1945年に太平洋戦争が敗戦という形で終わり、戦後69年で侵略国であったことを忘れた国になった。日本がアジア・太平洋諸国を侵略した事実を反省して国民の歴史としてきちんと担える国民を育てない政策が実を結んだのだと思う。
戦後歴代の政権が認めてこなかった「集団的自衛権」をもつ国になると、憲法解釈を変更する閣議決定を行ったことを、日本帝国主義の犠牲になった国々はどう受けとめるだろうか。
アメリカによる占領の時代に、日本の非軍事化を途中でやめて手下の同盟国に仕立て上げるように対日占領政策が転換され、以来、属国のような同盟国になっていた。
憲法を改悪しようとする勢力は、アメリカに押しつけられた憲法だから変えるのだと言い、アメリカがそれには難色を示すと、アメリカの顔をつぶさないで実質的に改憲してしまう、「解釈改憲」という手法をとった。
マスメディアに直前まで報道規制の圧力をかけられるように、安倍首相は新聞社のトップなどを会食に招いて釘をさした。よばれる方もよばれる方なのだが断ればそれも怖かったという状況に追い込まれていたのか?さすがに直前になってからは少しずつ安倍政権の暴走を報道したが、突っ込んだ内容にするにはスタッフ陣に相当な覚悟を強いたことが推測できる。
昨日のTV朝日の報道ステーション、今日のTBSのNEWS23も気合が入っていた。今日のNEWS23では「ポイント・オブ・ノーリターン」の日になったという言い方をしていた。
澤地久枝さんのコメントは一部に言い間違いもあったと思う。「もはや戦後ではなく戦前になった」とおっしゃりたかったのだと推測できる。
半藤一利さんも戦前と同じように「自衛のために外に出るということが戦争を起こす」と警鐘を鳴らしていたが、戦前との違いは「国民意識」だと言う。悲惨な戦争を体験した人がまだいること、それによる戦争を厭う意識があるのではないかというようなことをおっしゃっていた。
まさにそこが大事だと思っている。私は今、被爆者の方々の証言をお聞きして記録として残すボランティア活動に参加している。参考になるので原爆小説も続けて読んでいるが、まさに原爆を落としたのはアメリカ政府だけでなく、戦争を起こした日本の軍閥政府だと痛感している。そしてそういう政府をゆるしてきた当時の日本の国民全体にも責任の一端があると思う。もちろん為政者の責任が大きいわけで、それを繰り返させないようにするのもピープルズ・パワーなのだと噛みしめている。
被爆者だけでなく、先の戦争で家族を亡くし戦火で傷ついたり暮らしを奪われた人たち全てが受忍するのではなく、為政者への責任を問い、それを繰り返させない決意をもてるようにしなければと思う。これはなかなか大変なことだ。大体、私の母は東京大空襲で家や財産を失い、疎開して、戦後は苦しい生活を強いられたのに、自分の生活でいっぱいで社会全体をどうこうしようという視点はもっていない。必死で生きてきたことは誉めつつ、そういう限界をもった人であることの限界を理解しているが、尊敬まではできない。それでも母の戦争体験もきちんと記録をさせてもらおうとは考えている。ここでもICレコーダーに活躍してもらおう。
「ポイント・オブ・ノーリターン」の日とはいうが、まだまだここで終われはしない。為政者が勝手に判断して協力した他国の戦争に巻き込まれてしまうことがないように、局面局面での勝負を続けなければならないと新たに覚悟を固めた次第。
冒頭の写真は、職場近くの番町文人通りで見つけた藤田嗣治旧居跡の看板。昭和12年から19年に疎開するまで住んだ所だという。戦争中に軍部の要請で戦争記録画を描いたことを戦後に叩かれた藤田はフランスに移り、帰化して日本に戻らなかったという。ネット検索してみて戦前・戦中、日本では戦争に反対すれば徹底的に弾圧され、軍部に協力すれば戦争協力の責任を戦後、有名人であればあるほど強く非難された。戦争に振り回された芸術家の生涯に思いを馳せた。
Wikipediaの「藤田嗣治」の項はこちら
そして私はあらためて戦争に振り回される人間にはなりたくないという思いを強くした。
澤地さんも尊敬する型です。
藤田も被害者でもあったと思います。写真などで観る戦争画はリアルで悲惨なのに、当時展覧会では彼の絵の前に賽銭箱が置かれて国威発揚に利用されたのですね。
逮捕されたわけでもなく画家仲間に罪を背負ってくれと言われてフランスへ、日本人って自粛してしまうことが恐いです。
彼のアトリエやランスの礼拝堂に行き、アトリエで歌舞伎のレコードや?本など見て日本が恋しかったと思います。私は子供のころから彼の絵に惹かれていました。
日本でも抗議のこういう行動があったのですね。
エスペランティストの由比忠之進さんが焼身自殺、翌日に亡くなられたとか。
本多勝一の「戦場の村」のエスペラント語訳などされていて…
安倍個人の欲でこんな重大なことが簡単に決まるなんて許せません。
私たちは明治から長州閥に支配されているのですね、やり切れません。天皇をすり替えたと言う映画を見た事があります。
彼女の抜きがたい朝鮮半島に対する差別観には教育の恐ろしさを感じていました。父は男女差別も、民族差別も口にしたことはなかったのに。
その時、ショックを受けたのが藤田が戦争画を描いていたことです。藤田が記録画として描いた絵が、軍部によってどのように当時のプロパガンダの一環で使われたかまでは知りません。
ただ、展覧会場で2006年時点での鑑賞感想として、「サイパン島同胞臣節を全うす」「アッツ島玉砕」「血戦ガダルカナル」などの展示作品からは、戦争の悲惨さが伝わってくるものでした。これが戦争の戦意高揚になるのか・・・と思う位です。描き出された絵をどのように見させるか、というところに戦争思想教育があったのではという気がします。
藤田の描いた記録画をもっと見ないと判断はできませんが、藤田のスタンスが理解できるとは思いませんが。絵を手段に利用する軍部による洗脳教育の怖さをあらためて感じます。
「集団的自衛権」という言葉のもとに、なし崩し的に強引に押し進めていく現風潮に、原子力発電の導入における強引ななし崩し的推進とその安全神話教育(マスコミの加担も含めて)というあのパターンを重ねて見てしまいます。
さて、展覧会の折に購入した図録に記載の説明文から、いくつか引用しましょう。ウィキペディアの項には記載のない説明です。(一応、図録での出所ページを付記していきます。)
*戦争が激化するなかで、藤田の卓越した描写力は陸海軍部の注目するところとなり、次第に記録画を委嘱する洋画家の中心的存在となっていった。戦争画への積極的発言も目立つようになり、戦後藤田と日本画壇の溝をさらに深くする原因となった。藤田は前線に度々派遣され、多くの戦争記録画を描いたが、アッツ、ガダルカナル、サイパンでの敗れた戦いを想像で描いた作品に、より強いリアリティが感じられるのは不思議である。 p76
*従軍画家と呼ばれる画家は、日本画家、洋画家あわせて優に80人は越えており・・・p100
*戦争協力への責任論が喧しくなり、戦争記録画を多く描いた藤田一人にその責めを負わせようとする動きが、表に出さないまでも藤田を苛立たせたことは確かであろう。それが日本脱出の大きな原因の一つであったことは勿論である。 p110
→この文の筆者は、それよりも藤田の内的な思いの方を重視しています。
パリがやはり世界の芸術の中心という思いが心中にあった。
狭い日本でなく、パリでの仕事が藤田には世界を相手に闘うことだった。
*1946年4月21日、日本美術会が結成され、書記長に内田巌が就任。内田は日本美術会の決議を携えて藤田を訪ね、戦争画家として責任を追及、美術界の戦犯として、一人でその罪を引き受けるよう依頼したという。(『試論』p355) p110
*1947年2月 連合軍司令部が・・・リストを公表、藤田の戦犯容疑が正式に晴れる。
藤田が日本を離れたのは、1949年5月、ニューヨーク経由でパリに(1950.1)なのですね。
「集団的自衛権」の閣議決定という安倍政権の暴挙以降、しばらくの間、返信する気力の余裕もなくなっていて、大変恐縮至極です。お詫び申し上げます。これに懲りませず今後ともよろしくお願い申し上げます。
★hitomiさま
>明治から長州閥に支配されている......国際連盟脱退の時の日本の全権の松岡洋右、岸信介、佐藤栄作、みんな安倍晋三の家系図に出てきます。
http://episode.kingendaikeizu.net/7.htm
ただし父の安倍晋太郎の父はリベラルな政治家だったため、語られることがないのが皮肉です。安倍というのは北の王者だった安倍一族の末裔、佐藤家は佐藤忠信の末裔という説は興味深いですが。
http://www.kajika.net/wp/archives/863
★茲愉有人さま
この記事を書いたら、職場の後輩が藤田嗣治の戦争画の本を2冊貸してくれました。パラパラとめくってストップしてしまいました。精神的のよほど安定している時ではないとじっくり観ることができないと思い、ツンドク状態が続いてしまっています。
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/02/post-dd37.html