ぴか の観劇(芸術鑑賞)日記

宝塚から始まった観劇人生。ミュージカル、ストレートプレイ、歌舞伎、映画やTVドラマ等も書きます。

2010/10/30 蜷川シェイクスピア「じゃじゃ馬馴らし」赤と白の女王も彷彿して反芻

2010-11-12 23:58:49 | 観劇

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【彩の国シェイクスピアシリーズ第23弾「じゃじゃ馬馴らし」】
演出:蜷川幸雄 翻訳:松岡和子
あらすじは以下、公式サイトより引用。
舞台は北イタリアのパドヴァ。若くて美しく、財産もあるが、口の悪さと向こう気の強さではこの町いちばんのキャタリーナを、結婚相手を求めてヴェローナからやって来た紳士ペトルーチオがいかに「馴らして」、従順な妻にするのか。丁々発止のやりとりが見どころのひとつ。
詳細はウィキペディアの「じゃじゃ馬ならし」を参照
今回の配役は以下の通り。
キャタリーナ=市川亀治郎 ペトルーチオ=筧 利夫
ビアンカ=月川悠貴 ルーセンショー=山本裕典
ホーテンショー=横田栄司 グルーミオ=大川ヒロキ 
バプティスタ・ミノラ=磯部 勉 グレミオー=原 康義
トラーニオ=田島優成 ビオンデロ=川口 覚
スライ=妹尾正文 居酒屋のおかみ=岡田 正
領主/ヴィンセンショー=廣田高志
日野利彦、清家栄一、飯田邦博、新川将人、井面猛志、澤 魁士、五味良介、宮田幸輝、石橋直人、荻野貴継

酔っぱらいのスライが領主の悪戯で、酔いから覚めると殿様だと思い込まされ、旅の一座の芝居を観ることになる。その芝居が「じゃじゃ馬馴らし」というわけだ。スライの場面だけが現実的な舞台装置であり、劇中劇にはウフィツィ美術館にあるボッティチェッリの名画「プリマヴェーラ」からのアップを場面ごとにイメージ的に使うという舞台装置。まさに舞台はイタリア!
写真はその「春(プリマヴェーラ)」。キャタリーナの場面では右上の意地悪そうな風の神のいるアップが、ビアンカの場面では上方の天使のいるアップが使われていたのに笑えた。

シェイクスピアの喜劇は、とにかく理屈抜きに楽しむようにして観るのがいい。蜷川幸雄も苦手だったという喜劇を最近は楽しんで舞台にしているように思う。プログラムに「大らかになったんだよ」とあったが、本当にそうだと思う。キャストもスタッフもこれでもかこれでもかというくらいのハイテンションを楽しんでいる。今回のカンパニーも素晴らしい。

観劇後、松岡和子訳の脚本をちくま文庫で読み終えた。訳者あとがきの中で、「ヘンリー六世」の稽古場でグレー夫人役の草刈民代からの質問を受けて、あるセオリーを発見したと書いている。喜劇にしろ悲劇にしろ、息の合った論戦をした男女は結婚するというもの。確かに息が合うかどうかというのは相性のよさの重要なファクターである。私の友のある女性は会話のテンポが速く、ある結婚式で出会った男と異常に話が盛り上がりそのテンポが噛み合うことでこの人だと思って結婚までいったと教えてくれた(男性も私の友人ではあったのだが!)。だから納得至極。
前沢浩子の解説に、ビアンカとルーセンショーの知的な恋愛は古典的喜劇の路線で、キャタリーナとペトルーチオの肉弾的恋愛は民衆的喜劇という対照をなしていると指摘も興味深かった。

現代的なフェミニズムの観点から、キャタリーナが強引な男の従順な妻になるストーリーについて批判もある。
それを従順な妻のふりをして実は夫を操縦しているという解釈もできるし、今回の演出もそういう方法で、最後のキャタリーナの貞淑な妻の演説は亀治郎の見事な剣舞つきの立女形芸として見せ、この二人のタッグの真骨頂の場面となっていて惚れ惚れした。

さらにキャタリーナは何故こういう選択をしたのかという推理をしばらく楽しんだ。まず妹であるビアンカとの関係。月川悠貴のビアンカは透明な美しさとおとなしやかさで姉よりも親に可愛がられている。そのことでひねくれて性格が悪くなっている姉娘ということが、5月に観た映画「アリス・イン・ワンダーランド」の赤の女王と白の女王の関係のイメージと重なる。親に愛されていないという思いでひねくれ、誰からも愛されなくなりながら、愛されたいという思いを募らせていた。キャタリーナも父親に口答えする時の台詞の端々にその思いが滲んでいる。
そこにペトルーチオが金持ちの妻を手に入れるため、じゃじゃ馬と名高い女でも自分には調教できるという自信を持って求婚し実践する。その強引なやり方に辟易したキャタリーナだが、勝手に愛称の「ケイト」と呼び、愛しているとか君のために○○しているのだと言い続けられると、そういう相手でも貴重に思えていったのではないだろうか。
また筧 利夫のペトルーチオは、調教の過程でキャタリーナが芯の通った知性のある女性だということがわかり、どんどん好きになっていくというのが表情や口調からもはっきりわかったのだ。

ただしキャタリーナには、この男は妻が従順でないと気が済まないらしいということが心身への拷問的な仕打ちの中で嫌というほど思い知らされるわけだ。自分を本当に愛してくれる夫は欲しいし、会話のテンポやテンションの高さはピッタリあう。しかしその価値観が亭主関白の極みということであれば、賢いキャタリーナはどういう選択をしたか?!
と考えると、実に実に面白い!
ビアンカの結婚後のルーセンショーへの最後のよびかけの台詞、ドスを効かせた「オイ」で、アリスの映画の白の女王に感じた胡散臭さを彷彿。これから後、ルーセンショーは妻に頭が上がらなくなりそうな予感の漂う幕切れ。
表面的には夫を立てながら巧妙に操縦しそうなキャタリーナとの対照がくっきり!!

男尊女卑のようなストーリーでいながら、シェイクスピアの脚本は、実に人間や社会というものを表も裏もある多面的なものとして描いているからこそ、どうにでも解釈して舞台にできるタフさがある。
シェイクスピア作品に立ち向かうには真面目ではなく、頭を柔軟に面白がって読むといいようだ。まるで噛めば噛むほどおいしいスルメという感じかな。

オールメールシリーズの過去の感想を以下にリンク。
「から騒ぎ」 「間違いの喜劇」