました。もうオペラも能・狂言もいっぺんに手を出すのは無理かなと弱気になる私。
そうだ、オペラの字幕のように能・狂言も字幕が出るといいかも。とにかく聞き取れないんだもの、歌詞が。意味不明だと寝てしまう。それだと時間の無駄とか思ってしまう貧乏性なのでした。だから貧乏だと高尚な文化を楽しめないのよね。無駄が大事という世界だろうし...。まあボチボチ少しずつかじっていきます。
能はもうすぐ、NYのメットでのオペラみたいに、前の席の背もたれの後ろに詞が出るようになるらしいです。(5月6日に朝日カルチャーで聴いた住太夫講演で、国立の人がいっていた)その後、様子みて文楽にも導入するようになるらしいです。朗報だと思いますね。義太夫語り以上に、能の詞は聞こえませんね、どこの訛りとも違う独特な宗教的なアクセントですから。そういう力が能楽にはあるらしいです。私的には、オペラの方が聴きなれた曲もおおいし、入りやすいと思いますよ、蝶々夫人とか、乾杯の歌とか。
でも、能狂言や文楽見て、歌舞伎と比べるのも面白いです。来週は、友枝昭世の「安宅」、「勧進帳」と比べてきますね。ブログで知り合った、yonet35さん(感激・観劇記)やららさん(steptext)もいくとのことで楽しみです。
TBだけで、コメント遅くなりまして申し訳ありません。
なんだかこちらのコメントを拝見していると、我慢という言葉が何度も目につきますが、私としては我慢して見る必要はないと思いますよ~。能の謡も、全部分からなきゃ、と思って聞いてません(^^;) 事前に詞章を一度読むぐらいで、後は「なんとなくこんな感じ」というイメージで見ています。
私としては元々「理解する」「分かる」芸能ではなくて、「感じる」芸能なんだろうな、と思っています。よく薪能などで「分からへん~」と言ってる方もいますが、最初は何か一箇所分かれば、と思っています。理解だけで観るには、能楽師になるぐらいの気概で勉強する必要があると思いますし、それでは「楽しむ」には程遠いのではないでしょうか。
私は能・狂言の鑑賞歴はやっと5年。今でも面白くない能や狂言は面白くないと思いますし。睡魔には当然にように襲われています。でも時に「こんな能や狂言が見たかったんだ」と思える舞台があって。だからまた通うのでしょうね。
ぴかちゅうさんは、どちらかというと理性で舞台を鑑賞するタイプだから、難しく考えすぎるのじゃないですか。
私も、歌舞伎を観始めたきっかけは、三味線と鼓の音が気持ちいい~、でした。あの音色やリズムが、私の中に、ぴたりと嵌った。それが快感で、観続けてるわけです。勿論知識は増えましたが、今だって、義太夫なんか言ってること、あんまりわからないですよ。というか、言葉を聞き取ろうと無理に集中してませんから。
西洋の演劇は、理性で理解したほうがよさそうですが、日本の演劇は、そもそも神様とつながるものですからね。
とりあえず、先入観なしに体験してみたらいかがでしょう。官能を揺さぶられる瞬間が、きっとあると思います。
私のダンスの先生が、初めてお能をご覧になって、もちろん、話もなにもわからない。眠くて困ったけれど、あのすり足の動きが凄かった。そうおっしゃっていました。ひとによって見る所、感じ方は違って当然と思います。
そのうち、初お能、ご一緒しましょ。
息子が高校二年のとき、お能鑑賞会があって、席に余裕があるので保護者の方もどうぞ、ってお誘いがあったのですが、行っとけばよかった。(親はタダだった。)だから、お能は息子に先越されてます。
この3月までいた職場に国立能楽堂にせっせと通っている方がいて、急用で行けなくなった時に私が歌舞伎を観てるのを知っているのでチケットさしあげますから観てくださいませんかとお声をかけてくれたことがあったのですが、急だったのと心の準備ができていなかったので別の方に行ってもらったことがありました。その方も詞章を読んでから観ているとのことでした。継続して観ていくとそういうのも手に入ってさらに深く観ることができるんだなと思った次第です。
元々ガリ勉人間でその上に貧乏性ときているので、やはり頭で理解しないといけないし、そうでないと満足できなくて損した気分になってしまうのですね。
さらに目で見るよりは耳からの方がすっと入る人間なので動きが少なくてもオペラは楽しめそうな気がします。お能も耳から入れてみましょうかね。
能・狂言の字幕が出るようになっていくという情報も朗報です。イヤホンのようにお囃子の邪魔にならないからとてもありがたいですよ。
bunkamuraで超初心者でよさそうな企画があったけど
、またそういうチャンスがあれば、行ってみますね。お茶屋娘さん、お子さんの大学企画なども引き続きアンテナ張っててくださいね。