2月のさいたま市報の裏表紙=浦和区版の方の表紙に、「浦和区懐かしの一場面-浦和区の今昔-」ということで我が母校の写真が掲載された。
そこの紹介文を引用して以下、ご紹介する。
「浦和第一女子高等学校の発祥は、明治33年に設立された埼玉県高等女学校で、現在の埼玉会館の地にあった鳳翔閣を校舎としました。翌年、浦和高等女学校となり、県内女子教育の中核を担います。
現在の高地に移転したのは明治43年ですが、この当時は良妻賢母が女子教育の国家理念とされていました。
昭和23年、浦和第一女子高等学校と改称して『浦和一女』と呼ばれるようになり、現在は、自由や個性を重視した次代を担う女性の育成が教育目標となっています。
正門から浦和駅に向かう坂道は、おしゃべりをしながら楽しそうに歩く一女生の姿から『あひる坂』という愛称がつけられています。」
上の方のセピア色の写真は、国立国会図書館蔵の大正10年発行の『埼玉県写真帖』にある埼玉県立浦和高等女学校とある。
実は、私の1年生の時のクラスの部屋はこの校舎にあった。当時は1学年9クラスで、本校舎からはみ出た1学年の3クラスだけこちらの旧校舎にあったのだ。窓は上下に開く通称「ギロチン窓」だったし、掃除の時も床が木だったのでやりにくかったのであまり嬉しくはなかった。また生徒会本部室や一女祭実行委員会室、いろいろな部室もあって、卒業まで高校生活の多くの時間を過ごしたものだ。
その後、この旧校舎は取り壊され、正面玄関の屋根になっている部分だけが移築されて残された。
娘が私立高校で不登校になり、浦和一女の定時制に転校し、私も休職していた4~7月の4カ月を付添登校していた時、あひる坂を上っていって見えるモダンな校舎は、私にとっては寂しさを感じさせた。
2005年7月に保護者の負担で冷房を設置するというPTA総会に参加して意見を述べたこと、2006年3月の卒業式も記事アップしている。
公立高校の共学化について、県に諮問委員会を置いて共学化の答申が出たのに、共学化反対の署名用紙がPTAから来た時は署名しなかった。上記のPTA総会で会長が保護者がみんな共学化に反対しているかのような挨拶をし、当時の県知事(やはり母校のPTA会長経験者)が共学反対運動を激励しているというようなことまで言及されたことにも批判の発言をしておいた。
しかしながら、娘は同じクラスの男子にいじめられたことから不登校になっているので女子高の定時制だったからこそ通えたのであり、一律に共学化をすすめるというのも違うと思っていた。反対運動が起きていない女子高もあったので、そういうところから共学に移行すればよいとも発言しておいたが、その後も共学化の答申は黙殺されたままだ。なかなか日本のジェンダー問題の面での改善はすすまないのが歯がゆい。
しかしながら、やはり女子高時代の仲間は今も有難く、ランチ会やら散策企画や観劇企画などで近況を報告し合い、励まし合って力をもらっている。