冒頭の写真はル テアトル銀座歌舞伎二月花形歌舞伎公演の筋書の表紙。ポスターチラシの写真に蜷川実花を起用した企画の一環で中にも実花さんの写真が効果的に使われている。亀治郎のお染と染五郎の与兵衛の写真がA4版の見開きいっぱいに使われているのにはさすがに驚いた。花をあしらっての写真のイメージで文字の中には花模様が散りばめられている。こんなお洒落な筋書は見たことがないと感心至極。
さて、今回の「お染の七役」亀治郎奮闘公演の記事にご質問をいただいたので、それにお答えも兼ねて書かせていただく。
奈河彰輔氏の寄せた文章「改補『お染の七役』改亀治郎版」より以下、引用。
「鶴屋南北作の『於染久松色読販』は、文化10(1813)年3月、江戸森田座で初演、お染久松の恋物語をスペクタクルな世界に書き換えた傑作である。昭和に入って前進座の5世河原崎国太郎の為に拵えた渥美清太郎本は、早替りが手際よくアレンジされている。テキストレジーは最良の脚本だが、澤瀉屋がやる以上は独自の切り口が無ければ・・・と上演台本の再検討から手をつけた。南北の原作は、お家騒動がドラマのベースになっているが、渥美本はその部分を割愛してまとめている。猿之助の構成は、2つのお家騒動(注:久松の家とお染の家の両方と思われる)を土台とし、人間関係をはっきりさせて、ストーリーを組み立てる事を最重点にし、奥座敷と蔵前を、大道具の工夫により、早替りとお芝居をたっぷり盛り込んだ見せ場にした。(中略)そして今度市川亀治郎によって、18年ぶりで改めて陽の目を見ることになった。(以下、略)」
上記の文章から、南北の原作、渥美清太郎本、奈河彰輔本の特徴がおわかりいただけると思う。
並ぶ猿之助が寄せた文章にも以下のようにある。
「これを“猿之助四十八撰”の新演出十集に選んだのは、人間関係を明確にするため序幕の「柳島妙見」から七役すべてを登場させ(原作はお光・貞昌・お六は出ない)、「油屋裏手」にもお六を出すなどの改定を加えたこと。また牛黄義光の刀をめぐるお家騒動の筋も解き易くしたいと、原作を検証して新バージョンを拵えたからである」
このあたりが、猿之助の復活狂言の魅力だとつくづく思う。猿之助は役者としては台詞回しもあまくうまくなかったと思うが、プロデューサー・演出家としての能力がずば抜けていると思う。亀治郎という澤瀉屋の芸の継承者を得て、プロデューサー・演出家としての力をこれからも長く発揮し続けてもらいたいと願っている。
筋書きの冊子には、特に記載無しということですね。
ウィキペディア以外は検索せずに、ご質問を書き込んでしまいました。
コトバンクの「奈河彰輔とは」
http://kotobank.jp/word/%E5%A5%88%E6%B2%B3%E5%BD%B0%E8%BC%94
「1931-昭和後期-平成時代の歌舞伎作者,演出家。
昭和6年10月6日生まれ。昭和32年松竹に入社,関西歌舞伎の企画・制作を担当。39年から古脚本の復活を手がけ,鶴屋南北作「慙紅葉汗顔見勢(はじもみじあせのかおみせ)」などを制作した。京都南座支配人をへて,63年松竹取締役。大阪出身。阪大卒。本名は中川芳三。筆名は中川彰。」
Wikipediaの「奈河 彰輔(ながわ しょうすけ)」でも本名がありましたよ。「1964年から復活狂言の台本を手がけ、3代目市川猿之助と組んで「伊達の十役」「小笠原騒動」などを制作。」
「慙紅葉汗顔見勢」=「伊達の十役」のはずです。海老蔵が猿之助に教わって上演したのを観ています。
お名前の件に戻りますが、「奈河彰輔」は歌舞伎作者としてのペンネームでしょう。ご指摘の「奈河亀輔」に敬意を表しているのかもしれません。本名の「ナカガワ」に音が近いというのもあるかも。さらに筆名でもともと「中川彰」を名乗っていたので「亀」のところを「彰」に置き換えてつくった名前なんじゃないかと推測します。
こういうことを推理していくのがけっこう好きなので、いい機会になりました。有難うございましたm(_ _)m
「独自の切り口」・・・・そうでしょうね。
古典劇を復活させ、新たに息吹を与えるうえでも、役者の個性を存分に活かす工夫は不可欠でしょうね。観客を魅了するためにも。
昨日、図書館で部分コピーしたのを読んでいました。
『日本の古典芸能8 歌舞伎 芝居の世界』(平凡社)の中の、「様式の展開」(権藤芳一)の章です。
きっかけは、歌舞伎の型・様式への関心からなのですが・・・
読んでいて、宝暦歌舞伎の中で、奈河亀輔という作者のことが出てきました。『伽羅先代萩』の作者だということをこれを読んでいて私は初めて知りました。
奈河彰輔氏は、この作者との継承関係があるのでしょうか。単なるネーミングのもじりなのでしょうか・・・
ウィキペディアでは、この関係性については言及していません。
作者紹介などに何か記載はありませんでしょうか。